2022年9月歌舞伎座

主なき秀山祭

 秋風茫漠。
 吉右衛門一周忌追善は、表面の盛儀にもかかわらず、大黒柱を失った寂しさがひとしお身に染みる。
 ことに第一部の吉右衛門が松貫四の筆名で構成演出した舞踊劇「白鷺城異聞」を見て、その思い痛切だった。この舞台には吉右衛門の播磨屋一門の係累が顔を揃えている。まず播磨屋系(歌六、又五郎、米吉)、萬屋系(時蔵、錦之助、梅枝、萬太郎)、中村屋系(勘九郎、七之助)の人々。一門でさえこれだけの役者が揃って、まだ血筋を辿れば、この後の「寺子屋」のまた従兄弟の松緑、甥の幸四郎、親戚の魁春、児太郎。第二部の「松浦の太鼓」の実兄白鸚、親戚梅玉。さらには第三部の「七段目」の遠い親戚の仁左衛門、また従兄弟の海老蔵、女房役だった雀右衛門、そして「藤戸」の女婿菊之助と、これだけの空前の大一座。役者だけではなく舞台を共にした長唄の鳥羽屋里長、竹本の葵太夫まで顔を揃えている。にもかかわらずここには肝腎の主人がいない。身に染みるのはその寂しさである。
 「白鷺城」は初演が姫路の野外舞台で、そのまま再演されなかったから私も初めて見た。刑部姫の伝説に秀頼の亡霊が本多忠刻と再婚した千姫に祟るのを絡めて、宮本武蔵が亡霊を退治するという中山幹雄の原作の四十五分ばかりの舞踊劇。手際よく纏まっている。
 次が「寺子屋」。時代物役者だった故人が松王も源蔵も当たり芸であった狂言であり、追善に最もふさわしい。それを幸四郎と松緑の一日変わり、私が見た日は松緑の松王、幸四郎の源蔵だったが、二人ともニンにあって、吉右衛門の芸風を継ぎながらもその面影を離れて新しい感覚の上出来。時世時節だから仕方がない。
 松緑初役の松王は吉右衛門の第一声「ヤァレ、お待ちなされ暫く」が「アイヤお待ちなされ」になっているのは仕方がないが、玄蕃を止める意気込みになっていないのが困る。これであとは駄目かと思っていると、意外にもこの後が上出来。源蔵との付け回しに刀の抉りをトンと突かず、スッと静かにきまってそれでも見得の量感を出し、「無礼者め」の大見得は、小顔であるにもかかわらず舞台に大きく映えて異様な美しさである。続いて首実検は「出かした」という一句を抜いて、一切底割りなしの堅固さ、引込みに木戸の外できらりと光る鋭い眼。いずれも上出来だが、ただ前半ずっと目を瞑っているのが難点。せりふもいつもの悪い癖が出ず、いい出来である。
 後半は「源蔵殿先刻は段々」から上手へ来ての大見得は、きまる最後に上手へ振り向けた顔が、「無礼者め」と同様輝く美しさだった。泣き笑い、大落としはさすがに今一歩だが、千代を叱って「泣くなと申すに」というところは、表面は強く、裏に夫婦の情愛を含ませたよさ。ベテラン魁春の千代を相手に十分の健闘である。
 幸四郎の源蔵は、いかにも戸浪と駆け落ちしたという色気、柔らかさがあっていい。源蔵戻りは屈託がなさ過ぎて軽いが、その後の戸浪とのやり取りは意外にしっかりしていい出来。
 この幕第一の出来は、なんといっても魁春の千代。その持ち味の濃さ、芝居運びの手に入った具合、芸の品格、いずれも見事な出来である。
 児太郎の戸浪は、調子を壊していての声の悪さ、動きのドテドテしている具合、まことに困る。種之助の玄蕃は若いのに気の毒。彌十郎の百姓。この幕の菅秀才と小太郎に歌昇の長男と次男が初舞台で、御祖父さんの又五郎が涎くりを付き合って手堅く舞台を締める。
