芸の年輪
二月の歌舞伎座は正月に続いての三部制。しかし今月から非常事態宣言で終演八時という規制になったせいか、逆算して第一部の開演が珍しく十時三十分になった。お昼前から「十種香」を見るのかと思ったが、いざ見てみれば騒がしい世間の喧騒を忘れさせる、古風で、しっとりとした別世界が眼前に展開して、私はほとんど時のたつのも忘れて、近松半二描く幻想的な世界に浸る幸せを味わった。これは第一に魁春の八重垣姫、孝太郎の濡衣、門之助の勝頼がいいからであり、第二にとかくバラバラになりがちな三人をまとめて緊密な流れを作り、舞台を引き締めた葵太夫と淳一郎の竹本の力である。
魁春の八重垣姫は東京では襲名以来、あれからすでに十数年。十年一日のごとく無心に亡父歌右衛門に教わった通りの型を繰り返している。そこに何かを伝えたいとか、何か新しいことをしたいとか、妙な野心を持たずに、ただひたすらコツコツと繰り返しているのがいい。それはまるで日々仕事を繰り返す名工の如く、私たちに八重垣姫の魂を確実に伝え続けている。最初の屋体の中での「煙も香華となったるか」以下三つのきまりも、かつての歌右衛門の様に滑らかに流れて、なにをやっているのか分からぬ様な雰囲気が舞台に立ち込めて来た。これが芸の年輪というものだろう。この年輪があってこそ伝えられた型が日々の舞台に輝くのである。元来八重垣姫には赤姫のテクニックが十二分に詰まっている。たとえば袂を持ってのの字を書くとか、あるいは背中から男に寄って行くとか、袂を振り上げて片足を上げるとか、クドキの最後に横ずわりになるとか、そういうテクニックが魁春だとなんの抵抗もなく当然の如く展開して行って、体に生きて輝く。不思議な女形の光彩である。それを見ていて私は今更ながら八重垣姫の魅力にうっとりと引き込まれた。
孝太郎の濡衣も「お前の忌日命日を」の辺りに孤独な寂しい女の影が射しているのがいい。ただ後半になって、たとえば「諏訪法性の御兜、それが盗んでもらいたい」辺りからとかく男勝りの勝ち気な性格が出て来るのが困る。もっとしっとりと八重垣姫と対照的な存在であるべきだろう。門之助初役の勝頼は、この人にピッタリのニンであり、それなりに体の持ち味もあっていいが、最近こういう役に恵まれなかったせいか、時々手順を追う焦りが出る。たとえば最初に三段に掛かる時、つい竹本に追われるようにしてツカツカと歩いてしまう類である。しかしそれにしてもこの三人が揃っての幕開きからは実に濃密で「十種香」らしい。すでに触れたようにそれも葵太夫の功績が大きい。その証拠に謙信の出から蔵太夫、翔也に替わったらば途端に舞台の色彩が変わった。魁春の八重垣姫が多くの人のカットする二度目のクドキをやっているのに、前半ほどには輝かなかった。恐ろしいものである。その謙信は錦之助。この人こそ勝頼のニンであるのに惜しい。松江の白須賀六郎、男女蔵の原小文治はともに平凡。とかく最近はこういう御注進でいわゆるキンチャン走りをする人がいるのは目障り。
次が山本周五郎原作、矢田弥八脚色、大場正昭演出の「泥棒と若殿」。幼くて父母に別れ、孤児として奉公先を転々とし、妻子にも捨てられた伝九郎が、生まれて初めて盗みに入った荒れ果てた屋敷には一人の若者がいた。松平大炊頭の次男成信である。伝九郎が松緑、松平成信が巳之助。二人の間に友情が生まれ、二人で新しい世界へ旅立とうとしたときに、大炊頭が死去して成信は新しい藩主として迎えられ、伝九郎と別れる。短編には格好の題材だが、肝心の脚本がよくない。二人の人間の掘り下げが浅く、どうして二人が互いに惹かれるようになったかも明らかではない。ことに成信を殺そうとした刺客や弓矢が実は成信をひそかに支持している正義派の仕業で、それも悪家老一派への目くらましだったというのは説得力に欠ける。もし間違って成信に傷でも付いたらば目くらましでしたでは済まないどころか、お家の浮沈にもかかわるからである。折角の題材もこの台本では、演出も演技もうまくいかない。松緑の伝九郎はその人生の凄惨さの影が薄く、人間的な掘り下げも届かず残念。巳之助の成信が、意外に繊細なところを見せて好演。それとてもこの若殿の煩悶もよく描かれていないためにしばしば空転している。坂東亀蔵の鮫島平馬はこの場だけでは正体不明。後で迎えに来る家老梶田重右衛門の亀鶴がさすがにしっかりしたところを見せる。弘太郎の宝久左衛門。
