十三代目團十郎の誕生
十一月の歌舞伎座で十三代目團十郎が誕生した。この新しい團十郎の誕生の歴史的な意味はどこにあるのだろうか。私は三点あると思う。
第一に、新團十郎の誕生によって、かつての十一代目團十郎の襲名がそうであったように、それまでとかく沈滞気味であった歌舞伎が息を吹き返したこと。この何年間か閑散としていた歌舞伎座が満員の観客に溢れ、猫も杓子も劇場に群がるサマを見て、私は十一代目襲名の奇跡を思い出した。これが新團十郎の社会的な意味である。
第二に、新團十郎自身が大きく飛躍的に成長した。具体的には後に触れるが、新團十郎は今までとは違った芸境を開いた。もともと彼は新しい世界を開く革命的な芸質を持っていた。しかし今度は團十郎という大名跡を継承することによって、さらにその芸質を深めることになった。もっとも襲名によって俳優が成長するのは、團十郎に限らない。多くの俳優の襲名で見るところである。しかし新團十郎の場合に殊更それが著しいのは、團十郎という名跡がこの世界の基幹ともなる「市川宗家」のものだからであり、その意味の深さ、いう迄もないからである。
第三に、これがもっとも大きな意味であるが、彼は昼夜に渡って同世代の俳優たちと競演し、そこに相互の刺激からの相乗効果を産み、新しい世界を形成することに成功した。昼の部の「勧進帳」では、彼の弁慶に対して幸四郎の富樫、猿之助の義経、夜の部の「助六」では、彼の助六に対して松緑の髭の意休、菊之助の揚巻と、昼夜に同世代の四人と競演して、この二つのトリオが作る世界によって、これからの歌舞伎の縮図を確立して、これまでない一つの時代の感覚を示すことに成功した。この世界の壮観は、十一代目團十郎の襲名の時にも、十二代目の時にもなかった風景である。この二つのトリオは、これからの歌舞伎の世界であり、時代相であった。
以上三点。團十郎襲名の意味は、劇場の復興、團十郎自身の進境、そしてこれからの歌舞伎の世界の暗示において画期的であった。
それでは具体的に触れよう。まず「勧進帳」から。新團十郎の弁慶は、前半大いに飛躍した。「その切ったる山伏首は判官殿よな」の辺りから、この男の富樫に対する二重のハラ――すなわち一方で富樫を説得し、策謀をめぐらして無事に関を越えようとする知的な心底、その一方で富樫を威嚇しながらこの難所を通ろうとする暴力的な強さ、そのウラとオモテの心が鮮やかになった。そうなるとこの男が今どういう状況に直面し、どう生きて行くのかもまた鮮明になる。一々状況と動きが鮮明になり、一々の言葉が観客の心に響いて来るからである。これは今までにない成長であり、この人間的な厚味と余裕のある表現によってドラマの骨格がまた鮮明になったのである。ことに「祝詞」の前後「いでいで最後の勤めをなさん」の富樫への目の遣い方の巧さは、この男の窮地に立った必死の思いを物語ってあざやかを極めた。
ただ一点、山伏問答に余裕があるのはいいが、それがために弁慶必死の答弁の働きがいささか危機感、サスペンスを失った。記録によれば九代目團十郎は、その苦しさ、必死に富樫の舌鋒を躱して行くのが、体の動きに出たという。その記録の真贋は別にしても、丁々発止になった方が芝居が面白くなるのは事実である。もっともこれには幸四郎の富樫が慎重の余り乗って来ないためもある。幸四郎の富樫は本来弁慶とは対照的な爽やかさで勝負した方が、この人の芸質に合うところを、同じ資質で四つに組もうとして失速している。残念。幸四郎の芸風ならば、弁慶とは違うタイプの男であることを強調した方がよかったのに。
さて話を弁慶に戻すと、義経打擲の決心は「日高くば能登の国まで――」に鮮明でよかったが、そこがいいだけにいざ金剛杖を振り上げての思い入れが長すぎる弊害がまだ残っている。
前半の面白さに比べて、後半は「判官御手」の前後の好演を除けば、延年の舞その他に多少の乱調がある。今後の課題であろう。
幕外の飛六法は、相変わらず太鼓に合わせての手のヒラヒラがよくないが、六法そのもの豪快に宙を飛ぶ勢いはさすがに脂が乗り切っている。
猿之助の義経が、その丁寧な芝居、せりふの明晰さによって傑作。弁慶のドラマを引き立てる一翼を担った、最近の義経である。もっともニンの上からは幸四郎と役が逆だったかも知れない。
市蔵の常陸坊、巳之助、染五郎、左近の四天王。番卒は新蔵、新十郎、松十郎。後見は齊入。長唄は尚之、日吉小間蔵に巳太郎の三味線。
夜の部の「助六」。新團十郎の助六がいかにいいかはすでに触れた通り(拙著「批評という鏡」)。御承知の通り、助六の河東節の出端は、踊りでなくて「カタリ」という。踊りが音楽に乗った流れを持っているとすれば「カタリ」はブツブツ断片化していてそういう流れを持っていない。流れがあるとすれば、それは形から形への流れであり、芝居の流れなのである。そのことを新團十郎は初役の時に明確に示した。それが助六という青年の真情告白になった。この人の発見であり、この人の助六の特徴であった。その特徴は今回も変わらず瑞々しい。
