2022年1月歌舞伎座 第一部・第二部

二〇二二年新春

 吉右衛門逝き、白鸚は二月の「ラ・マンチャの男」の稽古、菊五郎は国立劇場、玉三郎は大阪松竹座、仁左衛門は休みと、歌舞伎座の正月は、大看板は梅玉一人という例年にない寂しさ。ひとしお寒さが身に滲みる。
 第一部は勘九郎の「大蔵卿」から。桧垣はさすがに前回の子供っぽさがなくなって、立派に歌舞伎座の大舞台に通用する大蔵卿になった。その進歩の証拠は幕切れ。サラリと桧扇を開いて顔を隠さず、顔色も変えず持ち応えている。
 奥殿は勘解由を斬っての出から本心を明かすところまで、まことに爽やかで凛々しく、「源氏の類葉」たる面目は、祖父、父二代にわたる大蔵卿よりもキッパリして立派。この人の芸質に合っているが、「作り阿呆」に戻るとやはり違和感が強い。初代吉右衛門はそこを愛嬌で見せたが、それ以後三代目時蔵、十七代目勘三郎共にその変わり目を強調する演出になったために、愛嬌が身に付いていない勘九郎としてはどうしても無理。あの凛々しい大蔵卿がまことに後味の悪くなるのは残念至極。勘九郎は二代目吉右衛門や仁左衛門流を学んだ方がより芸質に合っていい大蔵卿になるだろう。
 扇雀の常盤御前は、前回よりも前半が格段に進歩して、常盤という女性の戦乱のなかで生きた人生がリアルに鮮明になった。これで「家来は家来の程々にて、深きに至らぬ小笹の茂り」といった名せりふが、この心持を含んで朗々たる美しさを持てばなおいい。ただこの常盤にして、夫の大蔵卿が本心を打ち明けた時にハラが抜けているのは惜しい。
 獅童の吉岡鬼次郎は、キッパリと古風でよく、七之助の女房お京は前回中村座の時に大いに感心したが、今度はそれほどではなかった。山左衛門の八剣勘解由は手強くていい。茶亭は勘之丞、鳴瀬は歌女之丞。
 この次に舞踊「元禄花見踊」。獅童が久吉、勘九郎が名古屋山三。七之助の出雲のお国、他に若手総出の若衆やら遊女やら大勢。その上に獅童の長男小川陽喜の初御目見得で観客大喜び。たった四歳にしてはしっかりしてよく形も整っている。遥か昔の、吉右衛門五歳の時の初舞台を思い出してしまった。
 長唄は鳥羽屋長秀、稀音家新之助ほか。
 装置の桜の巨木の林が仰仰しく、こと有り気に見えて役者を食っている。
 第二部は「春の寿」と題して、長唄の「三番叟」と竹本の「萬歳」。「三番叟」は梅玉の翁が品があって格調が高いが、意外に寂しそうである。魁春の女姿の千歳は安定している。芝翫の三番叟はこれも意外にあっさりして冴えず、ベテラン三人でさぞと思った程になく呆気ない。長唄は鳥羽屋里長、杵屋五七郎ほか。
 続いて「萬歳」。長唄の「三番叟」の後に上方の竹本で「萬歳」というのは、渋いが洒落た立て方だと思ったが、長唄と竹本、江戸と上方の対比もそれ程でなく、地味一方。萬歳は又五郎、才造は鴈治郎で二人ともそつがないが、文楽や上方舞で見る時ほど面白くなく、これは三河万歳らしい。それならば「峠の万歳」の方がよかったと思う。竹本は幹太夫、宏太郎ほか。
 「春の寿」の後がかつて宗十郎の会でやり、さらに幸四郎が明治座でやった喜劇「艪清の夢」。初演、明治座共に金がないのではなく使わなければならない立場になった男の夢の皮肉が効いていて面白かったが、今度はこの皮肉が効かず、三場目の「忠臣蔵五段目」のパロデイなど何をやっているかよく分からず、他愛無いともいえぬ舞台になってしまった。わずかに幸四郎の艪屋清吉が夢で「吉田屋」藤屋伊左衛門を見せるのが印象に残る。夕霧ならぬ梅ヶ枝は孝太郎。他に歌六、錦之助、友右衛門、壱太郎ら。

    

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『渡辺保の歌舞伎劇評』