2022年4月歌舞伎座

花見月の歌舞伎座

 四月歌舞伎座の第一部は「天一坊」の通しである。猿之助の天一坊、松緑の大岡越前守、愛之助の山内伊賀亮と若手三人が揃っているので期待して行ったが、例によって奈河彰輔本で、要領よく纏まって筋は通るものの、芝居の面白味には乏しい。序幕がほんの形ばかりのお三婆殺しで、前後の感応院は二場ともカット。二幕目もカット版の加太の浦、三幕目は木曽川口と常楽院の庫裏はカットでいきなり本堂。四幕目は大岡役宅での網代問答。水戸家への密訴も紀州調べも一切なく、大岡越前守一家の切腹。八ッ山下旅館はカットで、山内伊賀亮夫婦の最後はせりふのみで御白州になる。むろん時間の制約のために仕方がないが、芝居のリアリティや面白味を失っていることも否定できない。
 一つだけ例を挙げよう。お三が亡き娘澤の井の形見の秘密を明かす件り。原作では雪の重みを支える柱から、偶然法澤(のちの天一坊)が天井に隠してある形見を発見してお三から秘密を聞き出す。その運びがごく自然に出来ている。ところが奈河本ではお三が自分からペラペラ秘密をしゃべる。お三が十七年間誰にもしゃべらずにいた秘密を自分からしゃべるのは不自然だし、そこから法澤が悪心を抱くのにも無理がある。法澤がはじめはなんということもない好奇心から、段々秘密に深入りして悪心が兆すという変化がない。
 世話物にはこういうそれらしい細部のリアリティが大事であり、リアリティを出すには細部のそれらしく見せる自然さが必要である。それがないと芝居がただの手順だけになって生気を失う。これはお三婆の殺しだけでなく全編にわたって各役にいえる。猿之助の天一坊に限らず松緑の大岡越前守も愛之助の山内伊賀亮もそういうところが散見する。たとえばこの狂言の見せ場の一つ網代問答など、大岡越前守がなにを咎めようとし、伊賀亮がそれをどういい抜けたかが聞いていてよく分からない。それは単にせりふ廻しの問題ではないだろう。それよりも台本のカットの仕方であり、芝居運びの問題なのである。せりふ廻しを含めて演技のことは、その先のことだろう。
 猿之助の天一坊は、大胆かつふてぶてしいところがいいが、序幕の十七歳という設定よりは老けているのが損である。常楽院で自分から偽者だと告白するところは意外に淡泊だった。
 松緑の大岡越前守は、明快なところ、道理を説いて行くところの爽快さが乏しい。それにこの芝居で一番大事な、越前守が天一坊の骨相から偽者と直感しているという大前提が台本のカットで明確でないので損をしている。この確信がなければ越前守は幕閣の反対を押し切ってまで天一坊を究明しなかった筈である。
 三人の中で一番無難なのは愛之助の山内伊賀亮であるが、これも木曽川の場や八ッ山旅館の場のカットのために、浪人の上の心境、その上で天一坊を担ぎ出す気持ちが鮮明ではない。
 以上三人の他の役々。笑三郎のお三は、老いの哀れ気が足りない。巳之助の久助、新悟のお霜は平凡。加太の浦のだんまりの幕切れに絡む名主甚右衛門は寿猿だが、法澤の七兵衛殺しもだんまりもなんだか手順がモタモタして面白くない。
 二幕目になって男女蔵の常楽院天忠は、弟子の天一をいきなり締め殺すところ、悪を効かせるために芝居を抑えているのが、はた目には無精に見える。ここでいいのは猿弥の赤川大膳。芝居がしっかりしている上に安定していていい。藤井左京は青虎だが、個性が出ていないのはカットのせいで是非なしか。カットといえば木曽川がないために、笑也の伊賀亮の女房おさみはただ鯉を持って来るだけの役になってしまった。気の毒。
 三幕目から大詰まででは、亀蔵の池田大助が天一坊からの早替わりがないために平凡な役になってしまった。それにつれて紀州調べがない上に池田大助にしどころを取られた歌昇の平石治右衛門、松江の吉田三五郎も手持無沙汰。
 門之助の越前守の奥方小沢がさすがに舞台を締めている。一子忠右衛門は左近。近習に男寅と鷹之資。
 第二部は幸四郎二度目の「荒川の佐吉」に、梅玉、扇雀、又五郎の長唄舞踊「時鳥花有里」。
 第一部に対して「荒川の佐吉」の幕が開くと、役者がみんなイキイキして見える。それだけ芝居が自由になるからだろう。この作品は今日では仁左衛門の当たり芸。その仁左衛門の優れている点はおよそ二点ある。一つは三下奴でもいささか軽率なところさえある佐吉という一人の青年が、立派に親分の仇を討って一人前の大人に成長するドラマの骨格がよく分かること。ただの人情噺でも復讐物語でもないドラマの骨格である。
 もう一つは、彼がとても自分には敵わぬと思っていた親分の仇を討とうという勇気を、自分の育てた親分の娘の息子で、目の不自由な少年卯之吉から与えられること。目の不自由な人間に却って人間の自由を教えられる逆説が面白くもあり、泣かせるところでもあった。
