幸四郎の「義賢最期」
昼夜三部を通して一番印象に残ったのは第三部である。それも第三部が脚本・演出ともに優れた作品が揃ったからである。やはり大切なのは台本と演出という思いが今更ながら強い。
その第三部。最初が「源平布引滝」の二段目「義賢最期」である。むろん浄瑠璃として傑作というわけではないが、この作品には今日に通じる問いかけがある。
その問いかけとは、義賢の平家(独裁的権力)に対する反抗精神である。
保元平治の乱を経て、平家全盛の世の中になった今、源氏方で生き残っているのはほとんど義賢一人。それも風前の灯火である。現に清盛の上使高橋判官と長田太郎は、義賢に向かって義賢の兄義朝の髑髏を足蹴にして平家への忠誠心を示せと迫る。義賢はむろん戦略的には兄であろうと誰であろうと、たかが髑髏、足蹴にしても生き残るべきだと思っている。しかしいざとなるとどうしても蹴ることが出来ない。それは理屈でも感傷でもない。彼の中にそういう政治的戦略よりも大切ななにか―――絶対的なものがあるからである。それを失えば人間ではなくなる様ななにかが。
そういうものがあるから、上使を斬った義賢は、押し寄せた平家の軍勢を相手に、武装をせず、式服の素襖大紋を着たまま闘う。武装していないのだから敵の弓矢に抵抗すべくもない。戦死は知れ切ったはなしである。それでも彼は式服で闘う。それは一種の無抵抗主義の様に見えて、そうではない。命を賭しても守らなければならないものがこの世にはあることを示している。そこがこの作品の現代にも通じる所以である。
幸四郎初役の義賢は、仁左衛門の指導よろしきを得てせりふが巧い。低い声から高音までのせりふ廻しが義太夫狂言らしく、かつ心持が籠っていて上出来である。役のスケールの大きさ、この役の異常なまでの正義感がそのせりふに出ている。その上出来に比べて動きにまだ問題が残る。最初に二重下手から上手縁端の松の鉢を引き抜きに歩いて行く。ごく日常的な軽さは、時代物の主役らしくない。むろんこういう仕草は軽くていいのだが、ただ軽いだけではスケールが貧相になる。どっしりした時代物の格がある上で、軽くなければならないだろう。案の定、その後の松の木を引き抜いての見得がくすんでいてよくなかった。
しかし兄義朝の髑髏を蹴るところから、上使を斬るところになってさすがに力が入ってカドカドの見得がキッパリしていい出来になる。立ち廻りは研究のかいあって襖を立てた上に立つところはよく出来たが、幕切れの二重から階段を落ちるところまで、もう一つあざやかでないのはこの人の体に踊りがないからだろう。惜しい。
今度のこの一幕では、幸四郎もさることながら周囲の役々がいい。
まず第一の出来は梅枝二度目の小万。曽祖父三代目時蔵そっくりの面長の顔が生きて、幕切れ近く、髪を捌いて義賢に別れるウラ、オモテの哀傷は、その仕事もその持ち味で十分の出来。近来の小万であり、梅枝としても近来の当たり芸である。この次の「実盛物語」で片腕の奇蹟を起こす資格十分。いつもただの田舎の女房にしか見えないこの役が、梅枝でここまで立派になって幸四郎の義賢と二枚続きの役者絵になったのは大手柄である。
続いていいのは隼人の奴折平実は多田蔵人行綱。この人のニンのよさが生きてきっぱりしていい出来。それに似合って米吉の待宵姫。心持がよく出ている。早く三姫をやらせてやりたいと思う出来栄え。このカップルで芝居が面白くなるからニンというものは大事である。
この中に立ち混じって、高麗蔵の葵御前がベテランの余裕を見せる。その位取りといい、待宵姫との関係の仕分けといい、さすがである。他に亀蔵の矢走兵内、廣太郎の進野次郎、錦吾の九郎助、幸蔵の高橋判官、仁三郎の長田次郎。
この幕の後に上下ともいうべき若手の「鞘当」と「三社祭」が付いている。これがまた意外な収穫で面白い。「鞘当」は歌昇の不破に隼人の名古屋、新悟の留女。歌昇の不破はせりふ廻しと口跡が堂々として、あの小柄な体を大きく見せ、歌舞伎座の広い舞台に相応しかったのは一驚した。笠を取ってもその顔立ちが古怪に立派に見えるのは化粧の研究の結果だろう。ただ幸四郎の義賢と同じく動き、体の線に力強さがないのは、踊りのせいか。対する隼人は前の幕の折平から一転柔らかく、その若さ、その色気がいいが、欲には透明な爽やかさがあればなおいい。新悟の留女は華やかさこそないものの、その渋さ、仲居という落ち着きが一風変わっている。三人共にむろん「鞘当」一幕で観客を陶然とさせる持ち味は未だないが、それももう目の先と思わせたところがお手柄。こういう古劇は将来絶滅危惧種かと思っていたのに大いなる希望である。長唄は鳥羽屋長秀、五三吉次ほか。
