2022年12月歌舞伎座

團十郎襲名二月目

 團十郎襲名二月目は、大きく顔触れが変わっての二部制。披露狂言は昼の部が「京鹿子娘二人道成寺」の押し戻し、夜の部が十一月に続いて團十郎の助六を除いて周りはほとんど全員役替わりの「助六」である。この二つの狂言が今月の見ものである。
 まず「二人道成寺」から。菊之助の「二人道成寺」と聞いて、かつて菊之助が玉三郎と踊った新演出かと思ったが、今度は普通の「二人道成寺」であった。
 まずはいつもの通り、彦三郎、亀蔵以下の聞いたか坊主が出る。道行はカット。正面紅白の段幕が上がると、勘九郎の一人立ち。乱拍子をカットして急の舞のカカリで花道へ行くと、その目の先へスッポンから菊之助がせり出す。その後はほゞ二人同じ振りで大したことはない。この段の切れ長「真如の月を眺めあかさん」で、菊之助が烏帽子を撥ねて紅白の綱に引っ掛ける成駒屋型、勘九郎がその上手で烏帽子を取って中啓に乗せてきまる音羽屋型で、二人が絡んできまるのが変わっているだけ。
 続く長「いわず語らぬ」の手踊り、引き抜いての毬唄は二人一緒。二人並ぶと似ている様で似ていない。似てない様で似ている。菊之助がふくよかに祖父梅幸の面影。勘九郎は頬が少し高く瘦せぎすで曾祖父五代目福助の面影が見えながら、二人ともどこかで曾祖父六代目菊五郎を思わせる。その対照が面白い。
 続いて花笠の「わきて節」は勘九郎一人で踊って、いよいよクドキになる。今度の「二人道成寺」はここからが圧巻。目の覚める思いがする。
 まずクドキのはじめ、菊之助が手拭いを持って上手からいつもの姿であらわれる。上手から出て舞台真中にまで進む菊之助の、客席に振り向けた顔、姿がなんともいえず濃厚かつ深い思い入れで圧巻だつた。私はこんな濃厚な、思いの籠った出を見たのは初めてだった。驚いているうちに長「誰に見しょとて、紅鉄漿付きょうぞ」は普通であったが、その前後に上手、下手と手拭いを投げ掛けて男を追う振りがごく自然に小さく、しかも男の動いて行く具合、距離感を見せて、しどけない。総じてこのクドキ前半の濃厚さ、厚ぼったい美しさ、芝居の立体感ともに見事。先月の揚巻といい、これといい、やっぱりこの人は女形に限る。女形の限り次代の大黒柱である。
 クドキも三段目、長「ふっつり悋気」になって下手から同じ拵えの勘九郎が手拭いを持って出ると、舞台が一変する。まず菊之助、勘九郎二人の対照が繰り返されて、それが男と女の振りを分けて踊るから、そこに独特な世界が生まれる。ある時はさながら男女の恋人の如く、ある時はそっくりの双子の姉妹の如く、そしてまたある時はさながら女同士の恋人の如く、変化しながら絡んで行く。生々流転。そのありさまはこれまでの「娘道成寺」にはむろん「二人道成寺」にもない濃密さであった。これが今月見ものの一つである。
 山尽くしは二人で踊って、次の手踊りははじめ菊之助一人、のちに勘九郎が絡んで、クドキの余韻が、芬々と舞台に残る。
 鐘入りになる。菊之助、勘九郎二人の後ジテは、勘九郎は立役、菊之助も最近立役が多いので二人とも立派である。ここへいよいよ新團十郎の押し戻しが出る。「押し戻し」は歌舞伎十八番には違いないが独立した作品ではないから、襲名披露狂言にはどうかと思ったが、見れば見たで菊之助、勘九郎が上出来のところへ團十郎の荒事、ことに今度はいつもの紫地に手綱の衣裳と違って、黒地に市川家ゆかりの荒磯の縫い取りという衣裳、新風舞台に吹き渡って立派。せりふの高音部が伸びて声が割れるのが気になるが、それを別にすれば舞台の空気一転して見伊達がある。長唄は勝四郎、巳太郎に、日吉小間蔵、勝松のタテ別れ。
 この「二人道成寺」の前に松緑の不破、幸四郎の名古屋の「鞘当」、後に新之助襲名披露の「毛抜」。
 「鞘当」は今を盛りの若手の競演、さぞよかろうと思いのほか、それ程でもなかった。松緑の不破は、先月の髭の意休の大出来とは打って変わってせりふの語尾が伸びる癖が直らず、立派な姿にもかかわらずよくない。幸四郎の名古屋は口跡のよさといい、柔らかな持ち味といい、こちらは十分の出来であるが、いささか爽やかさが足りず、二人とも今一歩。
 留め男は猿之助と中車の一日変わり。猿之助は女形、中車は立役。私が見た日は中車で、こちらは大過なく済んでなにより。歌舞伎にとって逸材の一人、週刊誌の餌食などになって貰いたくない。
 「毛抜」は、新之助の狂言、子供に酸いも甘いも嚙み分けた粂寺弾正をやらせる無理は、百も承知の上での御愛嬌だろう。にもかかわらず当人は一生懸命、精一杯の大勉強で健気によく出来た。
 この新之助を囲む役者たちが、近来にない顔揃い。
