2021年11月歌舞伎座 第一部

井伊大老の孤独

 白鸚三度目の「井伊大老」がいい。
 桜田門外の変の、井伊直弼が暗殺される前夜、宵節句の千駄ヶ谷井伊家下屋敷である。白鸚の直弼は、若やいだ爽やかさ、どことなく改革者としての英断の翳を持った人の、孤独な影が目に染みる。安政の大獄はじめ多くの政策を断行した彼には、敵が多く味方が少なかった。体制を背負って歴史の先端に立ちながら、孤立する人間の哀感。彼の中には貧しいながら幸せだった青春の日々、彦根城下の埋木舎という庵で過ごした幸せな日々が忘れられない。それはまた愛妾お静の方と過ごした日々でもあった。「帰りたい」あの日々に、そして故郷の彦根に。そうつぶやく直弼の言葉に孤独な人間の想いが濃い。
 この役は吉右衛門の当たり芸でもあるが、吉右衛門のそれが、芝居の後半にかけて、その人間的な、内面的な苦悩を描いてドラマを盛り上げるのに対して、白鸚のそれは前半の若さから、敢えてこの人本来の名調子を抑えながら、演技全体に孤独な男の絶叫を聞かせる。せりふが名調子というよりも演技そのものが、天性の響きを持っている。
 対する魁春のお静の方がいい。ここにも青春や故郷を懐かしむ孤独な女性がいる。そのシーンとした中のほのかな色気、磨き抜いた品位と香気の懐かし味が味わい深い。父歌右衛門の当たり芸であった、この役をここまで深めたのは、この人の手柄。歌右衛門の華やかさとはまた違って孤独な女の寂しさを描いている。
 この二人によってこの一幕は、静寂溢れる、緊密な舞台になった。
 歌六の仙英禅師もいい。大老の書いた屏風の書から、その死の運命を知る前後、お静の方への優しい心遣い、共に佳品であり、この人がいて二人の芝居に生彩が加わった。
 高麗蔵の老女雲の井、高麗五郎の側役宇左衛門。
 この「井伊大老」の前に、水口一夫作の舞踊「神の鳥」がある。愛之助が公演している豊岡出石の永楽館で依頼された新作舞踊の東京初演。地元の天然記念物コウノトリに纏わるドラマ。舞台は出石神社の社頭。ここに独裁者赤松満祐がコウノトリの幼鳥を捉えている。それを親鳥夫婦が狂言師に化けて救いに来るという話である。舞台はすっかり「暫」仕立て。赤松満祐が藍隈の公家悪で受け、腹出しこそいないものの、いつもの裃仕立ての侍、奴から、鯰の仁木入道、女鯰の傾城柏木、太刀下は遊女二人という見立て。「暫」と違うのは、舞台正面上手寄りに大きな釣り鐘が釣ってあること。この釣り鐘の一部が格子になっていて、ここにコウノトリの子供が閉じ込められている。
 そこへ狂言師に化けた親鳥夫婦がやって来る。そこで踊りを所望されて、夫婦に女鯰が絡んで「道成寺」の当込みになる。クドキ、山尽くしの鞨鼓、鈴太鼓まで、いよいよ鐘に絡もうとするところへ、コウノトリの正体を見現わされて立ち廻りになる。それで綺麗に終わればこれはこれで成り立ったのだが、愛之助の雄鳥が急に吹き替えになる。二役「暫」の山中鹿之介に替わるためである。その時間稼ぎに吹き替えの雄鳥と雌鳥の立ち廻りになる。これが大変長い上に、時々フリーズするのには閉口した。欲張り過ぎである。
 愛之助の雄鳥は、柔らかさ、情愛ともによく、二役「暫」は、いつもの力紙が注連縄になったりして目先が変わっている。黒地に五つ銀杏の素襖大紋も独特で面白い。二本隈も顔に合って姿はいいが、荒事の力の表現、意気が足りない。
 壱太郎の母鳥は、踊り、色気、情ともにいいが、前述通り立ち廻りになってからは失速。吉弥の柏木は相応、種之助の仁木入道は小粒の上に滑稽味が足りない。
 東蔵の赤松満祐はミス・キャストで気の毒。

今月の芝居に戻る

Copyright 2021 Tamotsu Watanabe All rights reserved.


『渡辺保の歌舞伎劇評』