続いて染五郎の悪玉、團子の善玉で「三社祭」。若くて、威勢がよくて、舞台を縦横無尽に踊りまくって爽快極まる「三社祭」。見ていて思わず時代もここまで来たのかと思った、というのは六代目と七代目三津五郎の「三社祭」は知らず、その次の勘三郎、松緑、そして富十郎と九代目三津五郎、さらに十八代目勘三郎と十代目三津五郎。それも夢幻と消えて今ここに染五郎、團子の勇気凛々たる「三社祭」。私は一体何代の「三社祭」を見たのかと思わず考えたからである。歌舞伎は日々に変り行く。しかし変わらぬものはあの曲、あの振り。染五郎、團子もいつかこの先人の繰り返し掘り下げた振りの深層に達して世間を震撼させるだろう。
清元は清美太夫、志寿造。
以上の第三部の好成績に比べて、第一部も第二部にも大分問題が残って成績も落ちる。第一部は二代目猿翁得意の「骨寄せの岩藤」を当代猿之助が石川耕士と「岩藤怪異篇」としてダイジェスト版を作った。序幕が大乗寺花見、浅野川の河原、八丁畷の骨寄せから花の山の宙乗りまでほぼ一時間。二幕目が草履打ちに、茶室の鳥居又助の切腹から望月弾正の滅亡、それに奥庭の尾上が岩藤の亡霊を討つまでの都合三場で五十分。まともにやれば優に一日はかかる芝居を二幕で合計わずかに一時間五十分。切りも切ったり詰め込みも詰め込んだり、驚くばかりの離れ業。これで筋が通って全てが終わってしまうのだから驚嘆すべきスピードである。見ていてあれよあれよという間もなかった。しかし芝居は辻褄が合えばそれでいいというものでもない。そこらが芝居の面白いところでもあり、難しいところ。詳しく触れよう。
先ず序幕は浅黄幕の前で多賀大領の本妻梅の方側の腰元と愛妾お柳の方側の腰元の争いがあり、それを振り落とすと大領とお柳の方の乱行があり、ここに悪臣蟹江一角と忠臣安田帯刀の争いがある。これが引込むと奴伊達平と蟹江一角の弟主税の宝物の奪い合いがある。続いて梅の方の愁嘆、それが終わると望月弾正が鳥居又助を騙して梅の方暗殺をそそのかす。又助は主人花房求女の勘気御免のために弾正の姦計に嵌る。これで大領、梅の方、伊達平、弾正の四役を猿之助が早替わりで見せるところ、初日前に新型コロナの濃厚接触者になり休演。巳之助が代役、巳之助の本役鳥居又助は鷹之資が代役。二人とも大過なく済んだのは偉い。以上で原作の多賀家下屋敷門前迄の芝居が全て済んでしまう。原作は雨の中での陰謀に風情があるが、こちらは桜満開の真昼間、事件は済んでも風情がない。
続く浅野川河原は、又助が忍ぶとすぐ梅の方の行列が来る。いつもの暗殺であるが、原作の篠突く大雨の浅野川を船に駕籠を乗せて渡そうとする行列を、又助が水中に潜って暗殺するというサスペンスはない。筋は通るがやはり風情はない。
すぐ八丁畷の馬捨て場の黒の夜景の道具幕を引いて、そこへ二代の尾上が出ていつもの芝居になる。すなわち道具幕を引いて取ると八百屋の卵塔場が組んであり、骨寄せになる。骨が骸骨になると岩藤の亡霊になる。ここはほゞ原作通り。ただ違うのはこの幕切れ。尾上を中心に、安田帯刀、望月弾正三人のだんまりに岩藤の亡霊が絡み、この三役を早変わりになること。そこでさすがにいきなりは花の山の宙乗りに行けないために、花道スッポンから大薩摩がせり出しになって時間を稼ぐ。続いて花の山。岩藤の亡霊が舞台上手へ行き、改めて下手まで行き、中央まで戻って来たところで序幕は終わり。
続く二幕目はいつもの草履打ちがあり、といってもここは猿之助流で弾正と岩藤の早替わり。勘三郎と違って衝立を一切使わず、二重奥へ岩藤の亡霊が消えて、弾正に戻ったところで幕。次が茶室で上手屋体に多賀大領が居る心で、局浦風の仲立ちで又助の懺悔と切腹。障子の内は大領と思いの他にお柳の方で、しかも彼女は又助の懺悔で又助の妹と知れて自害、密通していた望月弾正も自滅する。次が「加賀見山」の奥庭で岩藤とお初の件がそのままあって、亡霊退散、大領に尾上が褒められて幕。