 まず梅玉の小野春道の品位、芝翫の小原の万兵衛の大時代な味と愛嬌、雀右衛門の腰元巻絹の色気、右團次の八剣玄蕃の手強さ、錦之助の秦民部の柔らか味。ここらは当たり前としても、そのニンに嵌っていること、付き合いを離れて今日の最上、見ているだけで楽しい。
 それに若手がいい。幕開きの歌昇の八剣数馬、児太郎の秦秀太郎の二人の立ち廻りのカドカドのよさ、新悟の小野春風、廣松の錦の前まで落ちこぼれがない。これだけのはまり役、空前絶後である。
 以上の昼の部に対して、夜の部はいうまでもなく「助六」が見もの。
 新團十郎の「助六」は、十一月に続いての上演だが、今月は一際洗練されて、花道の「カタリ」のポーズの一つ一つが取り分けて美しく絵になった。助六の野性味、心持ちの新鮮さは薄らいだが、その分一枚一枚の絵それぞれの、お定まりの形の姿のよさは、どれをとっても錦絵の美しさ。僅か一月あまりに大進歩である。
 本舞台へ来ての意休を相手の悪態、「抜け抜け抜かねえか」のきまり、いずれも艶が出て来ている。ただ名乗りのせりふ廻しには、もう一段味わいが欲しいところであるが 、まずは当代の助六である。どこかに浅草花川戸の不良無頼の味が漂っているのがいい。
 ことに今度目に付くのは白酒売りとの芝居。勘九郎の白酒売り新兵衛実は曽我十郎もいいが、その釣り合いを取るためか、勘九郎の弟、さらには上村吉弥の母満江の息子に見えるのがいい。これも先月よりも格段の進歩である。
 この助六に対してやはりこの幕一番の見ものは玉三郎の揚巻。先月の菊之助もよかったが玉三郎はまた舞台のスケールの大きさ、格別の傑作。ことに前半がいい。花道の酒に酔っての出も、あっさりと軽くしながら的確。引手茶屋の店先での、遊客との酒の飲み比べ、乱酔ぶり、客に一歩も引かぬ意気地の張り合い。それでいて酔客とはいえ客である限りは十分に相手をしなければならない、遊女の哀しい生活、人生が鮮明に描かれる。せりふが空間に生きてさながら眼前にある如きイメージを描くからである。
 この揚巻の人生の窮状は、本舞台へ来ての意休との対立でさらに鮮明になる。彼女はただ悪態をついているのではない。遊女として大パトロンである意休への配慮、敬意を払っている。そこはいくら吉原の夜の女王といえども所詮は一介の娼婦に過ぎない女の哀しさ、はじめは下手に出て、しかし段々怒りがこみ上げて来る。酔態と、張りと意気地に生きる吉原の女、それが意休との対話によく出ている。そしてやがてそれがついに「悪態の初音」に至って爆発する。もう我慢出来ない。そういう怒りの炎が玉三郎の身体から見える様である。見えるから「悪態の初音」といった時に歌舞伎座の場内、万雷の拍手であった。そういう遊女の人生が、この豪奢な衣裳に着飾った姿に流れている。
 先月の菊之助の揚巻も新鮮でよかったが、そちらは恋一筋、想いに身を焼く女、遊女であろうがなかろうが恋に生きる女の哀しさ。一方今月の玉三郎の揚巻は、同じ役でも恋よりも手練手管の遊女の生活――張りと意気地を貫く女の人生。二人の女の生き方が対照的であった。今月は菊之助は白玉に廻ってそれなりに神妙に勤めているが、二人の女形が桜の満開な三浦屋の格子先に並んで座ると、先月の揚巻、今月の揚巻と百花繚乱。豪華な花園であった。
 彌十郎の髭の意休はニンが立派。先月の松緑と違ってこれはこれで歴史の世界の闇を背負わず、その代わり今はこれも桜満開のなかの錦絵の美しさ。芝翫筋のタイシャ色が目に染みる。
 続いてこの幕の大出来は勘九郎の白酒売り。團十郎の助六の向こうへ廻って立派に兄に見えたばかりでなく、柔らか味のうちにキッとした性根を見せてキリッと締まった芸で出色。
 他には猿之助の通人が笑わせる。巳之助の福山のかつぎがきっぱりした出来。左團次のかんぺら門兵衛は、とぼけた味がいいが、さすがに老年で大儀そうで気の毒。萬次郎のヤリ手、猿弥の朝顔仙平、吉弥の満江、新悟以下の並び傾城、それに幸四郎の口上。
 この「助六」の前に「口上」とぼたんの舞踊「團十郎娘」。
 「口上」は先月とは打って変わって市川一門、柿色の裃に黒紋付、鉞髷という正装での勢揃い。左團次、猿之助、権十郎、高麗蔵、男女蔵、中車から、親戚の幸四郎と一家一門水入らず。白鸚休演で引き合わせは左團次。
 「團十郎娘」は、いつもは一杯道具を二杯道具にして月見堂を見せ、カラミもいつもは二人なのを、右團次、男女蔵二人を別格に、大勢出してのショウアップ。ぼたんを引き立てているが、賑やかにはなったものの却って騒々しく印象が散漫になった。長唄は日吉小間蔵、杵屋勝松ほか。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』