仁左衛門の熊谷
仁左衛門の「熊谷陣屋」がいい。
仁左衛門は同じ役を再演するにも、その度毎に新しい工夫がある。している仕事はほとんど同じでも、微妙なニュアンスの違いがあり、それが面白くもあり、新鮮でもある。現にこの熊谷。基本は九代目団十郎型であり、最初は自分の長身痩躯に少しでも大きい輪郭を作ろうとしてきたが、その輪郭が出来た今日、そこに細緻微妙な情愛と芝居の味わいを加え、その肌理の細かさ、円熟した充実ぶり溢れんばかりである。
花道を出たところ、顔も自然と薄く見え、七三に止まると組んだ手に掛けた数珠を前に出し、とそこまではだれでもやるし、仁左衛門自身これまでもやってきたが、今度はその数珠を両手で握って深く心で拝む、その間数瞬、やっと数珠を袂に入れて突き袖できまる。きまりよりも祈りが印象に残る。本釣りに桜がハラハラと散る情愛である。
本舞台へ来て二重に上がり、妻の相模に「ヤイ女」というところは初代吉右衛門のうならせたところであるが、仁左衛門は「ヤイ女房」(本文は「コリャ女房」)というが、それも相模への情愛に聞こえる。つまり失った倅小次郎ばかりでなく、女房にも情愛が溢れる。藤の方を見る「誠に藤の御方」も相模の「あなたは藤の御方」を聞いて思わず相模を振り返る細かい動きを挟んで、大きく「ドーレ、藤の」と藤の方を覗き込むという、芝居を盛り上げていくという面白さが、すなわち今度の仁左衛門の肌理の細かさ、情の深いところである。
物語になる。「おん物語りな仕らん」の凛々たる名調子に始まって、「なかァーにィ、ひときィーわァ」と向こうを透かして見ると、小次郎の勇姿に見惚れている父の愛情立ちこめ、すなわちそれが芸の色気になり、芝居の面白さになる。「緋縅」の形容も立体的になるこというまでもない。この物語が面白いのは、たとえば「オーイオーイ」の後の軍扇を右の肩に翳した見得である。普通は右手に大きく軍扇を翳すと上手に向かって見得を切る。しかし仁左衛門は右手の軍扇を翳さずに立てて持ち、上手ではなく下手を見て見得を切る、この形の複雑さに余情が出る。相模の反応を探る気配もあって芝居が厚手になる。それからの面白さは一々煩わしいから触れないが、いずれもその細緻な工夫が心持の上で情愛に、芸の上で色気につながって面白い。
二度目の出からもいつもの通りであるが、制札の見得の相模と藤の方の二段の叱り方の仕分けがあって、その上義経へと三方への心配りまた細緻を極めて盛り上がる。
首実検の後、首をジッと抱く様にしているのも独特だが、その代わりその首を相模に渡すときの首を持ち合った芝翫型にも似た形は、ごくアッサリになった。
花道の引込みも面白い。「夢だ夢だ」の後析が入って七三に編み笠を被って突っ伏す。そこまでは型通り、遠く遠寄せを一度かすかに掠めて置いて、二度目に急に大きく響かせてバッと立ってキッとなる。その鮮やかなイキ、それからのジッとする思い入れの面白さ、それから一足一足の運びの面白さ、送り三重で西へ廻って左足を一つ踏み出して、グッと笠を大きく持ち上げてそれを背景に正面に顔を見せる立派さ。心持もさることながら。それよりも今去って行く人物の姿の造形、空間に刻み込む芝居の面白さで見せる独自さである。最後に笠で顔を隠して入るまで。手順は同じ様でありながら充実して面白く新鮮であった。
ただこの熊谷ただ一つの欠点は、といってもこれは仁左衛門の責任とばかりはいえないが、幕切れ近く有為転変の無常観が舞台全体に広がらないことである。しばしば優れた「陣屋」では涙を催させるあの終末部分が、いかにも冷たく盛り上がらない。錦之助の義経、歌六の弥陀六、孝太郎の相模、門之助の藤の方と揃って、それぞれ個々に見ればニンにも合い、出来もいいのに舞台が熱を帯びない。今日が初日が開いて二日目のせいだとすれば、日が経てばチームワークが出来るだろう。他にいいもの、松之助の梶原、床の前半の葵太夫、宏太郎、後半の谷太夫、淳一郎。
