2022年8月 研の會

実盛大当たり

 尾上右近の主宰する「研の會」の第六回を見た。八月二十三日夜、国立小劇場。
「かさね」と「実盛物語」の二本立てである。
 「実盛大当たり」といっても実盛は、音羽屋の家の芸でありかつは義太夫狂言の大役。むろん若い右近は初役には多少の注釈がいる。なにが「大当たり」なのかというと、お定まりのカドカドの大見得のきまった形が鮮明でいい。さながら鏡を見て稽古をしたかと思う程、均整が取れて美しい。
 順を追って書いて行こう。
 本舞台へ来て「コリャコリャコリャ九郎助とやら」以下の長ぜりふには、まだこの役らしい余裕がない。まだ練れていないために観客を陶然とさせるには至らない。「サ、為には成らぬ」は、「サ、為には成るまい」の方が説得口調でこの役の優しさが出る。「水子これヘーェ」もこの一言で舞台の空気がガラリと変わらなかったのは是非もないか。右近は、ここだけではなくとかくせりふに爽やかさが足りないのが問題である。
 九郎助の女房が錦に包んだ水子を抱いて来る。実盛が受け取る。男か女かと思ううち、瀬尾が覗き込むのでハッとして右へ体を開いて八の字になる。右近はそこがなんかモソモソしていてキッパリしない。手順がたどたどしい。水子が女の腕と知れて下に置く。その腕を見込んでいて向こうを見てハッと気が付いて瀬尾を振り返っての見得。振り返る芝居も歯切れが悪いので、もうこれまでかと思っていると、きまった形が実にキレイ、無類飛び切りなのである。不思議とも何ともいい様がなかった。しかしその形になるまでの手順、芝居の運びがキチンとしていないために面白さがない。せっかくのキレイな形が薄味で奥行きがない。この批評の冒頭も私が右近の実盛の「大当たり」に注釈がいるといったのはここのことである。きまった形はキレイで大当たり、しかし見得はそこへの運びが大事。むろん最後の形が悪くては画竜点睛を欠くが、さりとて最後の形がいいだけでは盛り上がらない。味がない。最後の形のよさはそれまでの結果であり、仕上げの造形でこそ人の印象に残る。確かに形はよく出来た、サアこれからというところである。
 ここだけではない。物語になる。カドカドの見得にキレイなところが散見する。たとえば竹「折から比叡の山颪」と左手から右手の扇をハラハラと落としてのきまりのよさ、続いて竹「水に溺るる不憫さよ」で上手を向いてのツケ入りのきまり、同じく竹「追手と見えて声々に」の音羽屋型お定まりの大きく向こうを右手の扇で指して左手を後ろへ廻してのツケ入りの大見得。竹「白旗を口に引咥え」の口に扇を加えて右の袴のマチに手をかけてのツケ入りの見得等々。いずれもきまった形は均整が取れて正確でいい。しかし内容がない。今の青年俳優にとっては内容から形ではなく、まず形なのであろう。だからこの形を出発点として内容が充実すればいい。それにはまず「物語」とは言葉で語られるものを形象化したものだという本質を考えるべきである。杉贋阿弥も指摘している通り確固とした話者としての自分自身(この場合は実盛自身)が確立していなければならない。贋阿弥が物語は「居どころ」を動くべきではないというのはその間の事情のことである。たとえば飛騨の左衛門と小万が白旗を奪い合うところ。菊五郎型で行くと白旗を持った手を中心に一つ大きくグルリと廻る。廻る前は白旗に手を掛けた飛騨の左衛門、廻って正面になった時は「イヤ渡さじ」という小万。その二人に変わる。ということが可能になるのは、そこに二人を演じ分けている実盛がいなければならない。実盛が話者としているということがこの二人を仕分ける条件であり、ただ廻ればいいというのなら、物語ではなく踊りになってしまう。右近は今形に追われてただ廻っているが、その性根がすわれば飛騨の左衛門も小万も、そしてむろん実盛もその物語も出来る様になる。
 物語が終わって、「流れ寄ったか」の扇を翳して二重から片足下ろしての見得も立派。そのカドカドの立派さを思えば、このままにして置くのはいかにも惜しい。  
