菊之助の白井権八
今月は第二部の「鈴ヶ森」の、菊之助の白井権八がいい。しかしそれに触れる前に第一部から書いて行こう。第一部は去年十一月猿之助が洗い直して面白くした舞踊「蜘蛛の絲宿直噺」の再演である。相変わらず太鼓持ちに地唄で有名な「綱上」を踊らせるところが面白く、それに絡んで四天王の女房二人、笑也と笑三郎の三人の手踊りになるのが楽しい。振付藤間勘十郎。
猿之助の五役早変わりの中で一番いいのは、傾城の文使いに来る番頭新造。猿之助の色気、柔らかさがよく出ている。続いていいのが洒脱な太鼓持ち、若衆の小姓の順で、女の童は几帳一枚で小姓に変るのがあざやかだが、前回通り大々としている。最後に本性を現す傾城実は女郎蜘蛛の精は、前回よりも引き締まってよくなったが今一息。これに亀蔵の金時と福之助の貞光が絡む。常磐津は仲重太夫、菊寿郎、長唄は今藤尚之、稀音家祐介。
今度は頼光に梅玉、最後に押し戻し(平井保昌)が附いて松緑がこれを附き合い、さらに中車に渡辺綱、弘太郎が卜部季武に出て、舞台が一際大きく立派になった。
しかし頼光が九条の廓を仮御殿に使っているという設定で、はじめっから正面に水浅黄と赤の段鹿の子の暖簾が掛かっているのは洒落すぎ。古御所へ傾城でも太皷持ちでも新造でも出て来るというのが化け物の面白さ。理に堕ちては却って面白くない。これのみ趣向倒れ。
第一部はこの前に中車の按摩、松緑の泥棒で村上元三作、石川耕士演出の「あんまと泥棒」。四十分余りの、二人っきりの一幕もので、これも同じ顔触れの再演であるが、テレビのCМや現代劇では喜劇の巧い中車の強欲な按摩と松緑の逆にお人好し江戸ッ子の泥棒の取り合わせがいい。しかし喜劇のツボがもう一つうまくいっていないのは、強欲な按摩とお人好しの泥棒という二人の関係の変化が、芝居としてハッキリ出ていないからだろう。そのツボさえ押さえればもっと笑いが取れて面白くなるのに惜しい。たとえば松緑の泥棒が幕切れに一度門口を出ながら戻って来る。按摩の嘆きの芝居に引っ掛かって、哀れになって金を恵もうとして戻って来るのだが、それがなぜ戻って来るのか分からない。分かった上で見たらば爆笑ものだが、それが分からない、芝居が一つ足りないからである。すなわち按摩のウソに泥棒が嵌るという関係が、二人の芝居に欠けているのだ。そういうところが突っ込まれればもっと面白くなる。
続く第二部は、白鸚初役の山蔭右京で「身替座禅」。奥方玉の井は芝翫である。白鸚の右京は、芝居の巧い人だけに軽く運んで、その恐妻家ぶりは十分だが、意外に生彩がなく、自然に出る愛嬌、可笑し味に欠ける。芝翫の玉の井も当て込みがなく、これも自然にしているのがいい。橋之助の太郎冠者は、現代的でリアルではあるが、松羽目物の芸の輪郭を身に付けるべきである。可笑しくなくても困るが、さりとて松羽目物はただ可笑しければいいというものではない。米吉の千枝、莟玉の小枝は共にキレイというのみ。常磐津は和英太夫、八百二、長唄は鳥羽屋里長、杵屋五七郎。
二番目が「鈴ヶ森」。本来吉右衛門と錦之助が一日代わりで長兵衛を勤める筈であったが、吉右衛門が続いて休演のため錦之助が本役になった。錦之助は権八がニンの人だから、無理が目立つ。その無理を年配と努力で見せて、思ったよりも幅もあり、意外の出来でもある。せりふ廻しにも工夫があり、菊之助の権八と共にこの二人の出会い、人生上の運命的な出会いが深いドラマになって盛り上がった。
菊之助の権八は、先頃の「鏡獅子」に続いて身のこなし、取り分けてその足の運びのあざやかさが目に残る。今月の歌舞伎座はこの権八が一番の見もの。最近の「鈴ヶ森」の中でも大出来。六代目、梅幸、七代目と音羽屋四代の名舞台である。たとえば片足の爪先が、もう片方の足の土踏まずに入って、片仮名の「トの字」になる足遣い、あるいは片足の土踏まずにもう片足の踵が行くという具合の足遣いの難しさがきれいであざやかを極める。