今月のお目当てはむろん第二部の仁左衛門と玉三郎の久しぶりの顔合わせだろう。最初が「お染の七役」の内、つい数年前に上演した向嶋小梅の莨屋と浅草瓦町の油屋の強請の二場の抜き読み。もっとも今度は新しく序幕に柳島妙見が付けてある。これで話の筋も通るし、なかなか知恵者がいるなと思って、さて舞台を見たらばこれが案に相違だった。たしかに後の強請のタネになる油屋の番頭善六、丁稚久太、それに庵崎の嫁菜売り久作の経緯はよく分かるが、ここにある筈のお染の七役の、油屋お染、丁稚久松、奥女中竹川、芸者小糸がいずれも出ないのは分かっていたが、いざそうなって見ると骨と皮ばかり、餡のない饅頭で喰い足りないことおびただしい。折角ではあるがこの幕はなかった方がよかったかもしれない。権十郎の山家屋清兵衛、彦三郎の油屋太郎七、吉之丞の庵崎の久作はいずれもさしたることなし。千次郎の善六は喜劇のコツは抑えているが、大衆演劇の喜劇で歌舞伎のそれではない。咲十郎の九助、吉太朗の久太はさらに喜劇の気もないのは困る。この部分が沈むと芝居全体に響く。
さていよいよ小梅の莨屋。舞台が廻ると板付きで玉三郎の土手のお六が竹川の使いの中間の持って来た手紙を読んでいる。玉三郎の土手のお六は七役の中でもこの人の当たり芸、そのスッキリした姿といい、粋で、垢抜けのした手強さといい、独特な味わいである。しかし今度はどういうわけか前回と違って、少し明るく調子が高い。ここはやはり暗い陰翳の中にリアルさが欲しいところである。もっともこれにはお六に絡む福之助の髪結、吉之丞の久作など新しくなった周囲の若さのせいかもしれない。向嶋の小梅の一軒家の闇の深さが乏しい。
対する仁左衛門の鬼門の喜兵衛は、ビクともせぬ手強さ。この人一代の当たり芸で見る度ごとにその味が深くなって行く。花道の湯屋帰りの出の凄味といい、お六と夫婦してちびちび酒を飲みながら、久作と髪結の話を聞いているところのハラの深さ。頭の中で悪だくみが膨らんでいく具合、その手立ての組み方手に取る如き面白さである。ことに早桶から久太を出してからのいくつかの見得、なかでも印象的なのは、花道七三で剃刀を口に咥えて両足を交差させた立身の見得、その足を斜っかいにウラオモテにした色気が面白い。それから右足に掛かって砥石を振り上げた見得、幕切れの早桶に飛び乗って片足を抱えた大見得まで。この場の喜兵衛が今月この座一番の見ものである。
廻って瓦町油屋の店先。玉三郎の土手のお六は、袢纏を引っ掛けて花道へ出たところまことにいいお六だが、店へ入ってからのやりとりはやはり芝居が浮ついていていささか大げさ過ぎる。これでは油屋の店のものがすぐに騙りと気づくだろう。門口で喜兵衛を呼ぶ「オーイ、こっちの内だよお」もいつも言う通りオーバー過ぎる。しかし例の「かかあ煙草と評判の」のせりふは十分に張って胸がすく出来栄え。仁左衛門の喜兵衛は、凄味が効いてよく、前場に続く大当たり。権十郎の山家屋清兵衛、彦三郎の油屋太郎七。吉之丞の久作、千次郎の善六、咲十郎の九助、吉太朗の丁稚久太は、この場も歌舞伎らしくなく、この後半総崩れになって芝居のテンポが狂い、お六と喜兵衛が手持無沙汰に見えてしまう。