第二部はこの後、菊五郎、時蔵の「直侍」。蕎麦屋と寮の二場である。菊五郎の直次郎はさすがに昔日の若さはないのが当たり前、しかしすることには色気があり、雪の入谷のあぜ道に頬被りで立った姿は、これから情婦のところへ行こうという男をごくすんなりと自然に見せている。この身に付いた自然さが芸の味である。とかく覚束ない足もとを春の淡雪の歩き難さに巧く見せるところもそれである。耳慣れた黙阿弥のせりふ―――「今朝の南が吹き代わり、西ならいで雪になったが」が空気の様に当たり前に聞こえて来るところに老練の円熟がある。蕎麦を肴に一杯やりながら丈賀の話を聞いていて、そっと外に出て丈賀を待ち伏せる具合。なんでもない様でいて、なかなかできない生世話の味である。
廻って寮の場は、清元の「風に鳴子の音高く」の中腰の形もすんなりいって、三千歳のクドキを受けている具合も何ということもないが、スキがない。いかにも女郎を情婦にしている無頼漢らしい。「いとど思いの増鏡」のきまりから、髪梳きまで。色っぽさだの恋だのというよりも、一人の人間の息遣いがすんなりと浮かんでいる。
時蔵の三千歳は、これも色気は抜けているが、菊五郎とイキが合っている。東蔵の丈賀はついこの間までは型破りの感覚があったが、今はすんなり五分も透かない安定さである。団蔵の丑松もサラサラしていい。これに橘太郎と徳松の蕎麦屋夫婦、橘三郎の寮番喜兵衛、京妙と玉朗の新造と、こちらは「陣屋」と違ってチームワークがよく取れている。清元は延寿太夫と菊輔ほか。
以上の第二部を挟んで、前の第一部が勘九郎、七之助の舞踊「猿若江戸の初櫓」、松緑、愛之助、莟玉の、これも踊りの「戻駕」。後の第三部が吉右衛門の「山門」と玉三郎の舞踊。これは日替わりでAプロが清元の「隅田川」、Bプロが地唄の「雪」と「鐘ヶ岬」の二本立て。私が見た三月五日はAプロで「隅田川」であった。
「猿若江戸の初櫓」は田中青滋作、猿若清方振付、杵屋寒玉作曲。十八代目勘三郎が初演した舞踊で、初代勘三郎が出雲のお国と共に江戸へ下って中橋に中村座の櫓を上げることを描いている。すでに今の勘九郎の猿若、七之助のお国で演じたものである。今回は町奉行板倉勝重に扇雀、福富屋夫婦に彌十郎、高麗蔵。扇雀が口跡といい、姿顔かたちといい二代目鴈治郎に生き写しであった。長唄は直吉、巳太郎ほか。
「戻駕」はご承知の常磐津の名舞踊。初代中村仲蔵が大坂から江戸へと「戻駕」という、洒落た趣向の踊りだが、この洒落た味は今日の客席になかなか通り難いだろう。役者も地方もその意味をよく知って分からせる努力がいる。松緑の治郎作は踊りが巧く、愛之助の与四郎は色気で見せる。今日は二日目、踊り込んで行けばもっと面白くなるだろう。莟玉の禿は、時々スーッと背が伸びて禿の可愛らしさを失う。常磐津は和英太夫、八百二ほか。
第三部の「山門」は、五右衛門の吉右衛門が体調不良というので心配だったが、今日二日目は大過なく無事に済んでまずは一安心。「ハテ風情ある眺めじゃなァ」と下手の方へ目を引いたところはさすがにその横顔の風貌が立派。久吉は幸四郎。階上の五右衛門に位負けするのは是非もない。歌昇と種之助の捕り手。大薩摩は鳥羽屋里長、稀音家新之助、竹本は東太夫、慎治。
さて最後が「隅田川」。玉三郎初役と聞いて、なにか新しい発見があるだろうと思いの他に真っ当な「隅田川」。一面暗い照明で、スーッと花道へ笠を被った女が笹を持って立つ。その姿は今までとは違うが、それからはあまり変わらず。ただ手振り、清元共に別な曲かと思う程のゆったりしたスローテンポ。本舞台へ来ると鴈治郎の船頭が出て、二人が船に乗ると道具代わり。いつもの柳に土饅頭。歌右衛門大狂乱のところであるが、それも内に籠ったままでふんわりと終る。清元の曲、六代目勘十郎振付という制約はあるにしても、玉三郎らしい新しさが欲しかったのに残念。清元は志寿子太夫、志寿造ほか。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』