2022年10月歌舞伎座

芝翫の道玄

 芝翫初役の「加賀鳶」の按摩道玄がいい。六代目菊五郎の道玄は知らず、松緑、勘三郎以来現代に至るまでの道玄の中で最も正しい道玄である。私がそういうのは、現代の道玄の上演台本や演じ方が、河竹黙阿弥の原本(『黙阿弥全集』)とは違っているからである。
 道玄は一月十五日の夜、本郷お茶の水の土手で青梅の百姓太次右衛門を殺して金を奪った。その上、太次右衛門の妹、目の不自由な女按摩おせつを女房にし、太次右衛門の娘お朝を質屋の伊勢屋与兵衛の家に奉公に出した。しかも与兵衛がお朝に五両の金を恵んだのをタネに、お朝に手を付けたろうといって強請に来る。
 伊勢屋の店先、この狂言第一の見せ場である。ところが伊勢屋が呼んだ加賀前田家のお抱えの大名火消し「加賀鳶」の頭松蔵がやって来て、道玄との対決になる。この対決は二段になっていて、第一段目が、お朝が書置きを書いて家出したという道玄に対して、松蔵がお朝の手習草紙を取り寄せて書置きが真筆か偽書かを確かめる。その結果偽書だと判明して、道玄の強請のウソが暴露される。第二段が、正月の夜のお茶の水の太次右衛門殺しの現場に通り合わせた松蔵が拾った紙入れのなかにあった道玄あての書き出し(領収書)から、道玄こそ殺しの犯人だろうと決めつける件である。これにはさすがの道玄も屈服する。
 この二段が黙阿弥が苦心したところである。原作を読むと、第一弾は表面は道玄と松蔵二人の七五調の華麗なせりふのやり取りを書き、その運びで指定した「思い入れ」でその背後にある道玄の、獰猛で凶悪な凄味のある内面を描いた。書置きの偽筆位は微罪だし、強請は未遂だから道玄は歯を剥き出して居直るのである。第二段はそれとは対照的で、殺人は重罪で死刑、しかも物証があるから、リアルに道玄の敗北が描かれる。
 ところが現在上演される台本では、ほんの僅な改訂で、この作者の工夫が破壊されている。第一段には余計な入れ事、「思い入れ」のカットがあるために、「もとより噺の根無し草」というせりふで道玄が全面的に敗北してしまい、肝心な第二段の敗北はただの二番煎じに過ぎなくなってしまっている。その証拠に、松蔵に突っ込まれて両手を宙に泳がせる滑稽なしぐさが二度あるが、それが二回とも同じ繰り返しになってしまう。華麗なせりふと滑稽さだけが強調された結果である。
 今度の芝翫はそれを正道に戻した。この功績は大きい。なぜならば、この作者の二段の工夫によって、道玄の凄まじい凶暴さが舞台に現れたからである。まず筆跡鑑定の結果もう逃れられないと思った道玄は、「もとより噺の根無し草」と太々しく居直る。むろん無念口惜しい。華麗なせりふの裏側で道玄の凄まじい怨念が顔に出る。ただ滑稽なだけでなく凶暴な殺人犯の顔である。そこで第二段になる。松蔵に図星を刺されても、宙を泳ぐ手は全く違って来る。そしてあの凶暴な男の顔がはじめて滑稽に歪む。これぞ黙阿弥の書いたドラマであり、道玄の本当の横顔であった。
 それにつれて穏やかな梅玉の松蔵もキッパリしてあざやかな印象になる。ここでは黙阿弥の書いたせりふはただの七五調の「歌」ではなく、殺人者を追い詰める鋭い「凶器」になった。
 道玄と松蔵、その二人の間に立った左團次の伊勢屋与兵衛も、一見無表情に見えて、二人の芝居を受けてさすがに初役とは見えぬ貫目、品格。さすがに大店の大旦那である。この三人の取り合わせでドラマが深くなった。
 雀右衛門のおさすりお兼は、この人には気の毒。確かに父四代目もやった役には違いないが、この人には向いていない。梅蔵の番頭はまだ芸が若い。
 この強請を中心に序幕がお茶の水の殺し。ここは芝翫も梅玉もともにさしたることなし。延郎の太次右衛門が手堅くていい。
 木戸前の勢揃いはカットで、次が本郷菊坂の盲長屋。芝翫は一通り。ここでいいのは梅花の女房おせつ。体を殺していい出来。男寅のお朝が初々しい。猿三郎の女女衒、欣弥の按摩が目に付く。
 強請のあとは、もとの長屋と赤門前の捕物。さすがに家橘の大家喜兵衛が目に付く。
 この「加賀鳶」の前に萩原雪夫作の舞踊「源氏物語 夕顔の巻」がある。光源氏が夕顔の家にきらびやかな衣装を持って来る。それを着た夕顔が源氏と連れ舞になるうちに、六条御息所の生霊が現れて夕顔を取り殺すという一幕。
 梅玉の光源氏がこの人に切って嵌めた様な柔らかさ、品格でいい。魁春の六条御息所もこの人らしい色気と凄味。それとは対照的な孝太郎の夕顔。市蔵の惟光。清元は美寿太夫、菊輔ほか。 