 以上第一部に対して第二部で、第一部とはまた違う形で亡き吉右衛門を思うことになった。最初は今年八十歳で初役という白鸚の「松浦の太鼓」である。吉右衛門とは違って「馬鹿バカバカ」もなく別な台本らしく、私はそこで不思議な体験をした。というのは他でもない。例の隣屋敷へ討ち入った赤穂浪士の太鼓を聞くところである。初代吉右衛門のここは、いつの間にか殿様が舞台端まで出て来る巧さ、盛り上がり方で、それに連れて大向こうの「播磨屋ッ」の掛け声場内に降る如く、我人ともに興奮したところであるが、故人以後だれがやっても巧く行かない。二代目が苦心してやっと出来る様になった。白鸚は芝居が巧いだけに巧く縫って運んでいるが、巧いだけに本当はこの盛り上げの構造の秘密が明らかになった。白鸚はそうしていないが、本来はジリジリと花道七三の其角に何度も声を掛けながら前へ出て行くらしい。そうして置けば太鼓のドンですぐ舞台真中へ出られるが、ドンを聞くまで座布団に座っていては間に合わないのである。
 ここだけでなく、白鸚はむろん吉右衛門とは違う。また違う殿様像を描いた。
 序幕の両国橋の梅玉の大高源吾と、歌六の其角のサラサラとした芝居が味わいに富んでいる。梅玉の本心を隠して、それが自然に観客にも分かる芝居運び、一方歌六の其角は、締めるところはキッと締めて行く具合がいい。この対象と釣り合いが印象的であった。
 腰元お縫は米吉、友右衛門以下の家臣。
 玄関先で芝居が終わると吉右衛門一周忌の劇中の口上になる。白鸚、梅玉、歌六の三人が口上を述べた。第一部の一家一門とはまた血筋の白鸚、親戚代表の梅玉と播磨屋の総代の歌六である。
 次が「播磨屋当たり芸集」のショウ・アップ、戸部和久構成。
 第一場が「籠釣瓶」の仲之町見染。幸四郎の佐野次郎左衛門と吉之丞の治六が例によって客引きに騙されそうになるのを救う立花屋長兵衛の代わりに、「沼津」の呉服屋十兵衛がいま伊賀越の帰りだ、とかいって出て来たのには仰天した。もっと洒落た知恵はないものか。その場で児太郎の九重の道中があり、道具が廻ると福助の八ツ橋がいつもの姿で立っていて見染になる。さらにその場で次郎左衛門の「宿へ帰るがいやになった」。立ったままで不自由ながら福助が堂々たる貫目を見せる。幸四郎の次郎左衛門はいずれこの人の本役になるだろうが、まだ愛嬌があり過ぎる上に幕切れのきまりは研究不足。もっともここへ「宿へ帰るが」が付いたせいもある。
 第二場が鈴ヶ森。錦之助の長兵衛はすでに実験済みだが、ニンにないのは是非もない。役者の格、年配を別にして役のニンだけのことでいえば、錦之助の権八、歌昇の長兵衛が正しい。いずれにしても歌昇の権八は無理。
 第三場が「熊谷陣屋」の物語だけ。幸四郎の熊谷は、既に意外の良さであったが、こう一部分を切り離すと見劣りがするのはやむを得ない。相模は廣松、藤の方は莟玉。
 第四場は海辺の時代だんまり。染五郎の盛綱、種之助の大蔵卿、児太郎の典侍の局、鷹之資の平の知盛、廣太郎の智恵内が絡む。ただ吉右衛門の当たり芸を寄せ集めただけで、そこに絡む趣向が立っていないからみんなウロウロするばかりで大混雑。それに全員「闇」が表現出来ないから「だんまり」にはならなかった。
 第五場は 幸四郎の熊谷が墨染の衣、坊主頭を見せて「十六年はひと昔」をやる。見送るのは歌昇の義経、これは権八と違って本役。
 全五場のこのショウはいわば追善の錦絵代わりだから真面目にいうべきではないかも知れないが、こうなると吉右衛門という人もその当たり芸の役々も段々遠くなって行くようで悲しかった。
 以上に対して今月第一番の見ものは、断然第三部の「七段目」と「藤戸」である。「七段目」は病気全快の仁左衛門の由良助が傑作である。吉右衛門の由良助もよかったが、吉右衛門のそれがハラで見せる由良助だとすれば仁左衛門のそれは姿かたちの風情で見せる由良助。二人の対照的な傑作の一方が欠けても、もう一方の健在はなによりの追善である。
 まず幕開きの「めんない千鳥」。最初の暖簾を分けての出はいささかやつれたような感じがしたが、それからの三人侍、平右衛門とのやり取り、洒落のめしたせりふ廻しはいつもに変わらず父十三代目仁左衛門の姿をよく取って、なかでも「ところで、(敵討ちは)ヤメヤメ」の軽さが絶妙である。
