2021年11月国立劇場

芝翫の熊谷

 芝翫三度目の「熊谷陣屋」に感動した。
 今日一般的に行われる熊谷は団十郎型である。元来熊谷が人形浄瑠璃から歌舞伎へ移された時点で一般的だったのは三代目歌右衛門型である。しかしその歌右衛門型から、七代目団十郎、九代目団十郎が改訂した団十郎型が生まれ、今日一般的になった。歌右衛門型は「芝翫型」と呼ばれて今日ほとんど上演されない。
 この二つの型を比べると、芝翫型は古風で野性的で様式美に溢れ、一方団十郎型は近代的でリアルで、ハラ芸に富んでいる。そのため芝翫型はとかく見た目ばかり派手で形式に流れ勝ちで、内容が空疎と思われて歓迎されない。
 しかし今度の芝翫の熊谷が感動的なのは、その誤解を一掃して芝翫型本来の団十郎型とは違ったよさを発見した点である。すなわちその様式的な造形の面白さを十二分に生かしながら、しかもなお今まであまり芝翫型で顧みられなかった人間的な内容がそこに生きて、原作のテーマが団十郎型よりも強烈に浮かび上がらせることに成功した。三度目にして渾身を込めた芝翫の力作であり、大きな進境である。かくて私は今まで味わったことのない、この作品の本質を味わった。
 これぞ歌舞伎というべきファン必見の舞台である。
 順を追って書いて行こう。
 まず花道の出。赤ッ面に芝翫筋の化粧、黒ビロウドの着付けに赤地錦の裃、懐手の熊谷が揚幕を出たところ、その姿、その形、前回に比して圧倒的に大きい。しかしさらに進歩したのは一つ一つの科の丁寧かつ余裕があって、空間に刻み込む様な迫真的な力に満ちていることである。七三へ来る。立ち止まると本釣りが入る。本舞台を見て右足を引いて体を開く。ほとんど揚幕向きになる。ここが今までと違って揚幕を向いた形が強く印象に残る。さらに懐中から数珠を出して両手で持つ。そして思い入れ。コーンと本釣りが入って、数珠を袂に入れる。パッと両手で袴の上前を叩いて、それをきっかけに本舞台の方へ向き直る。グッと決まる。またコーン。この気持ちの切り替えの間に熊谷の「討って無常を悟りし」心持の面白さが様式的な動きの面白さと共に出る。気持ちもさることながら、これだけの造形的な面白さは芝翫型なればこそである。
 本舞台へ来る。制札の前で立ち止まって読む。桜を見る。思わずホロリとする。今まではほとんど目に付かなかった、このホロリと体を前倒しにする科がハッキリするのは、一つ一つの科が粒立ち、そこに気持ちが出て、なお前後への流れがあるからである。ここらが前回と違うところだ。
 竹「妻の相模を尻目に掛け」も違う。相模の前を通りかかってフッと気が付き、もう一度改めて見込んで、パッと袴の上前を両手で叩いて三段の下へ素早く行く。このイキがいい。そこで三段を上がりかかって振り向き裏向きツケ入りの芝翫型独特の見得になる。この一連の動作でもまた熊谷の気持ちが十二分に出る。
 堤の軍次が煙草盆を出す。続いて「ヤイ、女」ではなく「コリヤ、女房」も本文通り。「討ち死にしたらなんとする」と相模を伺うところも十分に効き、相模の「そりゃもう」を聞きながらわざと上手へ遠く視線を走らせながらハラで相模の反応を伺うところ、こういうところが芝翫型の、イヤ、古い歌舞伎の造形の面白さであり、心理描写やハラ芸を超える迫力である。その後の「急所なら悲しいか」の押しが効くのもこの仕込みがあるからである。
 藤の方が切り掛ける。それを止めて相模が「あなたは藤の」という。それを聞いて熊谷がまともに相模を見た瞬間、一瞬芝翫の顔が「佐竹次郎」の横顔になった。青春の時間が戻って来る。若い時熊谷は北面の武士「佐竹次郎」であった。そこで藤の方の侍女相模と出会っていい仲になる。しかし不義密通は死罪。その罪をなだめて関東に逃がしてくれたのこそ当時の主人藤の方。藤の方と相模から聞いて一瞬十六年の昔が熊谷の頭をよぎって、「佐竹次郎」になる。この芝居があるからこそこの後の竹「敬い奉る」の、パッと飛び上がって左手を伸ばし右膝を浮かしてのツケ入りの大見得―――芝翫型独自の動きの面白さの強い印象が生きる。型の動きを精一杯やることと、気持ちを突き詰めることが一つになって混然一体、型が生きる。
 物語になる。その豪快、その畳み込む迫力。その面白さはなかった。芝翫の熊谷は前二回も同じ芝翫型であったが、今度はここにもこの型を生かすための細心の工夫があり、かつ今回の進境による余裕があって、それがともに生きて芝翫型の魅力―――その古怪な力と様式が、物語の各所で生きている。
