2021年10月国立劇場

梅玉の福岡貢

 十月の国立劇場は、梅玉の「伊勢音頭」の通しである。相の山、妙見町宿屋、野道追っ駆け、地蔵前、二見ヶ浦の五場を序幕として通して丁度一時間。三十五分の幕間の後が、大詰油屋と奥庭。音頭の総踊りがカットで、いきなり血染めの貢が血達磨の二人を追って出て前後一時間二十五分である。
 まず相の山から。昔のこの場は黒御簾の賑やかな唄で開き、お杉とお玉の三味線、続いて万次郎たちの「さや豆こう」の華やかさになったが、最近はいささか寂しい。しかし中では扇雀の今田万次郎が二代目鴈治郎そっくりで上出来。つっ転ばしの雰囲気、紫の着付けに揃いの練りの浴衣がけ。その色気、その柔らかさ、この人から騒動が起きるというのももっともな出来栄えである。莟玉のお岸は、丸顔のせいもあって娘々している。古市の廓の遊女、それらしい身のこなしが欲しい。
 幕開きの蝶紫のお杉と梅乃のお玉は、二人共に真っ白に塗って、こちらの方がお岸よりも遊女らしく見えるのは困る。奴林平は萬太郎。梅蔵の杉山大蔵、かなめの桑原丈四郎。
 市蔵の徳島岩次実は藍玉屋北六に又之助の黒上主鈴実は按摩了庵は、二人ともただ大きな声で喋っているだけで、わざと万次郎と林平に秘密に見せながら聞かせて、二人を引っ掛ける感じが出ていない。この詐欺がリアリティがないと、青江下坂の折紙(鑑定書)の行方が転がって行かない。
 次の宿屋ではじめて梅玉の貢が出るが、駕籠から降りる一瞬だけで、さして為所もなくサラサラしている。十七代目勘三郎の貢はこの場がいろいろあって面白かった。
 又五郎の藤浪左膳は落ち着いた出来で、舞台を締めているが、格別面白味はない。幕切れにたしか八代目団蔵の藤浪左膳は、座って扇子の要で袴の膝を捌く技巧を見せたが、そういう工夫がないとこの場はただの筋売りになって味を失う。扇雀の万次郎、萬太郎の林平ともにさしたることなし。この幕、アッという間に済んでしまった。
 続いて追っ駆け、地蔵前の二場。萬太郎の林平、梅蔵の大蔵、かなめの丈四郎の三人が真面目に体一杯動かしての大活躍。この嘘のない真面目さはいいのだが、それだけでは運動会の如くで面白味が足りない。たとえば最初に三人が密書を前に置いて輪になって顔を合わせるところ。一人が手を出そうとすると他の一人に牽制される。それで手が出せない。三すくみ。その動きがいつの間にか黒御簾の囃子に乗って輪を廻る様になる。つまり最初はごくリアルな牽制の動きの部分から入って、それがいつの間にか囃子に乗り、抽象化された動きになる。音楽が入って踊りの様になる。ここが楽しい。今度の三人は一生懸命だが、最初のリアルな部分がない。次いで抽象化される時のノリが悪い。リアルさから抽象化するに従って体が変わらないのと、黒御簾の音楽が一間遅れるからである。そういう訓練と工夫が三人とも足りないからいくら精一杯体を動かしても、楽しさも可笑し味も出ない。
 いよいよ二見ヶ浦になる。宿屋から連れ立った梅玉の貢、扇雀の万次郎の二人が提灯の灯で足許を照らしながら歩いて来るところは、別にどういうところではないが、いかにも夜の海辺の余情があっていい。こういうところが芸の技巧とは別の役者一人一人の持ち味の面白さである。
 その二人が二見ヶ浦に出て来る。そこもいい。
 そこへ追っ駆けの三人が絡んでのだんまりは、もう一つ薄味。秀太郎の万次郎は三人に突き飛ばされて、クルッと廻るところがいかにも喜劇的で面白かった。
 梅玉の貢は、この場の「読めた」の手紙を翳す幕切れで、ようやくこの人店を出した。いかにも伊勢の御師らしい柔らかさで、持ち味に艶がある。さすがに年期の入った味である。