ことに私が感心したのは刀を抜いて花道へ雲助を追って行き、花道七三で右足に掛り、左足を伸ばして右手の刀を左へ流して左手を添えてのきまりである。ここはツケを入れてはいけないという口伝のあるところ。祖父梅幸は多分それを承知でツケを入れていたのは、女形という自分の体では弱くなるのを嫌ったためだろう。菊之助は口伝通りツケを入れずにニューときまって、その味わいの深さ抜群であった。
ただ全体は前回と違って、前髪の柔らか味よりも、キッとした青年の覚悟、人を殺して出奔した生死の境を生きている辛苦、はじめての旅先の江戸という大都会への期待と不安、そういうものを抱えた一人の人間の、油断せぬ気配がよく出ていて、後半の長兵衛との出会いのドラマを鮮明にした。
吉之丞の飛脚、團蔵、彦三郎、権十郎、亀蔵、橘太郎らの雲助が手揃い。ただしオリンピックの当て込みだろうが縄跳びの立ち廻りから、斬られて骸骨になり、さらに脱いだ肉をもう一度着ての立ち廻りは洒落過ぎ。
さて第三部は、海老蔵五役早変わりの「雷神不動北山櫻」。五役中一番の出来は鳴神である。色気があって、野性味もあって、太い輪郭の描線で、いい鳴神である。ただ雲の絶間姫の体を触って行くプロセスはリアルにしようとするせいか、線が細く、時々乱れる。タッチは太く、豪快でありたい。酔い潰れて突っ伏したまゝ、庵室にも入らず、緋毛氈も使わず、坊主たちの陰で隈取を取った早業には一驚した。しかし驚くと同時にあまりの速さに安っぽくなるのも事実。しかし飛六法の引込みまで、五役中第一の出来である。
続いて「毛抜」の粂寺弾正がいい。前回と違ってどっしりと立派である。錦の前の髪が逆立つのを見て、あんぐり口を開けて驚いて見ているのは、鷹揚さ、寛濶さを出そうとするためだろうが、間が抜けて浮薄に見える。それとせりふ尻をやたらに伸ばすのが耳だつ、以上二点を除けばいい弾正。
そのほか、序幕の深草山の山中では、百歳になってもなお若く、女好きの陰陽の博士安倍清行という不思議な役と、この芝居の立敵早雲皇子の早変わりが鮮やか。ことに安倍清行の恍けた可笑し味と、早雲皇子のスケールの大きい立敵振りはいい。五役中この人の芸質がよく出ているのはこの敵役かも知れない。
その早雲皇子は「鳴神」の終わった後で一幕大立ち回りがあって、「蘭平物狂」もどきの花道の梯子にのるところが見もの。この人の役者としての形容のよさがよく分かる。
しかしこの場から最後の「不動」に代わるため、大薩摩でつなぐのは大ダレ。その「不動」の空中遊泳も大したことなし。二童子は廣松と九團次。
「毛抜」は、右團次の八釼玄蕃。友右衛門の小野春道、雀右衛門の腰元巻絹、門之助の秦秀太郎、市蔵の小原の万兵衛、九團次の八釼数馬がいずれもいい。
男女蔵の秦民部はしどころが削られて平凡。廣松の小野春風は、若いのに和事の役をとにもかくにもやっているが、後半事件に巻き込まれても人の芝居を邪魔しないためだろうか、全く無反応なのは困る。邪魔しないことと何にもしないことは違うことだ。男寅の錦の前、芝のぶの小磯。
「鳴神」は齋入と市蔵の白雲坊、黒雲坊がさすがにベテランでいい。児太郎の雲の絶間姫は、前半色気が薄く、後半かかあ天下で急に男の声になったりするのがよくない、他はしっかりしている。大薩摩は日吉小間蔵、杵屋巳太郎。巳太郎の三味線がよく鳴っている。イキがいいからである。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』