2021年4月歌舞伎座

弁慶、光秀、そして清玄

 四月の歌舞伎座は三部制の各部に収穫がある。まず第一部「勧進帳」の白鸚七十八歳の弁慶が年代記ものである。第二部芝翫の「太功記十段目」の光秀。芝翫の初役は十二代目団十郎の代役で、今回は本役としての初役。充実したいい出来で今月一番の収穫である。そして第三部は、三十六年ぶりという仁左衛門と玉三郎二人の「桜姫東文章」。仁左衛門の釣鐘権助、清水清玄の二役。なかでも今度は稲瀬川の清玄が傑作である。その三作をひっくるめて題して「弁慶、光秀、そして清玄」という三題噺である。
 白鸚の弁慶は、最初に花道へ出たところ重々しく立派な風格。続いての長ぜりふはここで評価が決まるという程の弁慶第一の難所であるが、年来売り物の名調子もさすが小音になっている。本舞台へ来ての祝詞は、立ったままで座らないのも是非がない。勧進帳の読み上げから山伏問答に掛けては、せりふにところどころ省略やすっ飛ばしがあって耳立つが、今日はまだ二日目、日ならずして直るだろう。それよりも問答の最後に体の一進一退、自然に富樫とのあいだが詰まって行く具合が長年の手練れ、余裕があっていい。不動の見得もさり気なくてよくここらも年功である。元禄見得は最後の決まった形だけがいい。
 富樫に呼び止められての判官打擲は、「強力め」の思い入れが巧く、「腹立ちや」でハラの中でこれはもう判官を打擲する他はないと決心する芝居が鮮やかである。それはいいのだが、そこまでやっていながらイザ打擲の時の思い入れが深いのは困る。あれでは富樫が気が付くだろう。それから詰め寄りから「ついに泣かぬ弁慶が」まで。息つく暇もなき大役を、この年齢で渾身の力を振り絞ってともかくも勤めあげたのは大慶。花道へ行った時には、嵐の様な大息こらえきれず、私の席まで聞こえて来た。やる方は命がけの大変さ、それにつれて見ているこっちも緊張した。幕外の飛六法も無論飛ばずともそれらしく見せて、「陸奥の国へと」下ったのには大いに安心した。
 「勧進帳」はAプロとBプロとあって、今日はAプロで富樫は幸四郎。Bプロは弁慶が幸四郎で、富樫が松也。その幸四郎の富樫は、この人のニンにある役。経験済みでもあって危なげないが、立派に見せようとしてか、せりふも動きもやたらに重々しく勿体を付けている。ことに父親譲りの名調子が変なところで伸びたりする。もっと自然にすんなりと爽やかにやるべきだろう。雀右衛門の義経は、女形らしさが出たために輪郭が小さい。歌右衛門でさえ晩年に至ってようやくその弊を脱した程だから仕方がない。弁慶、富樫との三方の見得、「判官御手」からは無事に済んで、引込みのそれとなき思い入れが一番いい。友右衛門、高麗蔵、廣太郎、錦吾の四天王。高麗五郎以下の番卒。長唄は鳥羽屋里長が「人の情けの盃を」で絶唱を聞かせる。第一部は、この「勧進帳」の前に猿之助初役の舞踊「小鍛冶」。猿之助の稲荷明神に、中車の三條宗近、左団次の橘道成、壱太郎の巫女。長唄は杵屋三美郎、五七郎、竹本は葵太夫、慎治ほか。
 さて第二部の「太功記十段目」は、芝翫の光秀は今回が二度目、本役としてははじめての、芝翫型の光秀である。竹藪からの出は半廻しを使わず、木戸口では顔を隠したまゝ本釣りの「コーン」を入れて下手へ二三歩歩いて笠を翳しての大見得。木戸口から歩かずにその場で大見得になるのが芝翫型だが、そこは下手へ歩いての工夫が効いて立派な大きさ、まずは前回と違って大いに満足した。それから「ひっそぎ槍」から屋体へ忍び込んで皐月を刺すまで。ここでの大出来は、前回よくなかった皐月と知って「ただ茫然たるばかリなり」の大見得である。前回のここの欠点は、拙著「渡辺保の歌舞伎劇評」に述べた通り。竹本のイトに乗って廻す手がさながら踊りの如く軽佻浮薄だったが、今回はその動き、一歩踏み出す足と、それを一度引込めて右膝を立て、左足を延ばして左手を大きく前に出して中腰のツケ入りの見得まで、さながら怒涛の寄せる如く、タッチの太さ、動きの大きさ、グロテスクさ、まことに見ていて爽快かつコクがあっていい出来である。芝翫大進歩。この人の当たり芸になった。もっともそれからの操のクドキを受けての、「すさりおろう」の長ぜりふに「北条義時は云々」のカットがあってよくないが、その後の十次郎を見て二重から足を滑らせてツケ入りの見得は、最初の出、「呆れ果てたる」、続いてこの見得と芝翫の光秀のいいところ。見応え十分である。それから十次郎とのツケ入りの見得、「大落とし」から「物見」、花道七三での見得、本舞台へ戻って竹「詰め寄れば」の刀を流して入歯に掛かっての見得、幕切れの絵面まで。いずれもツケを巧く使って大きくていい。これに子としての皐月との対立、父としての十次郎への悲しみが加われば、当代の光秀である。
