右近の「櫓のお七」
十月の歌舞伎座三部の内では、断然第二部の舞踊「太刀盗人」と、第三部の「櫓のお七」がいい。その他の演目がいろいろと仕崩されているのに対して、この二本はその古典的な規範を守って充実しているからである。
まず「太刀盗人」から。松緑のすっぱ、鷹之資の田舎者、彦三郎の目代、左近の従者と四人のイキが合って面白い。ことに松緑と鷹之資の踊り比べは、松緑の線の太さと大きさ、コクのあるうま味の踊りに対して、鷹之資の柔らかで繊細な踊りの間のよさで、硬軟二種の対照と絡み合いがいい。対する彦三郎の目代は、年老いてとぼけた味にカドカドを締める老人を描いて印象に残る。作品としていえば、これが昼夜一番の出来である。長唄は杵屋長寿郎、柏要二郎ほか。
続いて「櫓のお七」は、尾上右近の八百屋お七の人形振りが見ものである。お七の人形振りは玉三郎が、その人形の冷たさを感じさせる無機的な輝き、艶やかさで独自の世界を作る傑作であるが、右近のお七はそれより人間臭いところがいい。玉三郎が人間の真似をする人形の面白さを出したとすれば、右近は逆に人形の真似をする人間の面白さを出している。したがって人形遣いの黒子の後見に抱かれているカドカドの姿がほのかに暖かさを帯びる。黄八丈の着付けから赤と水浅黄の段鹿の子の着付けに引き抜いて、髪を捌き、薄く口を開けた右近の顔が、今まで私の見たことがない不思議な官能的な輝きを持っていた。役者の美しさは、その生きた時代時代によって変わって行くものだが、この右近の顔は、歌右衛門梅幸が昭和の顔、玉三郎が平成の顔とも違って、まさに現代の令和の顔である。その意味では時代の感覚を代表するといっていい。
前半木戸を開けてくれという芝居も丁寧でいい。梅花の下女お杉はこのベテランにして演技が説明的過ぎる。権十郎の釜屋武兵衛は、幕切れに出るだけではどうしょうもないが、敵役の憎々しさが欲しい。竹本は谷太夫、慎治ほか。
以上の二本の他には今月は見るべきものがない。それどころか、これが歌舞伎かと思うものがあって危機感が募るが、一応順に触れよう。
第一部はこのところ三代目猿之助(現猿翁)の復活狂言に手を染めている現四代目猿之助の、鶴屋南北の「小幡小平次」。さぞよかろうと思って期待して行ったが、これが意外の不発。小平次の幽霊が、声も大きく、生々しい血だらけで、凄味がない。いわゆる漏斗という長く裾を引いた衣裳も照明が明るいところばかりで怪気味が乏しい。二役小平次女房おとわとの早替わりも、どういうわけかワッといかず、まずこの小平次の亡霊が期待外れ。二役おとわは、猿翁がこれで悪婆の役に手を染めるきっかけになった当たり芸。しかし現猿之助は先代と違ってもともと「矢口の渡し」のお舟で当てた娘形だから、お手のものだろうと思ったのがそうでもなかった。第一このおとわ四六時中、イキがって、啖呵を切っていて、挙句の果てに自分から「悪婆」と名乗るために、肝心の緩急、リァリティを失い、芝居から浮いてしまっているからである。これは今度の台本、演出(石川耕士)のせいかも知れないが、役の人間の輪郭がきっぱりせず、生世話の生活感にも乏しい。
巳之助の馬子多九郎は、これも終始我鳴って、見得ばかり切っていて実感に乏しく、南北物の調子を外している。およそ南北の調子は、おおらかさにあるが、同時にリァルな実感も必要であり、せりふは黙阿弥と違ってほとんど歌わない。それが呑み込めていない様に思う。
松也の尾形十郎は、終始正面を切りたがるのがよくない。歌舞伎の文法では、「三番叟」の翁や「対面」の工藤の様な座頭役を除いては、原則的に舞台の正面を開けて、八の字になるのが常識だろう。そうすると役者の姿は美しくなる。たとえば門口で米吉のおまきを見初めるところは、互いにフッと見たらば二人とも背中合わせになって逆八の字になるべきだろう。いつまでも相手の顔を見詰めて正対しているのはリアルな芝居で、歌舞伎の文法ではない。しばらく見ないうちに松也にその文法が身体から抜け落ちてしまっているのに、私は危機感を持った。むろんこういう時節、こういう時代だからいろいろな新しい試みに挑戦するのはいい。しかしその結果本家本元の歌舞伎がいつの間にか若い俳優の感覚から抜けてしまうのは困る。現に第三部の「お土砂」で菊五郎の紅長が、隼人の吉三と右近のお七の濡れ場で「それじゃァ歌舞伎だ」といっているではないか。なにが歌舞伎かを忘れて欲しくない。
