2021年5月歌舞伎座 第一部

令和の「三人吉三」

 五月歌舞伎座の第一部は、右近のお嬢吉三、隼人のお坊吉三、巳之助の和尚吉三という「三人吉三」と、松緑、猿之助の顔合わせの「土蜘」の二本立てである。むろん成績が優れているのは「土蜘」であるが、若手新世代の揃った「三人吉三」が、昭和でも平成でもなくまさしく令和そのものの現代版。その点画期的であるからそれから触れよう。
 右近のお嬢吉三は、花道を出たところ娘姿がよく似合っていいが、おとせの懐中へ手を差し入れての「その人魂よりこの金玉」からは、太い男の声で立役になる。むろん続く「月も朧に白魚の」も音吐朗々、さながらあたりに人無きが如く(といっても夜の大川端、人がいなくて当たり前だが)、堂々たる名ぜりふの歌い上げ方で度肝を抜く。というのは戦後の梅幸以下の名優たちのお嬢吉三は、みんなこの厄払いの内面的な根拠を求め、自分の内面かはたまた詩か、その歌い上げ方に悩み、聞く方もまた同じく苦しんだからである。しかし右近はそんなことは吹っ飛ばす勢い。その天衣無縫、あっけらかんさは、私に遠く十五代目羽左衛門や四代目沢村源之助のレコードを思い出させた。羽左衛門も源之助もどこ吹く風の能天気。戦後の人たちが割り切れずに口の中でモゴモゴいっているのとは大違いだったからだ。右近の臆面無き堂々たる朗誦はやはり画期的といっていいだろう。案外これが正しいのかも知れない。
 この右近につれて隼人もいつものとかく戸惑いがちなせりふ廻しがザクリ割れて颯爽たるもの。さらにそこへ割って入った巳之助までが、まんまと引込まれての大豹変。溜飲の下がる吹っ切れた具合に、一瞬歌舞伎座の大舞台に異様な空間が立ち現れたのが見えた。皮肉でも洒落でもなく、羽左衛門や源之助に一脈通じていいのかも知れない。どっちにしろこれが「令和」ということだろう。
 もう一つ驚いたのは、これはお嬢とお坊の立ち廻りになった時にフッと舞台をよぎった風が、なんとなくお嬢とお坊は互いに好感を持っている、友人になりたいという雰囲気を暗示していたことである。そしてそれは現実になる。二人の中に飛び込んだ和尚吉三を巻き込んで三人はたちまち兄弟になる。こんな好感溢れる三人の吉三を今まで見たことがなかった。その点でもこの「三人吉三」は画期的といわなければならない。
 莟玉のおとせは、花道七三で止まってのせりふにしっとりと哀れ気となにがしかの不安があるのがいい。辰緑の金貸し、荒五郎の研師。
 松緑の「土蜘」はもとより手応えのある役。今度は花道の出からいつもに増して凄味があり、本舞台へ来ての「樹下石上」からの踊りがさらに凄味を増していい。この緊張感は猿之助が頼光に出たためである。この二人の組み合わせが舞台に大きく幅を与えている。見ている観客もそれに巻き込まれて面白く、花道のカーッと口をあけての引込みまで、近来にない芸の火花の散り様であった。本来ならば土蜘に廻ってもおかしくない猿之助が頼光に廻ったための大舞台である。後ジテは立派で幅もあるが、どうしたことか蜘蛛の糸が貧弱なのは、紙が悪いのか撒き方が悪いのか。
 亀蔵の保昌はせりふが明晰なのがいい。福之助、鷹之資、左近、弘太郎の四天王はいずれも小粒。新悟の胡蝶は色気が薄く、踊りも平凡。太刀持ちの寺嶋眞秀がしっかりしている。今度は時間の都合で間狂言はカット。長唄は芳村辰三郎、柏要二郎ほか。要二郎の三味線が力強くていい。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』