玉三郎の変容
六月歌舞伎座一番の見ものは、第三部の有吉佐和子作、齋藤雅文、玉三郎演出の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」である。これまでも度々上演された「ふるあめりか」が一体どう変わって一番の見ものになったのか。二つの点で変わったと私は思う。
一つは、玉三郎の芸者お園が今までと違ってほとんど素に近い様な、サラサラと自然に芝居を運んで、いわば超絶技巧的な面白さだからである。玉三郎の舞台に歌舞伎の女形としての様式的ないつもの面白さを期待している御贔屓には、これはあまり向かないかも知れない。それ程に衝撃的な変り様である。むろんやっていることはそれ程変わっている訳ではない。しかし同じことをやりながら、やっている心境が変わった。ことに序幕の岩亀楼の行燈部屋は、時にはハッキリ聞こえない様な低い声の、小音でリアルに気持ち一つで運んで行く芝居が独特だった。繊細微妙、それでいて花魁亀遊に対する心ずかい、同じ吉原から横浜まで流れて来た女同士の細かい友情、亀遊と通辞藤吉との秘かな恋を、ある時は揶揄し、ある時は励ます複雑な心情。全て余すところがない。そこに芸に対する玉三郎の到達した透明な心境が浮かんでいる。
その芝居の運び方を見ていて、私は新派の名女形喜多村緑郎(むろん先代である)を思い出した。今度は後に触れる様に新派の水谷八重子と波乃久里子の二人を除いた大勢のメンバーが出ているし、二代目喜多村緑郎もいるからでもあるまいが、先代の喜多村は小音で実にリアルな芝居をする名女形だった。むろん同じ女形でも歌舞伎と新派では違う。まして時代が違う喜多村と玉三郎を一緒には出来ない。歌舞伎には歌舞伎の古い伝統の匂いがあり、新派にはそれと共通しながらも新しい時代の息吹がある。それを承知の上で私が喜多村を思ったのは、玉三郎が喜多村がした様にほとんど歌舞伎を超えて、ギリギリのところまで素に近いリアルさでお園をやっているからである。それはむろん杉村春子の新劇とも違う。杉村春子が生きていたのは近代のリアリズムの中であって、玉三郎の生きている地点ともリアルさが違う。そういう中で今度の玉三郎は、女形としての存在を賭けた、いわば裸の姿なのである。しかもそれが淡々たる心境の内に行われているところが、これまでの玉三郎と違う。
たとえばその巧さは、一度倒れた亀遊を呼んで来いということになった時、スッと立ち上がってそのお使者には私がといって、スルスルと急ぎ足で障子を開けて出て行く、その後ろ姿の無類の巧さによく出ている。ここは何でもない様に見えて実はリアルさだけでは持ち切れない。リアルさを超える様式が出始めている。それはこの後に亀遊の死の報せがあるからで、いわばお園にとってもドラマそのものにとっても、運命の転換点だからである。ドラマはここでリアルな現実から別な世界に飛翔するのだ。
さてこの作品が変わったもう一点は、この玉三郎のお園の変り方によって有吉佐和子の戯曲の本質が明らかになった点である。今まで文学座の初演以来何度もこの作品を見て来たが、今まではどことなくスッキリしなかった。それが今夜はじめて私にも分かったという気がする。
この作品の本質はお園がなぜ攘夷遊女亀遊という虚構を作り上げたかにあることはいう迄もない。お園はなぜそんなことをしたのか。むろん最初は新聞のいかがわしい記事のせいもある、それにつられて大衆がやって来る、岩亀楼の商売もある、攘夷侍の脅迫もある。お園は苦し紛れ。しかし段々虚構が膨らんで、お園はそれに憑りつかれた結果、ついに自ら進んで語り部になって行く。そんなことはだれにでも分かる。しかし問題はその先に在って、そうなったお園にとってこの虚構は手放すことが出来ないものになったということである。すなわちお園が生きて行くためには虚構が必要不可欠になった。それはお園の特殊な事情であると同時に、多かれ少なかれ人間が生きていくためには虚構が必要だというところまで行く。そこにお園という一人の女を超えた普遍性が生まれる。それがこの戯曲の本質なのである。
問題は何がウソで、なにがホントウなのかではない。むろんそれも大事だろう。しかしそれよりも大事なのは、ウソがお園の生きる支えになったことであり、お園ばかりではなく、人間が生きて行くためには多かれ少なかれ虚構が必要だという事実である。それはウソも方便という様なことではない。ウソこそが人間の人生を支える唯一無二の方法だということである。
むろん虚構は両刃の剣である。現にお園は攘夷浪人に斬られそうになった。それでも彼女は虚構を手放すことが出来ない。彼女の人生にとって欠くべからざるものだからである。しかし翻って考えれば、虚構はなぜ必要なのか、一方では演劇が、イヤあらゆる芸術がなぜ必要なのかに関わり、俳優が、女形がなぜ必要なのかにも関わり、同時に神や仏が人間にとって必要な理由とも遠く呼応しているだろう。
その事実が玉三郎の座敷に倒れた幕切れの姿に鮮明になった。彼女こそ虚構を作り、虚構に生き、そして虚構の犠牲になった。その姿を鮮明にしたのが今度の舞台であり、今度の舞台の成功の意味である。