次は舞踊「神田祭」。仁左衛門の頭、玉三郎の芸者と、この二人が昔に変わらず若々しく美しく、こってりした二人立ちの錦絵。目の保養である。始めの頭が芸者を引き寄せてのホーズから、最後の花道七三の頬づり、二人が交互に入れ替わって客席にお辞儀をしての引込みまで。場内は唯々二人の掌に踊らされる気分に浸るばかり。こういうところが歌舞伎の面白さだろう。いつもこの二人で面白いのは「親分さんのお世話にて」と頭が一寸照れて耳の裏を掻く辺りの芝居っ気たっぷりに二人の人生が浮かぶ濃厚さ。それに反して「森の小烏」がそれ程でなくアッサリしているのもこの二人の特徴。清元は延寿太夫、志寿造ほか。以上なんといってもこの第二部の二本が今月の見もの。一つの時代を象徴する舞台である。
問題なのは、十七代目勘三郎三十三回忌追善の第三部。十七代目は忘れがたい名優の一人、その孫勘九郎、七之助兄弟、曾孫勘太郎、長三郎兄弟揃っての追善を見て、思わず感慨に耽らざるを得なかった。最初は「奥州安達原」三段目袖萩祭文。七之助初役の袖萩は、感情が先走って型とのヅレが大きい。心持が行き届いてなく、ナマのままなのに対して、型の動きがよく身体に消化されていないためである。花道の出は片手に杖、片手に娘お君の手を取って、花道途中で一度止まる吉右衛門型でなく、まっすぐ止まらずに七三まで行ってしまう歌右衛門型。祭文は、黒御簾に付けさせる歌右衛門型でなく、自分で三味線を弾く吉右衛門型。自分で弾くのはいいが、この祭文の節付けにある仙台浄瑠璃の名残が薄くなっているのが問題である。なぜかというと、この節が連想させる「東北」への想いが薄くなるからである。そもそもこの作品の大きなテーマは、東北と京都の対立にあり、周縁と中心、それによる中心の周縁の差別への恨みにある。それが京都朝廷と安部一族の対立であり、安部貞任宗任兄弟は、東北にもう一つの朝廷を作り皇族環宮を天皇として擁立するために誘拐している。袖萩祭文の舞台は、その誘拐された環宮の御殿であり、さればこそ「環宮明き御殿」という。袖萩は貞任の妻になり、したがって彼女の弾く祭文は「東北」独特の仙台浄瑠璃でなければならない。そこには「東北」の声が響くはずである。「身は濡れ鷺」前後の動きも、きっちりと感情を造形出来ていず、気持ちが先走っているために観客の心に響きにくい。
勘九郎の貞任は、すでに先年袖萩と二役を勤めて、未完成ながらきちんとした舞台を見せたにもかかわらず、今度はよくない。二重上手障子屋体から出て、花道に行き「何奴の仕業なるや」までは先年通りでまず立派な出来だが、その後がいけない。裏向きで拵えを直している間の受け答えの声が異様に高すぎてアレアレと思っているうちに、前に向き直ってビックリした。化粧が拙く怪異さが誇張され過ぎて、折角祖父や父よりも輪郭の鮮明な勘九郎の顔のよさが生きていない。驚いているうちに詰め寄りの刀の曲取り、「押し立て」の赤旗の扱いも、さながらアスリートの如く、ただ刀があざやかにとれるか、赤旗が見事に扱えるかに終始している。これではけれんはうまく出来ても、そのけれんの陰に隠された「東北」の風、その魂が消えてしまう。刀を巧く手玉に取っても赤旗を巧みに翻しても、むろんそれはそれでいいが、それだけでは芝居としての感動がない。そうすることによって安部一族の怨念ひいては差別された地方の民草の呪いが表現されなければ意味がない。ここでも感情が上滑りして初役の時の教わった通りをきちんとやる精神が忘れられている。勘三郎の曾孫長三郎のお君の方がよほどきちんと正確に芝居をしている。
追善によって周囲は豪華版。梅玉の義家、芝翫の宗任、歌六の傔仗、東蔵の浜夕といずれもここへ十七代目勘三郎が出て来てもおかしくない立派な顔ぶれ。ことに歌六の傔仗が袖萩の芝居をジッと受けている具合、東蔵の浜夕がただ狼狽える母の悲しみの鮮明さ。ともにいずれも当代一である。
次が「連獅子」。勘九郎の親獅子は立派で、貞任の失点を取り返した。勘太郎の子獅子がまことにきちんとして筋のいい踊り、体も枠に嵌った動きでよく動いていい出来である。前幕の長三郎のお君といい、これといい、曾孫二人大当たり。間狂言は萬太郎と鶴松。長唄は鳥羽屋里長、杵屋五吉郎ほか。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』