仁左衛門の伊右衛門
仁左衛門の「四谷怪談」の民谷伊右衛門がいい。第三部。歌舞伎ファン必見の舞台である。
前回の時よりもはるかに丁寧かつ円熟して芸のうま味が増している。まず幕開きの片襷きで唐傘を張っている姿の風情が味わい深く、色気と悪が効いている。「このなけなしのその中に」のせりふも、ともするとその悪態が嫌味に聞こえるのを、そう聞こえないのは悪態に独特の愛嬌があるからで、そこらが芸の作った味で印象的である。伊藤家の乳母おまきが来て、お岩出産の祝儀、なんで俺にそこまでするのかとそれとなくギョロリと目を働かせる凄味、この受けの芝居が面白い。しかしその日に迫る借金にどうにもならず、心ならずも受けている身ずまいも、芝居の細かさも、それとなく仕ていて丁寧かつ複雑さで、練れた味わいになっているのだ。その頂点は、秋山長兵衛と関口官蔵を連れて伊藤家へ礼に行く花道の引込み。七三で止まらずなにもせずにスーッと何気なく歩いて行くのに、伊右衛門の心持目の当たり。観客によく分かる味わいが深い。
舞台が廻って伊藤の屋敷はさしたることもなく、再びもとの浪宅になる。お岩の顔の変わった驚きも大仰でなく、それでいて終始下手を向いて見ない様にしている具合も巧い。今夜は金がいるから質物をよこせとお岩に当たって行くところも、本当に金が要るというよりも、ウソでもお岩に辛く当たっている具合が見えて、この家庭のDVの悲劇が鮮やかになる。お岩がこればっかりはと蚊帳に縋るのに「放すなよ」という辺りも凄味が効いていながら、その残虐さが嫌味にならず面白く見えるのは何でもない様でいて手練れの巧さである。
それからいつもの通りの宅悦を脅かしての間男騒ぎ、お岩が死に小平を伊右衛門が手に掛けたところへ、伊藤喜兵衛とお梅が来ての内祝言。その喜兵衛を小平と、お梅をお岩と見誤っての殺す幕切れまで。トントンと運んで遅滞がない。幕切れは舞台上手に差し金で二つの人魂の焼酎火を見せ、伊右衛門はそれを見込んで右足に掛かって右手に持った刀を流してのきまりが、錦絵になる美しさである。幕開きの持ち味、風情、そしてこの幕切れの錦絵がこの伊右衛門の身上である。
この伊右衛門に対して玉三郎のお岩も前回とはすっかり変わっている。前回は、そのあまりの美しさに、その美貌を担保にして伊右衛門に父親の敵を討って貰いたいという打算が見える様だったが、さすがに今度はそういうところがすっかり取れているのがいい。それでこそお岩の哀れさが出る。しかしそれでもなおキレイはキレイ。なかでも薬を呑むために下手へ白湯を汲みに舞台を、ソロソロと横切って歩いて行く美しさ(ここは大抵よろめいたり壁や行燈、衝立に摑まるが玉三郎はそういうことを一切しない)は、そのほっそりとした首の投げ方の風情、襟足から肩に掛けての線のやさしさが鏑木清方か伊東深水の美人画かの如く、これでは伊右衛門が愛想を尽かす筈がないと思わせる。しかしこれはこの人の持ち味だから仕方がない。
ことに今度感心したのは、宅悦に後ろから抱き抱えられながら無理に鏡を見せられるところ。ここの中腰になって腕を張り足を大きく伸ばしての体の美しさは、その薄物の着付けからハッキリ分かる女形でなければならない独特の骨格である。
しかし問題もある。その一つは「常から邪険な伊右衛門殿」はじめお馴染みの名せりふがボソボソいっていてリアル過ぎて平板、合い方に乗る音楽的な楽しみも起伏もないこと。南北がいくら「生世話」だといっても少しは乗って欲しい。そうしないと芝居の運びが弛緩する。もう一つは、宅悦から伊藤家の陰謀の真相を知って一転嫉妬と怒りに変る迫力がないこと。それがないと凄味がないのが残念である。
これはお岩を助ける宅悦の松之助にも問題がある。このベテランにして、イヤむしろベテランだからこそ玉三郎に合わせているのだろうが、リアルにリアルにしてほとんど合い方にも乗らないために全く面白くない。最初の幕切れの「一つ防げば二方三方」など素に近くて映えないことおびただしい。
橋之助の小仏小平は悪くないが、この役がお岩との早替わりを設定して書かれているために、その早替わりがないとなんとなく物足りない。不思議なものである。