 葵御前のお産になる。膳の上に白旗を乗せての立身の見得は、ソクに立つ人が多いが右近は左に掛かって右足を伸ばしている。これも悪くない。
 綿繰り馬になる。右近もさすがにここは手に余った。扇パチクリが取って付けた様だが、そんなことは物語の性根さえ捉まえれば、将来この実盛という男の余裕が自然に出て人生の厚みが出るだろう。それよりも私が注目したのは、竹「加賀の国にて見参見参」の大見得。幕切れ花道七三での右手の扇を大きく翳した見得、幕外の扇を口に咥えて馬の手綱をグッと引いたきまり、いずれも型のよさが抜群。こういうところが立派なのに残念である。
 幕外が終わって本舞台に平伏して幕を開けた実盛の姿のままの右近が切り口上。そこでどうか大勢の人に歌舞伎に親しんで貰いたいといって、写真にどうぞといって観客にいくつかのポーズをして見せた。満場パチパチとスマホの音ばかり。その右近を見ていて右近の実盛の良さも悪さもここにあると思った。彼の形の良さは芝居から切り離してブロマイドの様に出来るのだ。それがいかにもいい形なのは、芝居のためではないのだ。これからでいいから出直して実盛を当り芸にして欲しい。
 その口上でもいっていたが、周りも一級品揃い。このまま歌舞伎座の本興行に乗り込める出来栄えである。
 まず彦三郎の瀬尾は、そのせりふ廻し、その動きの時代物の格、前半の敵役の憎々しさ、後半の戻りになっての情愛、いずれもいい出来である。続いてその瀬尾の役で前名から市蔵を襲名した市蔵が九郎助に廻って、彦三郎とは対照的にリアルな世話の味で小万への情愛を見せる。梅花のその女房も今日ではこの人のもの。ただ近頃のこの役は、片腕を水子といって抱いて出る時、「果報拙き源の」をしっとりと唄わないのは物足りない。
 壱太郎の小万は「白旗お手に入りましたか」の一句に生きているものでない気配を聞かせたのは偉い。亀三郎の太郎吉がしっかりした芝居をしている。菊三呂の葵御前がよくやっている。新十郎の仁惣太。荒五郎の庄屋。
 さてこの前の「かさね」は、与右衛門とかさねを日替わりで、右近と文楽の人形遣いの吉田簑紫郎が演じるという奇想天外な企画。企画それ自体は一見面白そうに見えるが、一日変わりはともかくも、人形と役者という取り合わせは、この作品に限っては無理が目立つ。その原因の一つは、清元の浄瑠璃とはいえ、この舞踊はリアルな感覚があるためになかなか夢幻的な味わいが出ないからであり、もう一つは私の見た日は右近がかさね、簑紫郎が与右衛門という顔合わせであったが、そうなるととかく与右衛門の人形の足が不釣り合いだったからである。
 右近のかさねは御所解きの衣裳、紫縮緬の頭巾がよく似合って、花道へ出たところは色気もあって十分本役。清「夏紅葉」や「男に丁度青日傘」の辺りは淡泊で平凡。本舞台へ来てのクドキ清「祐天様のお十念」辺りもサラサラとさしたることもなく、騒ぎ唄の「入れ黒子」もワッという訳にはいかなかった。自然にうごく手足の色気の割には踊りがアッサリしている。
 むしろこの人の本領が出たのは後半、「針打ちやめて落としばら」辺りの哀れさ、鏡を見ての「これが私の貌かいなァ」という嘆きの悲嘆さに強いドラマ性が出た。
 例によって「無理無残」の帯で床を叩くのは乱暴すぎるがその凄まじさにドラマを感じさせたのも事実。ただ人形の足遣いの足拍子の音の大きさは問題である。
 与右衛門が下手の藪畳にかさねを切り倒して花道へ行く。かさねの倒れたあたりから焼酎火がフワフワと出て上手へ行く。そこで与右衛門が連理引きで引き戻される。それが二三回あって、下手から右近の船頭与吉、首抜きの浴衣に赤の下がりで、上手からは壱太郎のかさねの姉おさよが娘姿で出る。これに人形の与右衛門を入れて世話だんまり。それが解けて与吉とおさよは幕外の引込み。これは原作の与吉おさよの件をここへはめ込んだので、今日だけの趣向だとか。いささか「隠亡掘」めくが、変わった趣向になった。
 清元は延寿太夫、斎寿と一家総出である。

  

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『渡辺保の歌舞伎劇評』