 以上二点。幸四郎は、佐吉や卯之吉と同居している大工の辰五郎で二度も仁左衛門と共演していたから十分承知している筈であったが、初役の時に二点とも十分でなかった。今回は二度目でもあり、さすがに第一点の大人に成長するところは出来る様になったが、第二点は相変わらず鮮明でない。せっかく幸四郎は佐吉にピッタリのニンでもあり猿之助の澤瀉屋一流の佐吉とはまた違った仁左衛門流の佐吉が出来ると期待していたのに残念である。
 白鸚の相模屋政五郎が立派だが、佐吉を尊重して丁寧な口をきくところになる途端に貧相になるのが気になる。しかし骨格は十分。
 魁春の丸総の女房お新もいい。たった一場であるが、病床の亭主の悲劇を一身に背負って、とても来られた義理ではないところへ来ている苦しさが、短いせりふに滲み出ている。梅玉の成川郷右衛門は今度で三度目だけあって、人品といい、ニヒルな世を拗ねたところといい、よく工夫しているが、所詮はニンにないのは是非もない。
 高麗蔵の隅田の清五郎、孝太郎のお八重、錦吾の鍾馗の仁兵衛、亀鶴の極楽徳兵衛、橘三郎の土州家の部屋頭、高麗五郎の鳶頭。
 さて右近の大工辰五郎は、持ち味が柔らかいために大工らしい野性味、江戸ッ子気質には欠けるが、そこをイキ一つで巧く乗り切っている。
 そのあとが「時鳥花有里」。「千本桜」のスピンオフ作品で、江戸時代に確か四代目半四郎が忠信で「道行初音旅」を踊った時にそれを上の巻と下の巻に付けたのがこれである。したがってこの下の巻だけで「義経千本桜」というのは少し恥ずかしくないか。
 義経は梅玉。成川郷右衛門とは違ってこちらは絵に描いたような本役。そのニンのよさ、はまり具合、まことにいい。このお供に鴈治郎の鷲尾三郎。そこへ又五郎の傀儡師が出て三ッ面の踊り。景色が変わると満開の桜の山に、御殿の様な道具立てに扇雀はじめ、壱太郎、米吉、種之助、虎之介のキレイどころの白拍子が出る。この白拍子たちの出で立ち、御殿の様な大道具の立派さは目を奪うばかり。しかし作品の趣旨とは大分違う様に思う。義経主従の旅の道連れに、通り掛かりの旅の傀儡師と白拍子が絡む前半、その現実の旅芸人の姿がぶっ返って、龍田明神とその神女達となるのが趣意だから、前半は旅の現実のやつし、後半は一際大掛かりに神々しく正体の見顕しという二段構え、この前後の時代と世話の対照のメリハリが欲しい。立派な道具、キレイどころの出で立ちもいいが、これでは正体不明になりかねない。もっともこれは出演者のせいではないだろう。長唄は鳥羽屋里長、杵屋五七郎ほか。最後に義経の引込みにそれこそ一声時鳥の声を聴かせるが、なにか証文の出し遅れの様な気がする。
 第三部は仁左衛門玉三郎の顔合わせ。観客お待ちかねの二人の名コンビに今更「ぢいさんばあさん」とは勿体なさ過ぎると思ったが、見れば見たでやっぱり大人の芝居、これが今月一番の見ものであることに変わりがない。
 序幕の美濃部伊織の家は、仁左衛門の伊織、玉三郎のその妻るん共に往年のみずみずしさはないが、円熟した芸の艶、隅から隅まで行き届いた気持ちの描写、芝居の運び、手慣れてサラサラとしながら見応えがあって一瞬たりとも目が離せない。
 歌六の下嶋甚右衛門は、伊織がいう通り悪い人ではないが、ただ粘液質でしつっこいという、人間の両面が鮮やかに出て、舞台に一陣の風韻を残す。この三人の中に入ると隼人の宮重久右衛門も芸の若さが目立つのも無理がない。
 二幕目、京都鴨川の床は、仁左衛門の伊織が序幕に続いてリアルな、地の芝居が巧いが、るんの送ってくれた桜の花びらを散らすところは、ウソでももう少し派手に盛大でありたいと思った。下嶋を斬っての幕切れは、向うを見ての思い入れ、たまらずガクッと床へ膝を突く具合は十三代目仁左衛門の思い入れのよさとはまた違った工夫である。
 歌六の下嶋の憎っぷりもよく、周囲の秀調、権十郎、亀蔵に交じって老練松之助が若返っての芝居がさすがに巧い。それを含めて一同手揃いである。
 大詰。序幕から三十七年後のもとの伊織の屋敷。
 仁左衛門の伊織が出て来て、あゝ、家へ帰って来たという感慨がわき上がるところが巧い。声にならない、心の中に湧き上がる絶叫が聞こえる様であった。さらにるんと廻りあって抱き合うところ、玉三郎と深い情愛が自然に通い合う。
 玉三郎のるんも当てッ気のない巧さでいい。ただこの二人の幕切れの芝居は少し長い様に思った。運びを早く短くした方が、見る人の胸に余韻が残る。
 橋之助と千之助の甥夫婦は丁度釣り合いが取れていい。用人は吉三郎。
 このあと玉三郎が芸者姿で踊る清元の舞踊「お祭り」。前のるんの白髪頭からガラリと変わった粋な芸者姿に観客大喜び。その姿の美しさ、その形のよさが絵になって恰好の口直しである。福之助と歌之助のカラミ。清元は志寿子太夫、志寿造ほか。

今月の芝居に戻る


『渡辺保の歌舞伎劇評』