本舞台へ来ての名乗りもいいが、時々精一杯の声を張ってそれが破れるのが耳障り。しかし後半十郎と出会って喧嘩の稽古、股くぐり、続いての母満江との応対は、その大袈裟さが取れて「地」の芝居がしっかりして大いに進歩した。
この一幕で傑作なのは、菊之助の東京初役の揚巻と松緑のこれも初役の意休の二人。菊之助のたっぷりしたスケールの大きい豊潤さは、先月の「千本桜」の三役の比ではない。やはりこれが本役の強みである。最初の花道の出の酔態は、まだ真底酔ったというよりもまだ形だけに見えるが、本舞台へ来ての意休とのやり取りになると俄然光って来る。ことに「因果なことに」「どうしたことやら」助六に惚れているという告白の、一寸下に視線を落としたところ、この新吉原の百戦練磨の女の吐息の中に恋の実感が色濃く盛り上がる。あるいはまたこの廓の街中で「ぶたりょうが、手に掛けて殺さりょうが」といった時には、凄まじい覚悟の炎が見える。共に今までにない実感で、この女の人生、魂を描き出した。これも一言一句を正しく身体化して、それが口から出ているからである。そのせりふの正確さは、戯曲の中の人間を菊之助が正確に生きるということであった。
同じことはまた松緑の意休にも生きている。いつものこの人の癖が跡形もなく、せりふが明晰かつ正確、そこにこの男の茫洋とした底の深い気味悪さが生きている。その底の深さは、この男が持っている平家の残党としての「歴史」を背負って、「源氏」の正嫡を名乗る徳川幕府の認可した「新吉原」の、というよりもこの大江戸という大都会の寵児たる助六に対峙している。
意休は実は伊賀の平内左衛門といい、平家の大将平知盛の乳兄弟なのである。しかしなぜ江戸時代に生きる助六が実は鎌倉時代の曽我五郎であり、意休が知盛の乳兄弟なのか。明らかに時代錯誤であり、出鱈目ではないか。そう思われても仕方がない。しかしここにこそこの芝居の壮大な秘密、江戸という都市の根源がある。江戸を作った徳川家康は元来平氏の出身であったが、江戸幕府を作るにあたって鎌倉幕府をその手本とし、自ら源氏の棟梁として源氏に改姓した。意休の引き摺っているのは、そういう江戸の、新吉原の背後の闇に潜む「歴史」の時間なのである。松緑が新團十郎の光の陰に、そういう闇を描き出したのは大手柄である。
この揚巻と意休がいて、團十郎の助六が一際鮮明に生きた。
仁左衛門の寛闊で洒落た、かんぺら門兵衛が舞台に一陣の涼風を吹かせ、梅玉の白酒売り新兵衛が江戸和事の滑稽さをリアルに見せ、魁春の母満江がしっとりした情を見せ、又五郎の朝顔仙平が三枚目の奴言葉を面白く見せ、東蔵の茶屋女房が揚巻の前を一礼しながら横切って行く姿に、年増の鬢の油の香気を漂わせた。その他に幸四郎の口上、梅枝の白玉、新之助の福山のかつぎ、鴈治郎の通人、彦三郎以下の意休の子分、児太郎以下の並び傾城、男女蔵の田舎侍、九團次の奴、齊入の遣り手、右團次の後見という大顔合わせである。
以上二本の襲名披露狂言を中心に昼の部は「勧進帳」の前に一座総出の「芝居前」と新之助初舞台の「外郎売」がある。
「芝居前」は今井豊茂作の常磐津の舞踊。普通は芝居前といえば一場であるが、今度は二場仕立て。第一場が深川不動、第二場が芝居前。梅玉の頭と時蔵の芸者を中心にして若手総出の華やかさ。二場目になると板付きで楽善の芝居茶屋の主人と福助の女房が床几に腰掛けているという趣向、そこへ男伊達と女伊達が出て、祝い言葉の景気付け。久しぶりの福助の元気な姿がひときわ目を引く。
「外郎売」はいつもの野口達二の台本だが、今度は曽我十郎は出ず勸玄改め八代目新之助の外郎売実は曽我五郎一人立ち。健気なしっかりした芝居振りで、歌舞伎座の場内は万雷の拍手の大波。ここには菊五郎の工藤祐経はじめ、左團次の朝比奈、雀右衛門の舞鶴、魁春の大磯の虎、孝太郎の化粧坂の少将、児太郎の喜瀬川、廣松の亀菊、家橘と鷹之資の梶原親子、市蔵の茶道珍斎という大顔合わせ。
夜の部は「助六」の前に幸四郎の「矢の根」と「口上」。
幸四郎の五郎は、身体を目いっぱい使って、しかも細面の顔立ちに二本隈が似合って、姿かたちは予想以上のよさ。せりふも爽やかでいいが、荒事の勢い、力強さはもう一つ。この人のニンではないのだろう。十郎が巳之助、大薩摩文太夫が友右衛門、馬子が吉之丞。
「口上」はごく顔触れを絞って、新團十郎、新之助父子二人に、白鸚の引き合わせ、列座は菊五郎、仁左衛門、梅玉、左團次のみ。玉三郎は二十二日からで今夜は出ず。この口上の最後に團十郎の睨みがある。その眼力鋭く、四方への目配り、ゾッとする程の凄味である。これがこの人のよさ。
『渡辺保の歌舞伎劇評』