2022年1月歌舞伎座 第三部

大当たり、猿之助の「四の切」

 新春の歌舞伎座、猿之助の「四の切」に感動した。今月一番の出来である。
 まず本物の忠信。花道揚幕を出て逆七三で、本舞台を見込んで刀を腰から抜いての思い入れの、主人義経恋しさの情感溢れていい忠信である。次いで七三に行って刀を前に廻して小腰を屈めた形、本舞台へ来るまで義経への思い入れのあざやかさを極める。型はだれがやっても変わらぬが、これだけの情の深さはほとんど見かけぬよさである。
 本舞台へ来てからの長ぜりふが風情があって面白い。ここのせりふで堪能させるのはまた珍しい。芝居も義経や静の芝居をよく受けている。人の芸の邪魔にならずに抜かりなく自分の芝居を十分して舞台を盛り上げている。たとえば申し次の侍が「佐藤四郎―――」といっただけで向こうを誰よりも早く見るイキ、終始このイキで芝居を運ぶので舞台が面白くなる。
 竹「黙して」の例の刀の下げ緒を取り縄にするところも、刀の下げ緒を持った形で一寸きまり、さらに捌いて行く動作がその積み重ねで、際立っていながら悪目立ちせず運んで、それでいて十分に心持が行き届いているのは大いに気に入った。
 そこから引込みまで、決して長くはない間にもかかわらず、少しも飽きさせないのは、よく芝居が充実して形が心持で彩られて生きているからである。
 続いて二役狐忠信。身の軽さはいうまでもなく、狐詞もよく研究されていて、いくらか伸ばし過ぎかと思うところもないではないが、狐という人間から見ればスケールの違う小動物の持つ表現があるのがいい。これによって狐の神話の異常さがよく出た。ことにいいのは後半鼓に別れを告げるところ、「切れ果てて」で片手で断ち切る科、「もとの古巣へ帰りまする」のせりふ、共に絶唱というべく見る者の心を打つ。物語の間に絶えず笑みを含んでいるのが印象的であった。
 宙乗りのある猿之助型は、菊五郎型と違って野性の風ともいうべき、天然自然の世界が開けて、狐が人間離れしているのが長所であるが、そういう長所が生きるのも、本物の忠信のよさ、それに狐忠信の表現の対照あってこそである。
 門之助の義経は、襲名以来の持ち役。前半「静は如何いたせしぞ」と脇息に頬杖を突く柔らか味と色気。後半「聞いた聞いた」からの憂いのハラの透徹した具合、共に前後照応していい義経。狐忠信に本文通り手ずから鼓を手渡すのもいい。
 雀右衛門の静御前は、前半の「八幡、山崎、小倉の里」の道行の面白さ。父先代雀右衛門のこぼれんばかりの色気をよく学んでいい。
 この二人がいいのでこの「四の切」は、猿之助ばかりでなく作品としてもよくなった。
 東蔵の川連法眼は、御簾が上がると板付きではあるが、口跡がよく通ってこの舞台の格を作った。妻飛鳥は笑也。駿河次郎が猿弥、亀井六郎が弘太郎。
 今回は「園原や」の前に大勢腰元が雪洞を持って出る在来の演出を変えて、笑也の飛鳥を筆頭に寿猿の局、侍二人、腰元二人という顔ぶれで狐探し。目先が変わっている。さてその「園原や」からがいいのは、葵太夫、淳一郎が舞台を締めているからである。この二人も含めて水準の高い「四の切」。歌舞伎ファン必見の舞台である。
 「四の切」の前に「岩戸の景清」。前場江の島の岩屋前のだんまりが、時間が短いにもかかわらず長く感じられるのは、一つは人物が多いために演出の整理が行き届いていないことと、もう一つは個々の俳優が「暗闇」を表現する基本的な演技が出来ていないこと、この二つの理由で「だんまり」の面白さが出ないためである。
 次の浜辺の場の景清の殺陣も長い。これは一つには殺陣の手付が悪いためであり、もう一つは松也の景清に荒事味が薄いためである。
 その松也の景清は隈取が顔に乗らず、荒事の骨法がよく会得されていないために体に力がなく、貧相に見える。ようやく幕外の飛六方で息を吹き返した。景清に絡む歌昇、巳之助、隼人、莟玉、種之助、新悟、米吉のなかでは、歌昇が歌舞伎座の大舞台に相応しく出色。声が時代物のそれになっているのはせりふ廻しの巧さのためである。     

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『渡辺保の歌舞伎劇評』