 魁春の操は型通り。この人の芸風として型をひたすら繰り返すことによって役の核心に達し、その磨き上げた光彩の中から心が現れてくるという行き方であるが、今度の操はまだ心が溢れてくるまでには至っていない。東蔵の皐月は手強さが第一。ただ芝翫の光秀のせりふのカットもあって、光秀と皐月の新旧思想の対立はもう一つ鮮明でなかった。なんでもないところの動きに溢れる滋味がないのも残念。菊之助の十次郎は東京初役。私は初めて見たが暖簾が上がった瞬間の第一印象は、端正で、柔らか味もあるが、それでいてどこか冷たい。暖簾口を出て上手の一間に向かって座っての述懐に及ぶと、この冷たさがどこから来ているかがよく分かった。この十次郎は、今夜戦場で死ぬ覚悟をした冷静な青年なのである。あの冷たさは死の影を抱えた若き兵士のものであって、色裃を着た前髪の若衆のものではない。真面目に一人の人間を考えるとそうなるのだろう。そしてその冷たさはたちまち梅枝の初菊に伝染する。本来色気も艶もある筈の梅枝が菊之助の覚悟の前に凍りつく。扇雀の久吉は、僧侶姿で出ての引込みに、向うを見て思い入れをしないのは底を割らないための用心だろうが、物足りない。後半は芝翫の堂々たる光秀に対して少し線が細い。彌十郎の正清、こちらは大柄過ぎて散漫。この「太十」の後に梅玉と孝太郎の舞踊「団子売」がつく。
 いよいよ第三部が三十六年ぶりの仁左衛門と玉三郎の「桜姫」。今月は前半上の巻で、発端の江の島稚児ヶ淵、序幕新清水花見、桜谷草庵、二幕目稲瀬川、三囲神社の鳥居先である。まず発端稚児ヶ淵。バタバタで玉三郎の白菊丸が駆けて来て七三で転ぶ。後から仁左衛門の清玄が出て「コレッ」と声を掛ける。振り返った白菊丸がパッと清玄の手を取って握り締める。その情愛滴るばかり。一瞬二人の間に電光がきらめき情が通じ合う。まことに濃密である。これからたちまち三十六年前の面白さが展開するのかと思ったが、それからは意外にもそれほどではなかった。稚児ヶ淵が終って口上になるが、功一の口上役がいつものお定まりの頭取口調でなく、そうなると不思議なことに十七年間の時間が経過しない。引返して序幕新清水花見は、仁左衛門の清玄、玉三郎の桜姫もともに大舞台であるが、二人の運命のすれ違いの思いは、かつて程の不条理感覚がなかった。仁左衛門の二役権助はスーッと下手へ出たところはいかにもシャープで悪党らしいが、いきなりお端下を殺す手順はせせこましく、凄味に欠ける。周りの悪五郎や松井源吾の反応も含めてもう一工夫ありたい。謡を謡いながらの引込みも十分で、まずこの場の二役は無事である。芝居が盛り上がらないのは、その後玉三郎と仁左衛門が引込んでから。急にゴタゴタする結果である。鴈治郎の入間悪五郎は白塗りの色悪で、しかも荒若衆という役どころを巧くこなしているが、松之助の松井源吾が憎たらしさは十分ながら、この役に合わず、錦之助の粟津七郎は為所がなくて得体が知れず、福之助の軍助、千之助の松若は未だ稚くたどたどしく、一挙に舞台がしぼむ。
 次の桜谷草庵は、肝心の桜姫と権助の濡れ場で用事のためほんの数分ではあるが中座したために批評が出来ない。ただ二人の後半は意外に明るく、生々しいために奥行きが足りない。それを受けての歌六の残月、吉弥の長浦の二人の濡れ場の名残が生々し過ぎて品がなく、洒落にならない。かつての中車と芝鶴の名演を思い出した。仁左衛門の清玄は、この場で因縁を思う芝居が浅く、玉三郎の桜姫もどうにも現実が受け入れられず、世界を捨てる奇妙さがかつて程ではなかった。鴈治郎、錦之助は一通り。
 二幕目の稲瀬川は、幕が開くといきなり松井源吾が清玄と桜姫を責め苛んでいるというカット版。時間のせいであるが、もっと丁寧に運んで欲しかった。ことに桜姫が清玄と結婚さえすれば、非人にならずに済むというところは、大事な枷だからカットして欲しくなかった。しかし今度の「桜姫」で三十六年前に比べて断然優れているのは、この場の仁左衛門の清玄である。本来白菊丸を愛していた清玄が、桜姫に乗り換えるのは、原作でもかなり荒唐無稽、不自然なところがある。しかしそこがまたこの作品の面白さでもあって、この運命の不条理がこのドラマの本質であり、清玄はその運命に操られて桜姫を愛するようになる。しかし前回までは仁左衛門の清玄にはやはり唐突さ、不自然さが目立った。それが今度はごく自然に、しかも面白くなっている。清玄は最初に桜姫を白菊丸の生まれ変わりだと思ったから桜姫に親切にする。可哀そうにも思う。仁左衛門はその優しさが巧い。その優しさがいつの間にか恋になり、果てはこの恋こそが自分の運命だと見定めた清玄は、その恋に生きようとする。ここが巧い。ところがそこで桜姫に拒否される。その拒否で一挙に恋が激しい執着に転化する。仁左衛門はこの変化を自分の体が自然に受け入れて行く芝居が巧い。不思議な面白さであり、前回と違って傑作である。桜姫はここで自分の世界を捨てる。捨てられるといってもいい。玉三郎にはその面白さが前回と違って薄い。花道の左袖を横に水平に掲げた姿の面白さは、今はもうない。それに比べると仁左衛門の清玄が赤子を抱き、桜姫の片袖を持っての花道の引込みの「桜姫、ヤァーイ」は、世界の運命に踏みにじられる人間の絶望の叫びで耳に残った。
 大詰は桜姫、清玄二人っきりのだんまり。原作では情緒あふれる名場面だが、傘の歌も詠みにくく、まだ舞台の寸法が決まらず水っぽい。後日にはよくなるだろう。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』