2021年1月歌舞伎座

「夕霧」と「七段目」

 歌舞伎座は今月から四部制が三部制になった。一歩前進。その中で第二部が充実している。最初は先頃亡くなった坂田藤十郎の追善狂言。「坂田藤十郎を偲んで」というサブタイトルの付いた「夕霧名残の正月」である。藤十郎が三代目鴈治郎から念願だった「坂田藤十郎」を襲名した時の披露狂言、今井豊茂が絵入り狂言本から書き起こした三十分ばかりの作品。大坂新町の扇屋の舞台の付いた座敷。始めに仲居たちの埃鎮め、亀鶴以下太鼓持ち三人の踊りがあって、そこへ又五郎の扇屋の亭主、吉弥の女房、寿治郎の番頭が出て、舞台に飾った今日が四十九日の夕霧の形見の打掛を見て、夕霧を偲んでいるところへ、虎之介の太鼓持ちの知らせで藤屋伊左衛門の出になる。鴈治郎の伊左衛門は、浅黄地に裾をぼかした萩の花と観世水の模様、月という一字を崩して肩の辺りに染め抜いた藤十郎通りの紙衣で舞台の橋掛かりへ出る。地方は常磐津兼太夫、一寿郎ほか。虎之介の太鼓持ちから、夕霧が死んで今日はその四十九日と聞いた伊左衛門は、打掛を眺めて一人想いに沈む。夢幻の内に舞台の板羽目が飛ぶと、満開の桜のもとへ扇雀の夕霧が現れる。
 鴈治郎の伊左衛門、扇雀の夕霧。どちらを見ても亡き藤十郎の面影。和事と女形の藤十郎の芸を両面に分けての二人の舞である。「こんな縁が唐にもあろか」と「由縁の月」の一節の辺り、夕霧が履む足拍子が遠く藤十郎を思わせて陶然とさせる。往事茫々たらざるを得ない。夕霧が花道のスッポンに消えると、伊左衛門が一人打掛を持って残るところへ、扇屋夫婦をはじめ一同、山城屋の一家一門が揃って、伊左衛門のさては今のは夢であったかになる。わずか三十分ばかりとはいえ、今更ながら藤十郎を偲ばせる一幕。今月の歌舞伎座のもつとも印象深い一幕である。振付は藤間勘十郎。
 二本目が、吉右衛門の由良助、梅玉の平右衛門、雀右衛門のおかるで「忠臣蔵七段目」。「釣灯籠」からである。京妙京蔵以下の仲居たち四人が入ると、入れ違いに暖簾上手奥から橘三郎の九太夫が出て暖簾の奥を覗いていると、同じく暖簾下手から吉之丞の伴内が出て声を掛けていつもの芝居になる。それが終わって床に葵太夫以下三人三味線一人が出る。
 吉右衛門の由良助は、刀をちらりと見て「九太はもう、いなれたそうな」も、きっぱりと大きく滋味に富む。二階のおかる、縁の下の九太夫を確かめての座っておかるにいう「ようまァ吹かれてじゃのゥ」も独特の巧さで堪能させる。吉右衛門も歳と共に芸風が変わって、初代吉右衛門に生き写しの愛嬌、艶が出て来た。歳を取れば取ったでまたそれなりに別な持ち味が出て来るのが、歌舞伎の芸の面白さ、その変わって行く持ち味が今月一番の見ものである。それが一番よく出ているのは、おかるに「アノ嬉しそうな顔わいやい」とおこついて白扇をポンと開いて顔を隠す所である。「アノ嬉しそうな」と張ってその調子が砕けて軽く「顔わいやい」トントンと前へ体が出てポンと開く扇。その陰で深い思い入れ。おかるを殺す殺意と同時に哀れなという憐憫の情愛が浮かんで消えるところがうまい。それから思い切って気を変えるまで。ここの巧さの艶が初代写しである。二度目の出からは、「獅子身中の虫とはおのれが事よな」の面白さいうまでもない。前の様に張る一方ではなく、運んで行く具合に陰翳がある。今度の由良助のよさは、仲居たちの「由良さん、送ろかえ」という声を聴くとフッと気が変わる、その味である。
 梅玉の平右衛門は二度目であるが、今度はグッと若く一風変わっている。ほとんどカンドコロ以外は義太夫にもあまり付かず、場当たりも避けて、素に近い芝居の運びで、目元涼しい好青年の平右衛門である。たとえばおかるに勘平のことを聞かれて「か、勘平か」と詰まるところなどリアルである。それでも「じゃらじやら付き出して」というところは「さては」と暗然とするところがうまい。その反面おかるに「なぜそんなものを読んだ」とか「命をくれ」「死んでくれ」という辺りは散文的である。今まであまり見かけぬやり方で賛非の分かれるところだろう。この平右衛門に戸惑いつつも、吉右衛門に次ぐ出来は雀右衛門のおかるである。円熟して色っぽく、どこにも隙のない傑作である。ことに勘平への情愛、兄への愛情ともに備わっていい。
