2022年3月歌舞伎座 第二部

仁左衛門の河内山

 三月歌舞伎座の三部の中では、第二部の仁左衛門の河内山がいい。私が見た日(三月八日)腰痛らしく序幕の質見世は無事にすんだが、二幕目の白書院で花道七三で座った後、松江家の家臣を呼んで肩を借り、大詰の玄関先も花道近くまで行ったが、その後やはり家臣の手を借りて、花道の引込みをやめて舞台下手で支えられて幕になった。しかし幸いに河内山はほとんど動きがないためそれ程の大事に至らなかったが、一時は見ているこっちがハラハラした。にもかかわらずさすがに手練れの仁左衛門だけあって、多少せりふのトーンは落ちたものの、相変わらずの名調子、芝居上手で、派手な形容といい、ことに白書院で松江候を追い詰めて行く鋭いイキが見ものだった。この人のよさは、河内山のそれとなく見せる野性的な本性と、それを隠してうわべは上野の宮の御使いを装う上品さと、その両極端を仕分けるところの巧さにある。
 むろん河内山をやる人の中には、その両極端をあざとく仕分けて見せ場にする人もいるが、仁左衛門はそれをふんわりと、しかし本性を見せる時は鋭く、深く、その両極端を対照的に見せて品のいい芸であり、そういう風に見せない人もいるのとは違った芝居の面白さである。この兼ね合いが難しいのだが、そこが円熟老巧、仁左衛門独特である。
 具体的にいえば、松江候が「諄いことを」と突っ撥ねるのに対して、ジッと思入れをする時の、これじゃあ脅かすしかないなという鋭さ、あるいは「ご承知あらざるか」と突っ込む具合。あるいはまたポンと中啓を捨ててのわざとゆっくり「御恥辱にては、ご、ざ、る、か、な」と一字ごとに押して突き放して行く具合。幕切れの中啓で袱紗包みの端を持ち上げる途端に時計の音、ハッとして合掌するのが析の頭というお定まりの、この時辺りに人はいないだろうかと上手、下手と見廻す、そのイキ、その目付きの野卑な鋭さが、この男の本性をクッキリ鮮明に描いている。
 この人の河内山は、あくまでもお芝居らしく、派手で面白く、粋で、胸の透く気持ちのよさである。
 序幕の質見世も、吉右衛門はリアルに舞台下手から出るが、この人は花道を出る。しかも今日は足の都合か、花道の中ほどでポンポンと上前を叩くのが、当座の思い付きか知らぬが、いかにもそれらしく味かあって面白かった。
 質見世へ入ってからは、木刀で金を貸すの貸さぬのから後家に会ってという辺りの図太さ、凄味、相談を引き受けて思案しながら門口を出て、黒御簾の「時雨時雨に」の独吟で鼻を撫でながら花道へ行き、七三で向こうを見て派手にポンと膝を叩いて気を替えて向こうへ入るイキ。駒下駄の音が辺りに響くあざやかさであった。
 大詰の玄関先は、北村大膳とのやり取り、「悪に強きは善にもと」の名調子。足の不自由さを吹き飛ばす出来栄えだった。
 周りも手揃いである。
 まず鴈治郎の松江候。二幕目第一場の大広間、北村大膳から宮崎数馬と腰元浪路が密通していると聞いてから怒りに燃え、高木小左衛門の諫言を煩がってから「使僧に会うのは面倒じゃわえ」の引込みまで、イキと心持一つで運んでいい松江候である。白書院になって、はじめは河内山の申し出を突っ撥ねての強引さが遂に折れるまで。仁左衛門の河内山に負けぬ派手な芝居運びでいい。
 歌六の高木小左衛門は落ち着いてよく、大広間の幕切れにこのハラ一つという覚悟も余裕があっていい。
 高麗蔵の宮崎数馬は、この人の当たり芸。さすがに前回よりは少し老けて見えるが、腕には歳を取らせず、その柔らかさ、その色気でこの人でなければならぬよさである。
 千之助の浪路は、なんでもない様な役でいながら、芝居の鍵を握っている役。自分さえ死ねばこの騒動も納まるだろうという性根を、立ち上がった時にそれとなく見せたのは偉いものである。この研究熱心を忘れないで貰いたい。
 吉之丞の北村大膳は、師匠吉右衛門とはまた違った仁左衛門の河内山に合わせての面白味がまた一味違っている。これで悪がもう一倍、憎たらしくなればなおいい。
 坂東亀蔵、亀鶴以下松江候の御家中もさすがに十八万石のお家、一統揃っている。
 順序が逆になったが、序幕質見世では、秀調の後家おまきが久しぶりの女形で、少しせりふが単調な他は、しっとりとしかも大店の御内儀らしいタッチでいい。松之助の番頭は、可笑し味、憎たらしさ、リアルさ共に十分である。和泉屋清兵衛は権十郎。
 以上の「河内山」が今月一番の見もの。続いて第二部の二本目は、菊五郎時蔵以下菊五郎劇団総出の「芝浜革財布」。いつもの顔触れ、手慣れた作品だから、楽しめるだろうと思ったが、意外にも話が嘘っぽく見えて仕方がなかった。私だけのことかも知れないが、亭主が財布を拾ってきたのを、女房が夢だといい張るという設定がどうにも不自然に思えるのは、時代のせいか。かつての桂三木助の名人芸、松緑梅幸のイキの合った夫婦の思わずジィーンとさせる面白さが、遠い昔のことの様に思えて仕方がなかった。
 菊五郎の魚屋政五郎はいつもの通り。時蔵の女房おたつは前半が巧い。底を割らずに嘘を吐く苦しさをそれとなく見せたのがいい。三年後の大詰はすでに触れた様に前半の様にリアリティが乏しいのはどうしてだろうか。政五郎の呑み仲間の左團次の大工、権十郎の左官、彦三郎の飾り職人、橘太郎の桶屋はアンサンブルが取れている。これに東蔵の女金貸しがいかにもそれらしい生活感をよく出している。大家は團蔵休演につき荒五郎。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』