菊之助の盛綱
「千本桜」の知盛、「馬盥」の光秀に続いて観客を驚かす菊之助の大冒険である。むろん盛綱は菊之助のニンではない。それでも知盛や光秀に比べればまだしも違和感が少ない。そこで有利なところもあり、しかしそれでもまだ違和感を拭うことが出来ぬところもある。順を追って書いて行こう。
まず和田兵衛を迎えるために二重正面の襖を払って出たところ。茶地錦織物の着付け裃。一筋爽やかな味わいもあり、呂の声も出て、まずまずの滑り出し。しかし「珍説珍説」の皮肉な怒りや「その座一寸も立たせはせじ」のキッとした剛毅さはさすがに効かない。この件の盛綱の格調はニンと共に年期も必要なのだろう。
それよりもこの件で盛綱が一番しなければならないことは、和田兵衛の反応から逆に北条時政の「子を餌に飼うて高綱を味方に付けん謀」に気付くことだろう。むろんそれを見せるところは浄瑠璃本文にも歌舞伎台本にもあからさまには書いていない。それをハラで、それとなく芝居で見せることである。それが抜けるとここは只の喧嘩になり、次の「思案の扇」の盛綱が「思案」しなければならないナカミが分らなくなる。
ついでその「思案の扇からりと捨て」。菊之助の今度の知盛や光秀と違っていいところは、この「思案の扇」以下の母微妙との芝居である。さすがに岳父吉右衛門の盛綱をじっくり勉強したのだろう。ただの真似事でなく自分のものになっている。研究したうえで自分流に、いい意味で自分の体で消化して芝居にしている。これは何十遍も繰り返して稽古をして自然に身に付いたよさである。たとえそれが吉右衛門と違ったとしても、それはそれ各人の個性、というところまで勉強したことを評価しなければならない。「血潮の滝」や「修羅の巷の責め太鼓」は、そういう意味で自分のものになっている。そこが知盛や光秀と違う。それだけでも「褒めておやりなされ」であるが、さてそれでいいかというと、そうはいかないところが、この芝居の難しさでもある。
注進受け。盛綱は九代目団十郎がいう様に「二股武士」ではない。北条時政に忠義を立て、しかし佐々木の家名も汚さずに、なおかつ弟高綱も救いたい。そこで苦心惨憺した計画が、母に頼んだ小四郎殺しである。その苦心の計画が一瞬にして泡と消えてしまうのがここである。したがって全てがひっくり返る様な衝撃と絶望がなければならない。そうして置いて始めて芝居は次の首実検に繋がるのである。
首実検。菊之助の盛綱は、ここがよくない。向こうを見て、小四郎を見てを繰り返して、そのために手順がゴチャゴチャして、盛綱が何を考えているのかよく分からない。少なくとも観客に訴える力がない。心持を説明しようとして焦るからである。グッとハラを締めて眼中に観客などなきが如き覚悟がいる。その結果の余裕がいる。ここらが本来立役の役者の芸の幅でなければならない。
述懐。首実検の手順の混乱は、次の述懐の冒頭、篝火呼び出しの「佐々木四郎左衛門高綱が妻の篝火」のせりふが俗にいう「捲れる」。ここは盛綱はすでに腹を切るつもり。微塵一筋の迷いもないのだから、その泰然自若の余裕がなければならない。亡き吉右衛門はここが初代に優る明晰さだった。それをつい思い出してしまった。それだけでも菊之助の、吉右衛門への想いは達せられたというべきだろうが、それは内証、舞台の出来はまた別である。
今度の「盛綱陣屋」は、配役を見た時ベテラン揃いと思ったが、意外にも期待外れが多い。なかでいいのは唯一梅枝の篝火。情といい、ハラといい、いい篝火である。続いて亀蔵休演につき橘三郎代役の北条時政。義太夫味が薄いというところもあるがそれは持ち味故是非なしとして、芝居がしっかりして一筋縄ではいかぬ老獪さがいい。
又五郎の和田兵衛は、意外に油ッ気が抜けていて、力の表現、芸の精彩さに乏しい。吉弥の微妙は、黙ってハラで受けている芝居が空白で盛り上がらない。形どころの造形、段取りに気を遣っている間に気持ちが抜けるのだろうか。このベテランにして「三悪道」の辺りや、あるいは注進受けでただ一間に座っているだけなのは残念。高綱の戦場の向こう、手前の盛綱の思惑、後ろにいるだろう小四郎への気遣いで本当は気持ちも体も八つ裂きになるところだろう。莟玉の早瀬は若過ぎる。それに返しの矢文の時も下手を見過ぎる。まるでそこに篝火がいる様である。萬太郎の信楽太郎は無難だが、種之助の伊吹藤太は可笑し味が足りない。丑之助の小四郎は前回よりうまいが、小走りになる時小さく足踏みをするのは、わざとらしい。
「盛綱陣屋」の前に萬太郎の解説が付く。
『渡辺保の歌舞伎劇評』