名品「桜姫東文章」
六月歌舞伎座の第二部は、四月に続いて「桜姫東文章」の下の巻である。岩淵庵室と山の宿権助内、そして大詰の浅草雷門三社祭。仁左衛門の清玄と権助の二役に大詰の大友頼国、玉三郎の桜姫で、四月の上の巻よりもさらに充実して、戦後歌舞伎の代表的な名舞台の一つになった。という理由は、二人の芸が円熟した結果、人物像が鮮明になったばかりでなく、南北の戯曲の構造、その意味するところがこれまでよりも鮮明になったからである。
順を追って書いていこう。
まず幕外で上の巻のあらすじの売りがある。それはいいのだが、筒袖に裁っけ袴を穿いた舞台番(千次郎)が立ったまま説明する上に、そのせりふ廻しが現代語調で聞き苦しい。頭取の口上でも舞台番でもいいが、それらしくなければ観客は芝居の世界に入り難い。
幕が開くと岩淵庵室。桜姫の打掛が広げて掛けてある。歌六の残月、吉弥の長浦と古手屋(當吉郎)と毒蜥蜴を山から取って来た百姓(松四朗)の芝居になるが、この古手屋と百姓のせりふがまた現代語調で、筋は通っても芝居に溶け込めない。なんとかならないものか。
それから仁左衛門の清玄が出て残月と長浦との芝居。二人が清玄の持っている香箱を金と勘違いして、毒蜥蜴を呑ませて殺そうとして失敗、結局絞め殺す芝居になる。歌六の残月は達者ではあるが、今一歩、脇役の練れた味と可笑し味が欲しい。吉弥の長浦はやはり女の情の滑稽さが足りない。
仁左衛門の清玄はこの件は、特にいう程のことはなかった。清玄が死んだと思った長浦が墓掘りの権助を迎えに行き、行き違いに孝太郎の葛飾のお十が出る。孝太郎はキリッとした町家の女房でいい。お十が地蔵堂へ入ると、早変わりで仁左衛門の権助が下手から出る。この早変わりが鮮やかで、仁左衛門が若く、スッキリして目の醒める様である。それは早変わりの手順がいいだけではなく、仁左衛門の二役の仕分けが際立っていいからである。病呆けて意識も定かでない清玄の暗さ、弱さ、その一方闊達で野放図に生きる権助の明るさ、強さ。明暗、強弱の対照が目を見張らせるので、こういうところが三十六年前とは大いに違うところである。
そこへ橘三郎の山女衒の勘六に連れられて、墨染の衣を着た玉三郎の桜姫が出る。頭巾を取ってビックリするのは残月、長浦ばかりではない。ここで権助も陰にいながら驚く。その芝居がもう一つ引き立たないのは、上手に張り出した柳の枝がまるでカーテンの様に貧弱で枝の間隔が均等だからである。もっと柳らしくありたい。
続いて桜姫と権助のめぐり逢い、残月、長浦の阿呆払いになる。権助桜姫の出合いは上の巻の桜谷草庵の奇蹟的な再会以来。桜谷草庵とこの岩淵庵室との違いは、その濃厚さ、その馴れ親しみ、その景色が既に権助も桜姫も環境によって変わっているからで、そこらの微妙繊細な味が鮮明なのも面白い。ことに仁左衛門の権助が、もう桜姫を女房に決め込んでいる色気、その一方、この女を金にしようという欲気、両方絡み合っての芝居の面白さがよく出ている。桜姫がこのあと闘う運命に対する本能―――それは権助がひたすら恋しいという本能―――の一角が既にもう地滑りを起こしているのが分かる。迫り来る運命対本能の激突の予感の戦慄。
その戦慄は、権助が女郎屋に掛け合いに行った後、一人になった桜姫が化粧をするシーンでさらに色濃くなる。このシーンは、さすがに玉三郎の往年の若さ、瑞々しさはなくなったものの、その分芸の輪郭が大きくなって堂々とした大舞台になった。その化粧で失われた世界が甦り、それにつれて雷鳴で息を吹き返した清玄がその姿を見る。そうして輪廻転生の世界を象徴した清玄が桜姫に縋りついて来る。こうして芋づる式に世界が桜姫に憑りついて来るのが実に鮮明である。作者がそのためにいかに巧妙な手順を書いているかが目の当たり。この細緻さ、この巧妙さはむろん南北が書いたものであるが、それが舞台で生きて働いて浮かび上がったのは、仁左衛門、玉三郎のイキの合った芸によってはじめて可能になったのである。
