2022年7月歌舞伎座

「小栗」と左團次、雀右衛門と

 第一部の猿之助の「當世流小栗判官」がコクがあって面白い。猿之助の猿翁の当たり芸継承の仕事では一二を争う面白さである。
 何しろ驚いたのは、この狂言の四つのポイント――小栗の曲馬、浪七の壮絶な死、万長のお駒殺し、判官照手の二人の天馬の宙乗り――を巧くまとめて、序幕の曲馬、二幕目の浪七最期で一時間十七分、三十分の幕間を挟んで三幕目の万長の座敷、四幕目の道行から宙乗り大詰まで五十八分。芸中だけで実に二時間十五分という驚くべき早さ。何しろ私がはじめて見た三代目鴈治郎(坂田藤十郎)の時は、確か五時間位かかったし、その後の猿翁版でも同じ位かかったように覚えているが、その半分以下の短さ。むろん短かければいいという訳ではない。短かくてなお本来の味を失わないのが大事。今度の石川耕士の上演台本は、テキパキとした早さを保ちながら、この芝居のエッセンス、面白さをほとんど損なわず、十二分に堪能させる。そこが偉い。驚嘆した。心ないカットで芸のツボを失う上演台本が横行している今日、補綴の手本とすべきである。
 順に書いて行こう。
 猿之助の小栗判官は、序幕の横山大膳館で花道へ出たところ、その若さ、その爽やか、その柔らかさで十分の出来である。その後の荒馬の曲乗りの面白さは、馬をあやし馬と交流するリアルな面白さと、座敷の中での曲乗り、勇壮に襖を蹴破るけれん味とが相まっていい出来である。
 幕開きの縛られている照手姫を横山太郎の妻浅香が助ける件りは一通り。笑也の照手姫、梅花の浅香、猿弥の横山大膳、青虎の横山次郎、男寅の三郎、喜猿の奴三千助。
 二幕目の浪七内は、猿之助の二役浪七がキッパリとして嫌味のない上出来である。ことに堅田浦の切腹から岩組で頭を下にして十文字に落ち入るところは、鴈治郎とも猿翁とも違って壮絶で生々しい。
 ただ欠点は、男女蔵の鬼瓦の胴八と巳之助の矢橋の橋蔵の可笑し味の件りで、二人の芝居を受けていないこと。そのために舞台がサスペンスを欠く。
 門之助の浪七女房お藤がしっとりとしてよく、舞台を締めている。男女蔵の鬼瓦の胴八は、とぼけた可笑し味と手強さがあっていい。巳之助の矢橋の橋蔵は、はじめのうちは可笑し味が足りないと思って見ていたが、後半楽屋落ちの洒落になってから大いに盛り返した。猿之助兄さんにいい役があるからと騙されたのがこんな役だとか、引込みに黒御簾の傍へ行っての合い方の注文まで。客席大爆笑である。
 猿三郎の馬士膳所の四郎蔵は地味で突込みが足りない。この役が突込まないと、胴八、橋蔵の芝居が盛り上がらない。
 笑也の照手姫、欣弥の庄屋。
 二幕目第一場は万長の奥座敷。その前の門前、風呂場がカットでいきなり奥座敷になるのは、時間の都合でやむを得ない。
 ここはかつて九代目宗十郎の母お槙、猿翁のお駒で大いに唸らせたところであるが、今度の笑三郎のお槙も、宗十郎の大芝居には及ばずとも、十分に舞台を締めていい出来。照手姫の乳母としての姫への愛情、お駒の実の母としての血縁の愛情。その二つの板挟みになる悲劇を鮮明に描いた。ことにこの役の性根である「義理もあれば、忠義もある」という一句が耳に残って印象的。この人近来のヒットである。
 笑也の照手姫はこの場だけでは致し方がない。さて問題は右近のお駒。本来女形でもあるこの人には本役でもあるし、その姿、その芝居十分でもあるが、こうして見ると母親に止められてもなお恋に狂い、挙句の果てに殺されても化けて出る女の狂態は、やはり真女形よりも立役のやる女形のものかも知れない。猿之助のお駒で見たいところであった。そうすれば小栗判官との早替わりも栄えたであろう。
 第二場が道行から熊野の湯の峰まで。この場の最後が猿之助、笑也二人の宙乗り。ここでは寿猿の旅の女房およしが、九十歳を超えての白塗りの女房役で元気なところを見せる。ただ拵えが時代過ぎて、序幕の梅花の浅香につくのが残念。もっと演出を考えたい。
 歌六の遊行上人、寺嶋眞秀の弟子一眞が踊りがしっかりして来た。
 第三場の大滝は、一座総出の切り口上であるが、これは宙乗りの興奮で終わった方が余韻が残る。
 さて、第二部は「夏祭」と「仲国」。
 海老蔵の団七九郎兵衛は、上方弁で上方風にしようとして、却ってせりふが浮付いて人物像の輪郭が崩れてしまった。東京の役者が上方通りにやるのは無理であり、さればこそ東京の役者は義太夫訛りに忠実にすればそれでいいとするのだろう。海老蔵の団七が長町裏の殺しのカドカドの見得の眼光の鋭さ、体に漂う凄味を見るにつけ、その前に義平次をなだめようとして肩を抱いたりする芝居の違和感が残念である。
