2021年7月国立劇場

又五郎の「四の切」

 二〇〇八年七月、今月と同じ国立劇場での歌舞伎鑑賞教室の又五郎(当時歌昇)の「四の切」は、目の醒めるような舞台であった(「歌昇 花咲く」拙著『渡辺保の歌舞伎劇評』所収)。あれから十三年、東京では再演の「四の切」である。
 本物の忠信は、花道を出たところ、菊五郎流だと花道中ほどから本舞台を見込んでツカツカと進んで、七三で止まって大刀を抜いて三段に腰を割るが、今度の又五郎は七三まで普通に来て、そこで大刀を抜いて腰を割る。整然としてアッサリして地味だが、キッチリして手応えがある。本舞台へ来てからも、義経とのやり取り、終始ハラ一つで受けている芝居が巧い。なんでもない様であるが、人の芸の邪魔にならない様にハラで芝居を受けながら、それで自分の仕事は仕事で十分にしている。
 静御前が出て、静を指でさす辺りは、前回ももっと派手にした方がいいと思ったが、今度もごく内輪。せっかく面白いところなのに残念。
 前半の仕どころである、竹「黙して」の下げ緒を捌いて袂に入れてのきまりは、段取りがキチンとして、義経を振り返るイキも十分だが、肝心の向こうに気を掛ける意気込みがアッサリして物足りなかった。回を重ねて油ッ気が抜けて来たのか。
 引込みにも同じことがいえる。オモテで両手を広げて駿河と亀井を止めて一回きまる。そこはいい。が、次のウラできまるところは、もう形だけになっている。三回目、なお然り。残念である。
 二役狐忠信は、前半、狐詞があまり分明でない。「桓武天皇」の「桓」は「カーン」と甲高く澄むのであって、その清澄な輪郭が狐の野性味を思わせるのだろう。その発声が濁ってただ何となく伸びている。
 例の竹「鳩の子は」の愁嘆もしていることに間違いはないが、その親子の情愛、狐の神話性は、総体に間延びして色彩が薄い。これならば本文通り、妻もあり子もあるいい歳の狐が親への孝行のために家庭を捨てるという構図を描いた方が、この人の今の芸風に似合って成功しただろうと思った。
 前回通り、静は高麗蔵、義経は歌昇(当時種太郎)。高麗蔵はさすがに大きく成長して前半の義経への物語、忠信との芝居、いずれも色濃くなった。歌昇の義経はこれも前回とは違って一人前の立派な義経になった。忠信に「静は如何いたせしぞ」もよく、「黙れ」で脇息をポンと前へ据えての怒りも巧い。しかし後半二度目の出からは意外に振るわず、狐に引き比べて自分の身の上を嘆くところも哀愁が足りない。どうしたことか。幕切れまで不出かし。
 蝶十郎の駿河(コロナ感染濃厚接触者認定で休演中の松江の代役)、種之助の亀井、板付きの橘三郎の河連法眼、梅花の飛鳥。橘三郎と梅花の夫婦は芝居はしっかりしているが、何分ともに幕開き数分間であの大事件を処理しようとする今の台本では、何のことやらよくわからず。ことに飛鳥が打掛を脱がずに自害しようとするのは乱暴。もっともこれらは役者の責任ではない。
 ついでにいえば竹「園原や」に掛かる前の、いつもの大勢の雪洞を持った腰元たちの、縁の下まで狐の大捜査。忠信の早変わりの時間稼ぎは知れているが、馬鹿々々しくて話にならず。どなたか一度考え直して頂けないだろうか。
 床は前が豊太夫、繁二、後が葵太夫、翔也。この葵太夫がよくて又五郎を見ていた視線を思わず床に走らせてしまった。よく狐の神話性を支えているのである。
 この「四の切」の前に種之助の解説「歌舞伎のみかた」。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』