亀蔵の伊藤喜兵衛は悪が効かず味がない。萬次郎の後家お弓は役者過ぎて、この女のドラマでもう一幕別な芝居が出来ようかという感じがする。千之助のお梅は初々しく新鮮。歌女之丞の乳母おまき。玉雪の戸倉屋がまるで南北調でないために、相手をしている仁左衛門が損をしている。仁三郎の秋山長兵衛、松十郎の関口官蔵、松太郎の中間も右同断。いずれも南北物らしい色彩に乏しい。
二十分の幕間で隠亡堀になる。
仁左衛門の伊右衛門は、浪宅ではこの役の様々な面を見せている。その中にはこの役の安っぽいところもある。時代物の立敵というスケールの大きさではなく、市井のそれこそ「生世話」の軽さ、リアルさである。浪宅ではそこが面白くもあり、風味でもあったが、この幕になってグッと大敵の輪郭をもって大輪の花になった。例の深編笠を取って棒杭に片足掛けての「首が飛んでも」の大見得が立派なのである。
戸板返しの玉三郎のお岩の亡霊はさしたることもないが、二役小平の女房お花は目の醒める美しさ。仁左衛門と玉三郎がいいので、久しぶりで「だんまり」らしい面白さを味わった。一挙手一投足がそのまま絵であり、味わいがある。隠亡堀の夜の闇が一際濃い。
直助権兵衛は松緑。仁左衛門と玉三郎の二人の先輩に挟まれて緊張もし、神妙でもあるが、「生世話」といってもあまりに素に近づき過ぎる。突っ込むところはもっと突っ込み、時代なところは時代で行きたい。
この人でいいのは、お弓に伊右衛門はどこにと聞かれて、思わずツイここにといい掛けるイキ。もう一つはだんまりになるとこの人の体がキビキビと一際光って来ること。
橋之助の小平と佐藤与茂七の二役は一通り。萬次郎の後家お弓と歌女之丞の乳母おまきは悪くはないが、二人が堀に落ちるところが大道具の工夫で藪陰になり却って分かり難い。こういう仕掛けは単純な方が歌舞伎らしくていい。京蔵の伊右衛門の母お熊。
以上第三部であるが、私が見た招待日の九月三日は、歌昇と隼人ほかのコロナ感染で第二部が休演。この「四谷怪談」の他には第一部を見た。
その第一部は歌右衛門二十年祭、芝翫十年祭とあって二人の名女形を偲ぶ「お江戸みやげ」と舞踊「須磨の写絵」上の巻の二本立て。「お江戸みやげ」は現在の芝翫が立役のため父芝翫の女形を偲ばせるというところから選ばれたのだろうが、一代の名女形の追善には渋すぎる。ただ一ついいのはこの二本の狂言で、成駒屋、加賀屋、中村屋の三家一門全員の顔が揃ったことである。
ことに「お江戸みやげ」の幕開き、福助が常磐津の師匠文字福で床几に座って久しぶりに元気な顔を見せた。せりふに少しはっきりしないところはあっても、不自由な右半身を巧く庇って、角兵衛獅子に祝儀をやったり、茶を呑んだりして、引込みには人手もほとんど借りずに歩いて上手の奥に入った。まずは目出度い。芝翫のお辻は、珍しい女形を器用にやっているが、なんとなく哀れ気が薄いうえに、喜劇の笑いが取れないのには困った。何しろ芝翫は時代物役者、「鎌三」の佐々木高綱、「陣屋」の熊谷、「太十」の光秀、「袖萩」の貞任がいい人、喜劇には向いていない。
対する勘九郎のおゆうは、亡き十八代目にそっくり。他に東蔵の常磐津文字辰、莟玉の娘お紺、七之助の阪東栄紫、梅花の女中お長、松江のカシラ、玉太郎の小女、福之助と歌之助の越後獅子。
次が清元の舞踊「須磨の写絵」の上の巻を「行平名残の巻」と名付けたもの。
梅玉の行平はまさに切って嵌めた様なピッタリの役。お公家様らしくふんわりとした品位、柔らかさでこういう役のお手本である。魁春の松風、児太郎の村雨は、今日が二日目のせいか二人のイキがまるで合わず、ことに三人の手踊りはうまくいかず面白くない。段々よくなるだろうが、歌右衛門がかつて莟会で苦心して復活したものがこんな風になるのは悲しい。
その上幕切れの行平の花道の引込みに、一度は引込んだ松風が出て来て絡むのはよくない。松風がいた方が行平がやりやすい様に見えて、実はそうではない。原作は上手の屋体に姉妹が入って、行平一人の引込みになる。その方が余韻があるし、あそこで松風に出られたらば、本当は行平は入れない筈である。改悪という他ない。清元は延寿太夫、栄吉。
第二部は開いたらばまたご報告しよう。
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『渡辺保の歌舞伎劇評』