 大詰は油屋と奥庭。
 幕開きは扇雀の万次郎が、お岸にこの間は鳥羽まで行って青江下坂を探したという立ち話がいい。いつもはここは簡単に済むが、今度は丁寧でしっとりとしていい。いかにもさすらいの色男、女を相手に愚痴タラタラという男の情がよく出ている。仲居の千野の目を避けて下手向きになって袖屏風、口元へ袖口を当てての風情。今度の「伊勢音頭」第一の出来である。
 莟玉のお岸は相の山と違って遊女の本拵え。これを着こなして欲しい。
 万次郎と入れ替わりに梅玉の貢が出る。かつて福助から梅玉へ襲名した披露狂言、歌右衛門の万野、梅幸のお紺の間に挟まれて身も世もあられなかった貢である。これが悪くては二人の名女形に顔向けの出来ないところ。一見すると面白味が薄い様に見えるかも知れないが、ジッと堪える受けの辛抱立役の内に、怒りがこみ上げて来る具合、柔らかでいてキッとするところはする東京風の福岡貢。しかも「万呼べ万呼べ、万野呼べ」は羽織を脱ぎ掛けての見得もキッパリしている。噛み締めればじんわりと味の出る年功の芸である。
 時蔵の万野は、諸事していることに間違いはないが、前半の「一文にもならぬお客に」の素になる緩急、愛嬌と憎らしさの使い分けがもう一歩。この人はやっぱり万野よりもお紺の人だろう。
 そのお紺は梅枝。暖簾の陰の立ち姿、近頃稀な古風なマスクでいいお紺である。ただ暖簾から出て貢の後ろに立っての「貢さん、きつう派手なことのゥ」を背中から離れて上手でいうのは色気がない。膝でグッと貢の背中を押しながらいってこそ強い嫉妬と嫌味の感情が出る。その強さでお紺の愛の肉感が出るのだろう。だれでもする型なのに物足りない。「そう潔白にもいわれますまい」からの愛想尽かしはあくまで偽の狂言なのだから、オモテには手強く、聞く人がなるほどこれでは仕方がないと思うほどの道理を立てた手強さ、まして北六は鵜吞みにする強さが要り、その一方ウラでは貢を想う女の身情零れ落ちて観客を泣かせなければならない。そのウラオモテの彫りが今一歩浅い。この浅さでは後の折紙を渡しての芝居も引き立たない。
 歌昇のお鹿は、先ず化粧が凝りすぎて失敗。することもなれぬ女形で哀れ気がない。どうせ立役のやる三枚目、頬に日の丸を書く位の定式に徹した方がよかったかもしれない。この間の「鞘当」の不破がよかっただけにがっかりした。
 又五郎二役の喜助は、見伊達がないがするだけのことはきちんとしている。市蔵の北六、秀調の岩次はさすがに手練れである。
 梅玉の貢は、後半怒りを爆発させてからはキッパリしている。立ち上がって思わず白扇を裂くところなどはその例である。突き出されての花道の引込みは、寿海や十一代目団十郎はきっぱりしたところがあるが、梅玉の味はむしろ初代吉右衛門や十三代目仁左衛門風である。東京型でいながらどこか上方の匂いがするからである。
 戻って来ての万野との詰め開きから殺しまで。梅玉はさすがに年期が入って、一々のきまった形が美しい。ことに行燈を持って刀を振り上げた形は一幅の絵である。奥庭になってからの立ち廻りも形が円熟して十分の見応え。今月の見ものの一つである。
 すでに触れた通り、遊女の伊勢音頭がないのは寂しいが、時節柄ゆえ仕方がないか。
 一座が地味なのでこの節のことで客足が伸びないらしいが、よく見ればキッチリした芝居、その味を見逃して欲しくない。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』