 今月はこの第三部が見ものであるが、順に第一部、第二部に触れよう。
 第一部は、猿之助の舞踊「鬼揃紅葉狩」と講談を劇化した新作、竹柴潤一作、西森英行演出の赤穂義士外伝「荒川十太夫」の二本立て。
 第二部は、かつて坂田藤十郎と十八代目勘三郎で初演した小幡欣治の「祇園恋づくし」と狂言舞踊「釣女」の二本。
 まず「鬼揃紅葉狩」は、能の小書き(特殊演出)の「鬼揃」をヒントに黙阿弥の「紅葉狩」の書き直し。最近は玉三郎が能掛かりでやるが、これはむしろ在来の黙阿弥のそれに近い。松羽目を紅葉の絵に、幕切れは紅葉を天井から沢山散らしての華麗な演出の新版。
 猿之助の更科の前は、在来の赤姫仕立てではなやか。この人独特の女形の造形が艶やかである。後半の立ち廻りは少しくどくて長いのが難だが、秋の初めに格好の演目。
 幸四郎が維茂を付き合うが、ニンはピッタリ。柔らかなうちに強さがあり、強みのうちに色気があって、猿之助とはいい取り合わせ。
 ここに在来の山神の代わりに男山八幡宮の神女で雀右衛門が出る。笑也、笑三郎二人の末社が付いている。維茂の従者は猿弥と青虎。鬼女は門之助を筆頭に種之助、男寅、鷹之資、玉太郎、左近と鬼揃ならぬ若手花形揃い。長唄は今藤尚之、稀音家祐介ほか、常磐津は和英太夫、菊寿郎ほか、竹本は葵太夫、泰二郎ほか。三方掛け合いの豪華版である。
 次の新作「荒川十太夫」は松緑主演。元禄十六年二月四日、赤穂浪士切腹の日に堀部安兵衛の介錯をした、伊予藩の松平隠岐守の徒侍荒川十太夫が、最後に臨んだ安兵衛に身分を聞かれて、つい物頭役と答えてしまう。身分の高い人間が自分の介錯人と知れば、切腹する人間も名誉に思うだろうと思ったからである。
 そこが現代人には分かり難いところだが、そのため十太夫は身分詐称の罪に問われる。その事情を知った藩主隠岐守は自身に十太夫を尋問し、安兵衛への心遣いを知って、物頭役に抜擢するという話である。いい話なのだが、脚本は話の筋を追うだけで芝居として立体的に仕組まれていない。寄席の空間での語り物としては成立するだろうが、それだけでは芝居にはならない。十太夫の人間的な義士への同情が巧く表現出来る様に構成されていないからである。歌舞伎座の大舞台のために目先を変える必要があるのは分かるが、それよりも大事なのは十太夫の熱情の吐露の見せ場な筈だろう。
 松緑の十太夫は、大詰、泉岳寺へ墓参に来て一切無言で花道を入って行くハラ芸がよかった。新作で人間造形に苦労すれば、それだけ芸が進むこと目の当たりである。それに対してそれを見送る住職の猿弥はしゃべり過ぎ。むろんこれは猿弥のせいではないが、一言いったらば幕になる方が松緑も引き立ち、猿弥も得をするのに惜しい。
 猿之助の堀部安兵衛、左近の大石主税。亀蔵の隠岐守がせりふの巧さ、口跡のよさで聞かせる。いい出来。吉之丞の杉田五左衛門は狂言廻しの難役をよくこなしている。
 第二部の「祇園恋づくし」ももとは落語の「祇園会」。十七代目勘三郎と二代目鴈治郎で見たが、それを小幡欣治が書き直して藤十郎と十八代目勘三郎が初演した。その時二人の恋が描き込まれ、同時に二役早替わりという奇想天外な趣向が出来た。今度は鴈治郎と幸四郎のコンビであるが、大場正昭の演出は細部にも気を配っていていいが、時代のせいか初演よりも少しテンポが遅い様に思えた。ことに第三場薬師堂の境内がそう思えるのは、人間の出入りのせいか。幸四郎の留五郎の恋が淡く喜劇味が薄い。主人公二人の早替わりの手順もあるのだろうがそれを手早く見せる工夫が欲しかった。
 鴈治郎の二役がともに面白い。ことに大津屋次郎八はその風貌もピッタリでいかにもという感じで面白い。幸四郎は珍しい女形で笑わせる。それに周囲が充実している。歌六の持丸屋が巧い。高麗蔵のかかあ天下の女房おげんの厳しい可笑しさと、孝太郎の岩本楼の女将お筆のすいな雰囲気がいい。千之助のおその、巳之助の文七の若いカップルが新鮮。
 このあとが舞踊「釣女」。松緑の太郎冠者の端正かつキチンとした踊りに味が出て来ている。幸四郎の醜女は意外に可笑しくない。歌昇の大名、笑也の上臈。常磐津は和英太夫、菊寿郎ほか。

 

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『渡辺保の歌舞伎劇評』