2021年3月国立劇場

彦三郎の小田春永

 今更いうまでもないが、歌舞伎には決まった役柄があって、その役柄のニンと役者のニンが合わなければ、どんなに巧くともその作品の世界は開けない。歌舞伎はそういう演劇であり、またそれだから面白いのでもある。稀にはどんな役でも手掛ける人がいるが、それでも限界はある。歌舞伎の世界では、何でも出来るというのは美徳ではなくて、これしか出来ないというのが美徳なのである。
 ところで女形や二枚目をその役柄とする菊之助が「千本桜」の知盛をやった時にも驚いたが、今度は「馬盥」の光秀と聞いてさらに仰天した。もっとも菊之助のニンにない役だからである。いうまでもないが、菊之助は歌舞伎次代のホープである。ことに菊五郎の一人息子として音羽屋一門の芸を継いで行かなければならない立場にいる。たとえば彼の「合邦」の玉手御前は、曾祖父六代目菊五郎、祖父七代目梅幸、父現菊五郎、そして菊之助と四代にわたる傑作であった。その成功はむろん菊之助の努力によるが、同時にこの役が菊之助のニンに合っているからでもある。しかし「馬盥」の光秀はそうはいかない。
 今度は、最初に珍しく饗応が付いて、本能寺、愛宕山と三幕である。
 まず饗応。菊之助は研究熱心で、御簾内の第一声、妹桔梗が山口玄蕃に口説かれ、進退窮まって自害しようとするのを止めて「ヤレ待て桔梗、早まるな」が、別人かと思うほど光秀らしく、低い呂の声の発声、せりふ廻し、意気込み、よく研究している。一瞬これならどうにかなるかも知れないと思ったが、いざ御簾が上がって、お約束の大紋姿を見ると、やはり光秀らしくない。いくら無理は承知といっても、これでは仕方がない。芝居が進んで、春永の怒りからその命令によっての蘭丸の眉間割り、いつもの幕切れまで。動きといい、思い入れといい、よく研究されていて監修の吉右衛門に教わった通りきっちり正確にやっているが、それでも如何せん正確にやればやる程形ばかりになる。体から芝居の気配が浮き上がって来ない。ここらが歌舞伎の恐ろしいところである。そのためにただ形をなぞっていることになり、手順ばかりが浮き上がって、その乖離が舞台を冷たくする。
 皮肉なことに、この主役に対して廻りの役がいい。まず第一に彦三郎の小田春永。この役のせりふの高音なこと、ベリベリと捲くし立てる手強さ、間髪を入れぬ隙のなさ。全て春永の短気、怒り、光秀との性格の違い、目の辺りである。続いて萬太郎の森蘭丸。この役はただの荒若衆ではない。桔梗に惚れているからいわば光秀は義理の兄である。だからその義兄を春永に鉄扇で打てといわれて困惑する。萬太郎にはその瞬間の複雑な困惑がよく出ている。ただの荒若衆ではない理由である。
 新悟の桔梗は色気が薄く、吉之丞の山口玄蕃は型通りの敵役に徹してより手強い方が芝居が面白くなる。
 二幕目本能寺。菊之助の光秀は、いつもの紫紺の着付け裃で花道へ出たところ、キレイなこと、思わず十一代目団十郎の光秀を思い出した。しかし十一代目にあって菊之助にないのは、悪と凄味。なにしろこの役は書き下ろしが敵役の名人五代目幸四郎。鶴屋南北はその幸四郎にはめて書いている。ただのキレイだけでは困る。ただし菊之助はここもせりふはよく研究している。七三での「魚が水に離れ」から、後の「この黒髪は過ぎし頃」など精一杯のせりふ廻しであるが、ここでも芝居は形だけになる。花道の引込みのいわゆる「箱叩き」の睨みなど精一杯、目一杯の健闘だが致し方ない。
 ここでも彦三郎の春永がいい。花道へ出たところで、本能寺の庭の景色を誉めるところで辺りを見廻す芝居が欲しいのと、本舞台へ来ての歩き方が世話物めいて若輩に見えるのが欠点だが、それ以外は癇癪持ちの気配、せりふの明晰さ、久しぶりにいい春永である。菊之助と芝居のイキがピタリと合った一瞬があって、思わず同じ学校だなと思った。新悟の桔梗、萬太郎の蘭丸、鷹之資の力丸、亀蔵の本能寺の住職、京蔵の園生の局、吉三郎の矢代、菊市郎の浅山、菊次の長尾。
 大詰、愛宕山。菊之助の光秀は着流しの上使受けから、覚悟の白装束になって、幕切れの大笑いまで。これも教わった通り緻密にやっている。しかしこうなると、光秀がなぜ国替えを命じられただけなのに、「何面目に長らえん」などといって切腹しようとするのかが分かり難い。ここまでの菊之助の光秀を見ていると悪の要素、男のブライドの高さ、春永との思想上の相違(春永は戦争で切り取った領地は自分のものと考え、光秀は自分のものではなく天下のもの、自分はそれを預かっているに過ぎないと考えている)が見えないから、そのすきにこういう疑問が湧いてくる。それでは作者の意図との違いが出て来る。
 ここでは又五郎の安田作兵衛がいい。この役は前半を安田作兵衛、後半を四王天但馬頭と二人の役者に割ってやる場合がある。幕切れに大看板が附き合うための方便である。しかし今度は又五郎が前半から通してやる。光秀からの書状を受けてそっと座を抜けて入る芝居から幕切れまで、しっかり目の積んだ芝居である。続いていいのは梅枝の皐月。しっとりとした位取りがあるのがいい。見る前は新悟の桔梗とニンが逆の様な気がしたが、これはこれでよく大いに納得した。権十郎の丈巴、菊市郎の浅山、菊次の長尾。
 以上三幕の前に亀蔵の解説が付く。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』