これで岩藤、大領、伊達平、望月弾正、安田隼人、梅の方の六役早替わり、代役の巳之助の大奮闘。それでも大過なく勤めたのは、巳之助自身、そして裏方の段取りのあざやかさによる。ただ折角の六役早替わりも替わって見せるのに急で、芝居の仕どころまでは手が廻らず、着せ替え人形に止まった。巳之助六役中第一の出来は梅の方と伊達平。若手らしい華やかさがあってよく、続いていいのは安田隼人の爽やかさ。望月弾正はスケールが大きいのはいいが、早替わりのために白塗りなのが凄味と悪を減殺。多賀大領はちょっと出るだけだが、柔らか味、品位が足りない。肝心の岩藤の亡霊は、声が裏返って可笑しい。凄味が足りないのは今の巳之助では是非もない。
この中に入るとさすがに雀右衛門の二代の尾上が大人の芸。この人と、ほんのちょっと出るだけだが門之助の花房求女が、芝居に味わいの深さ、潤いを加えて、二人が出ている時は急に舞台が別物に見えて来る。
鷹之資の代役の鳥居又助は、台本が変わったために原作の面影が全くなく、ただの誠実な青年になってしまったのは残念。弾正の陰謀とは知らず、その姦計に乗せられて罪を犯してしまう暗さが欲しいところである。鷹之資の役である蟹江主税は猿四郎が代役。他に男女蔵の安田帯刀、亀鶴の蟹江一角、男寅の花園姫、笑也のお柳の方、笑三郎の局浦風、寿猿の局能村。
折角だから練り直して猿之助で一度見たい。
第二部は三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」の内「豊志賀の死」と北条秀司作・演出の舞踊劇「仇ゆめ」の二本立てである。
七之助初役の豊志賀は、年増女のグロテスクな嫉妬と、男を思い詰める滑稽さが強調されていて、凄味には欠ける。見ていてもう怪談は成り立たないのかと思った。およそ怪談の凄味には二つの方法あり、一つは仕掛けや突然のきっかけで観客をびっくりさせる行き方、もう一つは芸でゾッとさせる凄味であるが、前者は今でもあるが後者はおよそ地を払っている。七之助の豊志賀また然りである。
鶴松が抜擢されての新吉は、初心な感じはよく出ているが、この男は単に純情なばかりでなく、つい出来心とはいいながらも小間物屋のお久と恋仲になろうという年相応の抜け目のなさがあった方が芝居が面白くなる。
この一幕でさすがに群を抜いているのは扇雀の新吉の叔父勘蔵。なんのことはなく普通に運んでいる様にしていて、舞台をすっかり締めている。
勘九郎の噺家さん蝶は、本来脇役者の役だったのを十八代目勘三郎が附き合ってから大きな役になった。今度は勘九郎がやっているが、目を瞑って聞いていると声柄といい、喋り付きといい、父勘三郎にそっくり。まるでそこに勘三郎がいるかの如くであった、
児太郎の小間物屋の娘お久は、継母にいじめられる様な、おっとりしても初心なところがよく出ていてはまり役である。他に勘之丞の医者、國久の長屋の女房。
次の「仇ゆめ」は、京都の狸が島原の花魁深雪太夫に惚れて、ひそかに深雪が思っている舞の師匠に化けて通ってくる。深雪は思いがけない舞の師匠の告白につい打解けるが、そこへ本物の舞の師匠が来てつれなくする。この師匠には江戸に残してきた妻子がいるのだ。
揚屋の亭主は、この経緯からさては狸の仕業と悟って、若い者を連れて狸を追い詰め、深手を負った狸は、舞の師匠と別れた深雪に抱かれて息絶える。
面白い舞踊劇だが、一つの問題は、舞の師匠に化けた狸と本物の師匠が一人二役ならば、このシチュエーションが分かるが、まるで違う二人の役者がやると深雪が二人が違う男であることに気付かないのが違和感がある。それにこの芝居は各人の夢がそれぞれ擦れ違って自分の思いを遂げられないとした方が面白いだろう。狸もとより、深雪も失恋、舞の師匠も江戸へ行く、いずれも「仇ゆめ」に終わる方が世の中の不条理を描いて深さが出る。手負いの狸を深雪が抱いてなんとなくハッピーエンドになるのはつまらぬ。
勘九郎の狸、七之助の深雪、虎之介の舞の師匠、扇雀の揚屋の亭主。一番面白かったのは扇雀の亭主が大勢の店の若い者を連れて狸を追い詰める、上方風の唄の総踊り。こういう唄の使い方がこの作者の巧いところである。清元は延寿太夫、菊輔。竹本が六太夫、豊太夫、燕太郎、公彦。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』