次がこの一幕の白眉、桜姫が清玄に襲われる立ち廻り。ここが三十六年前と演出は同じでも、その出来の全く違うところ、ましてその意味するところに天地雲泥の差があるのが今度の収穫である。すなわち逃廻る桜姫が庵室の経巻を投げる。それを枷にいくつかの二人の見得の、歌舞伎座の広い舞台一杯に広がる絢爛たる美しさ。その形の美しさに見ていて陶然となったのは私ばかりではない。場内に拍手が巻き起こってしばし鳴りやまなかった。その美しさはこれまでの二人のコンビで演じられたものの中でももっとも美しいものである。しかし美しいのは形だけではない。その形の意味であった。清玄は桜姫に輪廻転生の運命を迫る、いわばその運命の象徴である。それから逃れようとする桜姫は本能のままに生きる自由を求めている。自由を求めて戦う。この自由を求める桜姫の意図が生きたからこそ、この立ち廻りはかつてない美しいものに成った。運命と自由。その両者の闘い。それはいつの世にも変わらぬ人間の生きるための闘いであり、ここにまた生きるものであった。それが二人の舞台に生きているのだ。
清玄は結局立ち廻りのうちに死ぬ。一見桜姫の殺人の様に見えるがそうではない。桜姫が清玄から奪って権助の掘った穴に捨てた出刃包丁の上に、清玄が落ちて死ぬ。明らかに事故である。何故事故なのか。清玄はともかく輪廻転生の思想は死なずに蘇るからである。
この立ち廻りの後、戻って来る仁左衛門の権助の早変わりもまたガラッと変わってあざやかである。もう権助の顔には清玄と同じ痣がいつの間にか出来ている。死に切れぬ運命の手は桜姫を追ってついそこまで来ている。花道七三へ行った桜姫が中空に向かって「毒喰わば」という絶唱は、自由を求めて闘う女の魂の決断の叫びであり、それを受けて「去(皿)りゃあしねえよ」という権助の洒落には、その女の悲劇をひっくり返す力があると同時に、知らず知らずのうちに運命に巻き込まれて行く男の現実がある。この二人の幕切れもまた見事だった。
次の幕が山の宿の権助内。原作でいえば権助内の前に山の宿の自身番があり、ここで権助の入間悪五郎殺しがあるのだが、今度はこの一場丸ごとバッサリカット。それで却ってスッキリした。幕が開くと板付きで仁左衛門の権助が寝ている。そこへ金貸し綱右衛門(蝶十郎)に連れられて権助の長屋に住む錦之助の有明仙太郎と葛飾のお十夫婦が借金を返さないというのでやって来る。権助は綱右衛門を逆に脅かしお十を借金の抵当に取る。そこへ長屋の連中が捨て子を拾ってくる。捨て子には金が付いているので権助はたちまち預かって、お十を乳母にする。次いで千住の千代倉から桜姫が返されて来る。権助は桜姫の代わりにお十を女郎屋にやる。
今までの「桜姫東文章」は、この幕開きの芝居がゴタゴタして分かり難かったが、今度は整理されて手際よくトントンと運んでしかも面白い。仁左衛門、錦之助、孝太郎三人の達引きなど見違えるように面白い。その上にこの出入りを通して権助の人格が面白く浮かぶのである。次から次へ長屋のもめ事を巧く裁いて、悪知恵が湯水の様に沸いて来て、あれをこうすりゃあ、こうなるからこうと、巧く運んで金にする悪徳大家のピカレスクの面白さである。仁左衛門がトントンと運んでうまく見せる。これまでにない面白さ。傑作である。
ようやく桜姫と二人っきりになれて短い、夫婦の濡れ場のイキの合った面白さ。権助が会所へ呼ばれると桜姫の独り寝。舞台が暗くなっていつの間にか、上手に清玄の亡霊が立っている。ここも自然で巧い。昔の清玄は切り穴から出て座っていて、桜姫の位置もずっと上手の様に覚えているが、今度は玉三郎がグッと下手へ出て、清玄の亡霊は上手に立つために広い舞台が巧く使われている。ここからは玉三郎の独り舞台。啖呵を切っても運命の網は桜姫を雁字搦めにする。そこで自由を失った彼女はついに我が子を殺し、夫の権助を殺す。この立ち廻りは岩淵庵室の清玄との立ち廻りよりも手数は半分くらいしかないが、それでも前幕に匹敵する程の絢爛さ。ここでも拍手が来たのは、前幕とは立場が逆になって、女が男を殺す。事故ではなくて殺人。しかも敵討ちというところへ持って来て、上の巻から続いた自由と闘う桜姫がここで自由を失ってついに運命に屈服し、自分自身の手で自由を殺すというドラマが燦然と輝いているからだろう。人間の崩れて行く敗残の姿の美しさである。
かくて桜姫のドラマは終わる。そのドラマの構造、意味が明らかになった点で、今度の舞台は画期的であり、一代の傑作になった。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』