男寅の奴磯平は未だ未完成。寿猿の庄屋、猿三郎の医者。
橘三郎の小平次の父はこの台本では手持無沙汰。
この後が舞踊「俄獅子」。松也の頭、新悟と笑也の芸者。長唄は鳥羽屋三右衛門、杵屋巳太郎ほか。
次の第二部は、すでに触れた「太刀盗人」の前に白鸚初役の「時平の七笑」。この並木五瓶の戯曲は、私ははじめ二代目松緑、後に我當で二度見たがいずれも失敗だった。その原因はこの戯曲が歌舞伎としては珍しく合理的なせりふ劇として書かれているという、歴史的な意味の理解がないからである。せりふ一つで時平の悪が最後にどんでん返しになる、それが時平の哄笑で終わるところに、この作品の面白さ、時平役者の芸の幅がある。それが理解されていないと、ただの愚劇になってしまう。
今度の台本は今井豊茂であるが、その台本の特徴は、第一に原作には何場にも分かれている芝居を一場に纏めた。それは決して悪いことではない。しかしそのために菅原道真が思いがけなくも謀反の罪に落とされる大事件が、せせこましくチャチになった。歌六の菅原道真、道真を罪に落とす側の友右衛門の頭の定岡をはじめ、桂三の左中弁稀世、廣太郎の藤原宿祢、宗之助の三好清貫、錦吾の春藤玄蕃、みんなこれほどの大事件が目前に起きているとはとても思えず、あまり驚きもしない。第二に原作は完全なせりふ劇なのに、今度はここに竹本を使った。五瓶の原作にもこことは別な場面で竹本を使っているから、一見問題が無い様に見えるが、実はせりふ一つで時平の陰謀がどんでん返しになるこの作品の意図には反している。
その上、道真の罪科が決まったところで、時平が急に気分が悪くなって二重下手の几帳の陰に入ってしまう。以後の道真との別れも全て几帳の陰との芝居になる。そして道真はじめ全員がいなくなると、道真の罪科を決定的にした中国の使者天蘭敬を几帳の傍へ呼び寄せ、几帳の陰から刺し殺してしまう。そして姿を現した時平はすでに藍の筋隈を取っていて、さらに白の衣裳がぶっ返りになって、本性を現し笑いになる。これではせりふだけで白面の貴公子と見えた時平が悪の本性を現すという五瓶の意図は、視覚的に裏切られてしまう。こういう基本的な改変が堂々とまかり通っていることにも私は危機感を持たざるを得ない。
第三部は、すでに触れた「櫓のお七」の前に菊五郎二度目の紅屋長兵衛で「お土砂」があり、後に芝翫の舞踊「喜撰」がある。
菊五郎の紅長は、さすがに喜劇はリアルでなければ観客が笑わないことをよく知っていて、世話物らしい細やかさ、何気ない風でいて自然な芝居運びで笑わせる。しかしそうなればなる程、この台本、演出がもう一つ整理される必要があることが痛感させられる。
駒込の吉祥院、もう中山道板橋宿まで木曽の軍勢が押し寄せてきている戦争直前、しかも権力者源範頼が八百屋お七の美貌に惚れて、お七を追っているという危機、その緊密感の中で孤立している寺で起きるドラマがもっと鮮明になる様に一工夫すれば、喜劇味が濃くなるのに惜しい。
魁春のお七の母おたけ、團蔵の住職、権十郎の釜屋武兵衛、亀蔵の長沼六郎、右近のお七、隼人の吉三、梅花の下女お杉、菊市郎の若党十内、京蔵、芝のぶ以下のお七の友達たち。
その次が「櫓のお七」があって芝翫初役の「喜撰」。清元の文句に「我が庵は芝居の辰巳常盤町」とある、その「常盤町」に住んでいたこのバージョン初演(原作はいうまでもないが嵐雛助である)の四代目歌右衛門(芝翫)の末裔として当代芝翫の初挑戦。こういう先祖へのリスペクトこそ芸の規範である。そのせいか、ついこの間まで見慣れた七代目以来代々の三津五郎家のそれとは一味違った喜撰。芝翫が軽くふんわりと、ほのかに笑みを含んだ柔らかさである。カドカドの勘所へ来るとどうしてももう一歩踏み込んでキッパリした方が、あるいはもう一歩サラリとして緩急を付けた方がいいと思うところがある。当人もっと楽しんで踊ってもいい。真面目過ぎるのか。
祇園のお梶は孝太郎。清元は延寿太夫、菊輔ほか。長唄は鳥羽屋里長、杵屋五七郎ほか。里長が往年の「喜撰」の舞台を彷彿とさせる。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』