 その主だったところにだけ触れると、「平家の軍勢」と向こうを見て「ハオーッ」という掛け声の勇壮さ、「中に――緋縅」の袖を囲う様にしてのきまり、竹「逃げ出だす」と向こうを軍扇で指してのツケ入りの大見得。団十郎型で行くとリアルでスタティックなところだが、今度の芝翫はここのところが手に入って、さながら怒涛の如く、源平両軍の激突の修羅場の迫力目の当たり。「オオオイ、オオオイ、オオオーイ―」の声また勇壮を極めて、戦場の乱闘の凄惨さ異様な迫力である。ことに優れているのは、竹「波の打ちもの二打ち三打ち」から「イザヤ組まん」のあたり。馬から二騎の鎧武者がドッと引き摺り落されて組討になる迫力が素晴らしい。鎧袖一触、その触れあう音、馬の嘶き、怒涛の響きが耳に木魂するようであった。しかも竹「両馬の間にどうと落つ」の辺りは、ちゃんと動きが絵になっている。団十郎型だとこの辺は整然とし、洗練され切っているが、芝翫型の、今度の芝翫だとその迫力が今まで見たことのない様な、豪宕しかも団十郎型よりもリアルなのには一驚した。それから左に立てた太刀を敦盛に見立てての「はや落ち給え」は、全く小次郎にいう父親の気持ち、それが敦盛にいう表向きと一体になりながら、両方に聞こえて来るのは、一見同じように見えても団十郎型とは違う芝翫型のいい意味で泥臭い、プリミティブな面白さである。これあるがゆえにこの後の芝翫型独特の平山見得が引き立つ。竹「後ろの山」と振り返る体の動き、軍扇の扱い、イトに乗ってひいふうみと前に出て来るイキ、三段に片足を下ろして左手を横に伸ばし、右の軍扇を高く翳して、カッと口を開けて舌を出してツケ入りの大見得。舌が赤くないのが不満だが、グロテスクにグロテスクにやってこそこういう型が却ってリアリティを持つことが今度よく分かった。型の命が生き返るのだ。
 首実検はいつもの織物の着付けに長裃。首桶を開ける前に裃の右肩を脱ぐこと、その他の段取りいつもの通り。首を義経に見せる時は、真横ではないが団十郎型に近い。これは体をもっと開くべきだろう。義経が扇を翳したところでジリと横向きになった。
 三度目の出からは、兜を先にとって有髪の形。ざんばら髪でなくまとめてある。少しでも抵抗感が無い様にという配慮だろうが、これはざんばら髪の方が戦争の中の混雑を思わせていい。それに本文にある「白無垢」の着付けでなく墨染の僧衣なのが問題。僧衣だとここだけがリアルになるのと、もう一つ作者がわざわざ「白無垢」と書いた意味が失なわれるからである。すなわち作者は熊谷が源平両家からはむろん浮世から離れること、それに小次郎の菩提の喪服、色鮮やかな義経の甲冑、灰色一色の弥陀六の姿に対する熊谷の白の対比と、これだけの意味を込めた「聖衣」として「白無垢」を指定した。それを感覚だけで僧衣にするのはよくない。
 さて最後に最も大事なことをいわなければならない。今度の芝翫は、芝翫型の造形力を気持ちと一体化したのが大手柄だが、その功績の結果、この作品の最も大事なテーマが浮かび上がった。それはむろんこの世が有為転変の浮世だという無常観だというものであるが、今度の芝翫の発見は、その無常観に達するために男たちがここ一番の大勝負で戦場を生き抜こうとしている、凄惨な人生である。むろんこの世はいつ何が起こるか分からない。昔も今もそのことに変わりがないし、その意味でこれは普遍的なテーマであるが、しかしその危険が身に迫るのは戦場であり、そこで生死の境を生き抜く男の意地である。それがあの熊谷の物語の意味であり、一瞬「佐竹次郎」の顔になった男の人生の意味である。その因果の論理が今度の芝翫の見せた男の生き方の凄惨さである。
 しかしその論理を生きたのは熊谷一人ではなかった。そこに鴈治郎の弥陀六、錦之助の義経がそれぞれ違った立場での、ハーモニィを作った。
 鴈治郎の弥陀六は、今の若さで気の毒な配役ではあるが、義経に宗清と見あらわされた後の、「その時、こなたを見逃さずば」の述懐で平家の滅亡が自分の行為にあったというところ、熊谷の有為転変の運命観とはまた別な角度からの歴史の因果を語っていい。熊谷が子を失う因縁の裏側として鮮明に浮かんだ。その運命はまた義経にもつながる。
 錦之助も御大将のニンとしてはピッタリ。その熊谷、弥陀六の運命を見透かす冷静さがありながら、一入深い無常感が熊谷と弥陀六の描く因縁の輪を増幅化し、相対化もしている。この存在で熊谷や弥陀六の輪廻が空間に広がる。それがまた団十郎型の熊谷一人の近代的な苦悩のドラマに絞ったのに対して、芝翫型の時代全体に照射する無常観の宇宙を作って圧倒的であった。
 孝太郎の相模は、さすがにしっとりとしてよく、児太郎の藤の方は若くて、熊谷夫婦との釣り合いもよくなく、敦盛の母とも見えない。松江の梶原、橋之助の堤の軍次。
 この陣屋の前に珍しく「宝引」が付くが、第一に補綴の上演台本がよくない。私はかって綱太夫弥七の素浄瑠璃でこの段を聞いたが、抱腹絶倒の可笑しさであった。あれがどうして生きないのかと思う。第二に寿治郎の庄屋はむろん百姓たちがよくない。演出のせいもあるが、みんなが夢中、必死になる可笑しさがない。鴈治郎の弥陀六、児太郎の藤の方、亀鶴の番場の忠太。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』