 以上二本が今月は群を抜いている。この前に第一部、若手総出の舞踊「新柱建て」と猿之助の同じく舞踊「悪太郎」。後の第三部に白鸚、幸四郎、染五郎の高麗屋三代の「車引」と芝翫、愛之助の「らくだ」。
 「新柱建て」は、今年は浅草公会堂の花形歌舞伎がないので、その顔触れをここに集めた「新柱建て」。なかなか知恵者がいるもので、外題も「寿浅草柱建」。まず中では歌昇の工藤が若いのに立派な貫目を見せて第一の出来。していることにも余裕があっていい。続いて巳之助の朝比奈。後半の姉さん被りの「悪身」は、洒脱さが足りずさすがに手に余ったが、前半の踊りは抜群でこの一幕中のぴか一。隼人の十郎はニンがいい。松也の五郎はやたらに勢いはいいが、それが「力」を表現する「芸」にならずナマナマしい。他に米吉の大磯の虎、莟玉の少将、鶴松の亀鶴と女形はいずれも平凡。なかでは一人最近進歩著しい新悟の舞鶴が一枚うわ手でいい。種之助の茶道珍斎。長唄は杵屋三美郎、柏要二郎ほか。
 続く猿之助の「悪太郎」は、先年浅草で猿之助の初役を見た時は前半の酔態が新鮮かつ面白く大いに笑ったが、今度はどういうわけか上滑りしていて面白くない。わずかに後半出家してから智蓮坊が「南無阿弥陀仏」と唱えるのを聞いて、我が名を呼ばれたと思って返事するところが面白いだけ。ここのところ当たり続けだったのに残念。猿弥の伯父、鷹之資の太郎冠者。福之助の智蓮坊は前半の踊りが素直で品があるのを採る。後半はさすがに猿之助とのカラミについていけなかった。長唄は渡辺雅弘、稀音家祐介ほか。
 第三部の「車引」は、松王丸、梅王丸、桜丸の三つ子の兄弟を、白鸚、幸四郎、染五郎の親子三代に分けるという珍しい企画。年代記ものである。白鸚の松王はさすがに立派。幸四郎の梅王は体に勢い、緊張感がなく、丸味が足りない。この人のニンは梅王よりも桜丸なのだろう。染五郎の桜丸は逆に体に柔らか味がなく、動きも生硬。型をよく身に付けることが大事だろう、弥十郎の時平は、せりふに締まりがなくとかく怒鳴る様に聞こえるのが耳障り。舌を出すのも中途半端で凄味がない。広太郎の杉王丸、錦吾の金棒引き。
  最後の「らくだ」は期待して行ったが面白くない。芝翫の手斧目の半次、愛之助の紙屑屋久六、どちらも面白かろうと楽しみにしていたのに、全三場のうち最初の一場はほとんど笑えなかった。なぜだろうか。いくつが理由があるだろう。一つは芝翫が江戸弁、愛之助が上方弁という設定である。一寸見には面白そうだが、実際はこれがうまく嚙み合っていず、バラバラなために聞いていてイライラする。巧く行けば笑いが取れるのだろうがそうはいかなかった。もう一つは世話物のリアリティが薄い。二人とも観客を笑わそうとして、そっちを向いている。そこで世話物の味が薄くなって笑いを産むべきリアルさがなくなった。幕開きの梅花の糊売り婆とか、男寅の半次の妹とか、松江のらくだとかの芝居が全体に溶け込んでいないのも、そのためである。全体を見る演出家の目が欲しいと思った。やっと第二場になって左団次の大家、弥十郎の女房で笑いが戻って来た。それもこの人たちの腕ならば、もっと笑いが取れるのに演出の突っ込みが足りなく惜しい。第三場になって芝翫の半次が、酒を呑んで態度が変わった久六に閉口する受けの芝居が面白くなった。芝翫と愛之助は役者としての序列は別にして、配役が逆なのかも知れないと思った。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』