2021年5月歌舞伎座 第二部

菊五郎の勘平

 第二部は「忠臣蔵」の落人と六段目である。
 「落人」の勘平は錦之助。これが役の要求するニンにピッタリのはまり役、予想通りの勘平である。その柔らか味といい、その色気といい、その性格といい、勘平そのものである。今度は花道の出がなく、浅黄幕を振り落とすと、勘平とおかるが雨合羽に笠の二人立ちという型。むろん「身を忍ぶ路」や「夜の富士」はお定まりの通り。おかるに引っ張られてついついここまで来てしまった男の哀愁がよく出ている。
 梅枝のおかるは矢絣の着付けがよく似合って、その瓜実顔の古風な美しさといい、まことにおかるらしいが、惜しいことに振りの掘り下げ方が今一つ足りない。たとえば「身を忍ぶ路の」でいえば、向うに人の気配があってそれを避けるために、勘平と入れ替わってその陰に隠れるのだから、一つ廻って勘平と入れ替わってからも、向うへの気配りと陰に隠れる警戒心が要る。ただ廻って入れ替わっただけでは振りが生きないし、普通の踊りとは一味違う「道行」の芝居心が出ない。動作の端々にその役の性根が出なければならない。いいおかるだけに残念。
 鷺坂伴内は萬太郎。器用な人だけに可笑し味も憎みもそれなりにやってはいるが、本来三枚目の人ではなく気の毒。清元は延寿太夫、菊輔ほか。
 「落人」が終わって一度幕が閉まって六段目になる。いつもは五段目の勘平が引込むと、山おろしに析が入って黒御簾の「みさき踊り」の唄になって与市兵衛内の道具の舞台が廻って来る。という演出を見付けて来たから、こうして改めて幕が開く六段目に、なんとなく違和感があって芝居に溶け込めなくて困った。
 さて菊五郎の勘平は、さすがに往年の水気はなくなったものの、白く塗って若やいだ姿は、錦之助の勘平とはまた違った味わいの深さである。ことに今度はサラサラした持ち味で、その油ッ気の抜けた具合、おかるの乗った駕籠の棒鼻を片手で止めての「狩人の女房がお駕籠でもあるめえじゃあねぇか」の気障になるところが自然に身について枯れた芸の味わいである。
 ご承知の通り、この役には菊五郎代々の工夫した細緻な手順が付いている。むろん気障な入れ事もある。それを一つも目立たせず、さり気なく自然に、それでいてリアルな実感を持ってこなしていく。内へ入ってもおかやとおかるに、お才と源六を見て「あのお方は」と聞いて、二人に「あのお方」といわれての「あのという人もあるめえじゃねぇか」と笑う具合。その笑いが色気になる、その匙加減がまことに手に入っている。
 この勘平は紋服に着替えて、「お家の真ん中」で座ってから、おかやの話を聞いているところがことにいい。顔色一つ変えずにジッと聞いていて、それでいてシッカリとハラで芝居を受けている。ここらが駆け出しの勘平役者の及ばぬところ。まるで白湯でも呑む様な心地よさである。与市兵衛が帰ったのは引け過ぎと聞いて、それとなく俺が旅人を撃ったのは何どきだったかと無意識に指を折って時間を数え、フッと不審に思ったその視線が、お才の手許の縞の財布に行く具合のさりげなさ。まるで当てッ気のない芝居運びで、例の懐中の財布と見合わせる段取りから段々時代になって行く呼吸。見事なものである。
 それから気分がガラリと変わって、おかるとの「いっそ打ち明けありのまま」の別れまで、お定まりの段取りを終始段取りと見せずに自然に生きて行く具合。もう何回も観た芝居が新しく今ここで生まれた様に見える新鮮さ。余人の真似し難いところである。しかしなんの苦もなくやっている様に見えて、当然のことながらそこにはそれなりの苦労や工夫があることはいうまでもない。たとえば与市兵衛の死骸が運び込まれた後、勘平は手元の糸立て(茣蓙)を手繰り寄せて巻き、「飛んだことをしてしまった」と呟くのが菊五郎型だが、ここにはこのせりふが散文的過ぎる(むろん本文にはない入れ事である)という非難がある。今度の菊五郎は、糸立てを巻くのもごく自然に、それを捨てるのも軽くやった後、小さく「飛んだことを」を呟いて不自然にならない様に工夫している。むろん入れ事だから不自然ならばカットすれば済むことだが、それを敢えてそうせずに自分の工夫で見せたところに菊五郎の伝承についての意志を見ることが出来る。
 かくて腹切りから幕切れまで。おかやにおかるには黙っていてくれという捨てぜりふでいうのまで行き届いた勘平である。
 時蔵のおかるは少しドテドテしているが、手慣れた出来でそつがない。ことにうまいのは門口で煙草盆を源六に渡して世話木戸を閉めるところ。普通はすぐ手拭いを咥えて泣き上げるところだが、木戸を閉めて前屈みになって、木戸を閉めた右手を柱に当てたままにジッとしているほんの一寸の間が巧い。左團次の不破数右衛門はどっしりとしてよく、魁春の一文字屋お才は脂粉の匂いを底に湛えていい。又五郎の千崎は若作りにして勘平の同僚であることをハッキリさせ、金を返すところの顔を背ける思い入れが巧い。勘平への切ない友情である。東蔵のおかやは、再三のお勤めで自然の味が出て人間像と義太夫味が合体して円熟した。いいおかやである。ただ残念なのは最後の勘平を責めて髪の毛に手を掛ける前後が集中せず、芝居のイキが切れて盛り上がりに欠けること。義太夫に乗るところを巧く使って一気に舞台を盛り上げる段取りが欲しい。橘太郎の判人源六が歯切れのいい秀作。又之助、左升、菊伸の狩人がこの大顔合わせの六段目で見劣りしなかったのはお手柄。竹本は幹太夫、長一郎。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』