それにはむろん玉三郎の力が大きい。しかし同時に周囲の力も認めなければならない。鴈治郎の岩亀楼の主人は、初演の小沢栄太郎、その後の加藤武、十八代目勘三郎とはまた違った面白さでいい。とぼけた味わい、人がいいのに商才も働くという、今までの誰とも違う男が浮かんでいる。次いで新派の女優たち、あるいは喜多村緑郎はじめ男優たち、亀遊の河合雪之丞ら新派の人々が、玉三郎の歌舞伎の女形の限界ギリギリの変容を鮮明にするのに大いに効果があった。この新派との対比が玉三郎の冒険を浮き上がらせたといっていい。
この「ふるあめりか」に次いで二番目の見ものは、第一部最初の「車引」である。まだ未完成な部分があるにしても、これがこれからの「令和」の「車引」の基本になるのだろうと思った。それだけキチンと伝統を守っているからである。
まず巳之助の梅王丸が、その高音部の口跡、体の整然たる動きが規格に嵌っていて、嫌味なところ過剰なところがない。久しぶりできちんとした梅王丸を見たという気がした。ただ巳之助にも三つの欠点がある。一つは元禄見得が多少腰高なこと。もっと腰を深く入れるべきなのは隣りの松緑の松王丸を見れば明らかだろう。もう一つは、型をきちんと守るのに急で荒事の力感が薄いこと。これはそのうち出て来るだろう。そして最後の一つは幕切れ近くになると体から力が抜けること。わずか三十分足らずの一幕だが、その中のスタミナの配分がまだ十分ではない、以上の三つの欠点が直れば当代の梅王丸。お父っあんの名声を辱めない。
対する桜丸は壱太郎。珍しい上方型で、隈取なし、襦袢は赤でなく淡紅色、動きもとかく右膝を突いて柔らかく、祖父坂田藤十郎の桜丸を思わせて上出来。巳之助と同様謙虚に型を守って将来を期待させる。ことに前場で「今日や切腹」の辺りが聞かせるのと、「讒言によって御沈落」で泣き落としになる辺りがいい。
以上の二人に対して松緑の松王丸がさすがに一日の長。すでに触れた通り元禄見得や石投げの見得、五つ頭とともに立派である。
猿之助の時平を含めてこの四人の行儀正しいのが見ものである。杉王丸は男寅のところ休演で青虎の代役。金棒引きは左升。
第一部はこの後に岡鬼太郎作という舞踊「猪八戒」。猪八戒といえばだれでも三枚目を想像するが、それを絶世の美女に仕立てて霊感大王という魔王の人身御供としたところがミソなのだろう。それを二代目猿翁が補綴した。
前段美女になった猿之助の猪八戒が霊感大王が来るまでに、お供えの酒を飲んで酔っ払う酔態。続いて猿弥の霊感大王が出て二人の酒盛りという趣向は面白いが、二世藤間勘祖振付、現勘十郎振付とあるが、振りにどこか違和感がある。たとえば猿之助が酒杯を猿弥に差す。その途中で自分が呑んでしまう。それはいいのだが吞んでもいない猿弥が急にグタグタに酔うのは不自然だろう。名人二世勘祖がこんな振りを付ける筈がないから、どこかで一手抜けたのではないだろうか。大体猪八戒が美女に化けている、ともすれば化けの皮がはがれそうになる、それを隠すところに面白い振りが出る筈なのに、そういう面白さもなかった。酔態もそうである。当人は真直ぐ歩いているつもりがどうしてもよろめく、そういう面白さが欲しい。それがないと踊りが平板になる。せっかく面白くなるところなのに残念である。
場面が変わっての、尾上右近の孫悟空、青虎の沙悟浄に、笑也、笑三郎の女怪二人が花道七三のスッポンからせり上がっての大立廻りは、敵味方入り乱れて誰がどっちの味方か分からぬ大乱戦。先月弁天小僧で売り込んだ右近が今月は孫悟空というのも意外過ぎて呆気にとられる。原作は長唄、竹本、洋楽の掛け合いらしいが、今回は竹本一本鎗なのでこれも単調。葵太夫、慎治ほか。
第二部は田中喜三の「信康」を齋藤雅文演出、染五郎主演である。大佛次郎の「築山殿始末」と同じ事件を扱っているが、ただ一点違うのはここには人間がいない、人間が書けていない。その上に信康がお父さんに騙されたけれど、でも嬉しいなどというのだから困惑する。折角大河ドラマで注目された染五郎が、こういう人間不在の、妙な理屈をいう青年をやらされるのは気の毒。これでは俳優として進歩しようがないだろう。人間を表現するにはどうしたらいいか、それを工夫してこそ新鮮な魅力が出る筈なのに。
白鸚の父家康がさすがに立派。貫禄もあっていいが、「築山殿始末」の松緑の家康は、この家康の十分の一も喋らないが、いまだに私の印象に強く残っている。戦国の世にそうしなければ生き残れなかった家康の、しかしそのために大事な息子を失わなければならなかった一人の人間の苦悩が描かれていたからである。戯曲の人間の掴まえ方が違うのである。
魁春の、いかにもそれらしい築山御前。莟玉の徳姫。鴈治郎の家老松平康忠が一本気を出し、錦之助の守役平岩親吉の実直、情愛、友右衛門の大久保忠世の篤実、それぞれいい。他にも高麗蔵、橘三郎と徳川家御家中はなかなかの手揃いである。ことに鴈治郎はこの後の「ふるあめりか」の岩亀楼主人と共に今月大当たり。
この後に常磐津の舞踊「勢獅子」。
梅玉と松緑の鳶頭の曽我物語とおどけ踊りを踊るが意外に振るわず、扇雀と雀右衛門の芸者の踊り、莟玉の手古舞も一通り。この一幕で目に付くのはむしろ鷹之資と左近が踊る短い一節。二人とも新鮮溌剌、踊りが巧い。ことに鷹之資に追い付こうとしている左近が上出来。常磐津は一佐太夫、一寿郎ほか。
『渡辺保の歌舞伎劇評』