 一寸徳兵衛は右團次。こちらはキッパリしている。団七の女房お梶は児太郎。めっきり芸に幅が出た。倅市松は勸玄。廣松の磯之丞は引込みに懐手になるのは教わった通りでいいが、有名な「昨日は堺で日を暮らし」は、ボソボソいっていて気持ちも余情もない。莟玉の琴浦は傾城らしい色気が薄い。牢役人は家橘、下剃りは九團次、大鳥佐賀右衛門は新蔵、こっぱの権は新十郎、なまこの八は升三郎。
 今度の「夏祭」の見どころは、左團次の釣舟の三婦と雀右衛門の徳兵衛女房お辰で、ことに二幕目三婦内である。
 左團次は序幕の住吉から自然に軽くて老練、一挙手一投足、何気なく無心に動いて、しかも味わい深く目が釘付けになる。一例をあげよう。引込みの花道七三、何の気なしに暑いから裾を捲ろうとする。フッと褌を締めていないのに気が付いて、思わず小腰を屈め、扇子で前を抑えて「どっこいしょ」ときまる。そこでおもむろに褄を取る様にして入って行く具合。老練、円熟の芸の味。その面白さが秀逸。傑作である。
 二幕目の三婦内。三婦が昼寝をするのが平舞台上手ではなく、二重上手であるのが変わっているが、その後は平舞台上手の居所でいつもの通り。いつもの通りでいながら、この三婦が傑作である。女房おつぎとお辰の会話を黙って団扇を使いながら聞いている。会話が磯之丞をお辰に預けるという話になったところで、ハタッと団扇の手が止まる。そこからハラで話を聞き、二人の芝居を受けながら一思案。また団扇が動いて、それが二度目に止まったところで、もうこれは断らなければという、そのいい方も決まる。この心の動き手に取る如くである。「こなたの顔に色気があるゆえ」。むろん団扇の手をここで止めてあゝ、ここで止めてこうという型はだれでも出来る。だれにも出来ないのは、そういう型の段取りではなくて、自然に止まった団扇の先に三婦の心の行方がハッキリ見えることである。団扇はどうでもいい。真似れば出来る。出来ないのは、その団扇の先である。
 「こなたの顔に色気があるゆえ」という言葉に深い意味があることを私は今日はじめて知った。少なくともこの三婦の言葉をお辰がどう受け取ったかの意味をはじめて知った。今まで私は、美男でとかく女の噂が絶えぬ磯之丞を美しいお辰に預ければ、若い男女の間違いが疑われるだろうというのが、三婦の心配だと思っていた。お辰もそう受け取ったのだと思っていた。ところがそうではなかった。それを聞いたお辰はそうは受け取らなかった。二つの意味に受け取った。一つはむろん女の一分が立たぬ、つまりブライドが傷ついた。
 しかしもう一つが決定的だった。それはお辰がそういう尻の軽い女と見られたこと。つまり貞操を疑われた。それは自分一人の問題ではなく、夫の徳兵衛の立場を傷付けることであった。この理由こそが、お辰を焼けただれた鉄弓を顔に押し当てるという過激な、破滅的な行為に駆り立てる原因であり、引込みに亭主が惚れているのは、この私の顔ではない、ここ(心)でござんす、という啖呵を切らせる原因であった。
 雀右衛門何度目かのお辰は、父四代目雀右衛門の花道の出に、大坂の家並みを数えて出て来るところから、そっくりのいいお辰であるが、父にもなかったのは、このお辰の、より深く貞操の問題に至った女のドラマを描いたことである。
 この三婦とお辰のやり取り、夏祭りの、うだるような暑さの、昼の大坂の商家の一室で起こったドラマが、私には今更のように新鮮だった。作品全体としては「小栗」第一だが、演技としては今月一番の見ものはここである。
 この二人に斎入の三婦女房おつぎを加えて、現代歌舞伎の水準を示す舞台である。
 大詰義平次殺しは、海老蔵の団七はすでに触れた通り。市蔵の義平次は、この人のニンからいえば、どうしても人の好さが出るところをウデで憎みを出している。編み笠の破れかかった具合がいかにもそれらしい。
 次が「仲国」。
 前回上演の時に触れた通り、これは「新歌舞伎十八番」とあるが、九代目団十郎の「仲国」とは違う新作。ことに今度は福助の八条院を出して、その手から高倉天皇の手紙を小督に渡すという一場を付けて、ここで小督が仲国とは関係なく宮中に帰ってしまう。福助の八条院が合引きに掛かったままながら、元気な姿を見せ、児太郎の小督、種之助の仲国の代わりの仲章。
 次の第二場が虫たちの群舞。これに絡んでぼたんと勸玄の雌蝶雄蝶。それが居所替わりで疫病退散の祈りの舞で、海老蔵の仲国とぼたん勸玄の蝶が出て総踊りというショウアップした舞台。
 第三部の「風の谷のナウシカ」は第一幕だけを見たが、二幕目は見ず、他日改めて見ての批評を書きたい。    

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『渡辺保の歌舞伎劇評』