 力弥の出になる。ここはいつもの通り。「ご口上はなかったか」から「敵と見えしは」の謡まで。柔らかさから一変してのキッとなり、行き掛ける力弥を呼び止めての「祇園町を離れてから急げよ」の辺りに遊び慣れた雰囲気が漂うのがこの人の身上である。
 「蛸肴」は立ち上がって「おのれ」という自然な中の鋭さから一転して「末社ども」と砕ける具合の好さ、何でもない様でいてコクが濃い。
 二度目の出になる。仁左衛門の真骨頂はここからである。暖簾が肩に掛かった姿は、最初の出のやつれた感じとは一変して立派。芝居の積み重ねで芸にヒレが付いて見えるからである。三味線踏み折るまいぞやとか、炉の炭を注いで置けとかいうところがいかにも自然に聞こえていい。その自然さから時代に移って、忘れた刀を左手に持ち「九太はもう」と刀をシャンと納めるとそれがキッカケでカカチョンと析が入って暖簾が落ちる。それで体が上手向きになり右手で逆手に白扇を持って右の柄頭に当てて上手を見て「いられたそうーナァ」ときまった姿が錦絵である。この鯉口のシャン、扇の扱い、それを形にする具合に仁左衛門の、単なる形の好さだけではない深い造型がある。次の釣り灯籠からおかると九太夫に気が付いて「ようまァ、吹かれていやったなァ」にも同じ良さがある。ただべったり座るのではなく、右手を後ろへ突いて、体は下手向き、中腰で、左膝を一寸浮かしていい形になる。一見だれでもする形の様に見えて、実は仁左衛門独特の細緻な工夫があるのだ。
 その後のおかるとの件りも面白い。二階から下ろす前後には、いい意味でのエロティシズムが横溢して、雀右衛門のおかるの濃厚さとあいまって色気が溢れる。
 おかるが密書を読んだのを確かめる「あの二階から」から殺す決心をして「古いが惚れた」になるところは、ハラ芸で沈痛さと苦悩を見せ、おかるに「まことから出た」といわれてハッとする表情、終始ハラに哀れさを持っての、うわべは遊びの面白さである。
 三度目の出は、むろん「獅子身中の虫とは」が名調子で堪能させる。「君傾城の勤め」辺りでホロリとさせるこというまでもない。幕切れは二重の上に一人立身で、左手に手燭を持ち、右手に広げた白扇を大きく掲げての姿、無類の由良助である。
 雀右衛門のおかるも、この仁左衛門とのやり取りで大きく進歩し、その艶やかさ、その濃厚さ、その情愛の深さ、その色気と十分の出来である。
 もっとも海老蔵の平右衛門がどういう訳か、リアルで小音で、時には現代語になるという具合で、仁左衛門の由良助とも雀右衛門のおかるとも演技のトーンが合わない。海老蔵としてはこれが最後の舞台なのに残念である。
 千之助の力弥が行儀よく、橘三郎の斧九太夫は実録めき、松之助の鷺坂伴内がベテランの味である。橋之助、鷹之資、吉之丞の三人侍、京妙以下の仲居。いつもの見立てはカットである。
 この「七段目」の後に吉右衛門が松貫四の筆名で構成演出、川崎哲男台本の松羽目舞踊劇「藤戸」がある。
 能の「藤戸」の舞踊化であるが、吉右衛門だと前シテの老母が、女形は不慣れのため違和感があったが、今度は菊之助で、盛綱の告白を聞いてハッとするところに、見ていてこっちも思わずイキを呑む様な疾風が舞台を走って見事だった。この母は菊之助のものになるだろう。
 後ジテは立ち廻りが長すぎる。能では盛綱の供養によって、悪竜となった漁師の霊が自ら成仏して弘誓の船に乗るのが味噌だが、そこが不鮮明。後半がまるで化け物退治、シテが土蜘蛛か知盛の悪霊の様になるのはおかしい。
 又五郎の盛綱が舞台を締めていい出来。彦三郎以下の四天王。間狂言は、種之助、米吉、丑之助。長唄は勝四郎、巳太郎ほか。 

 

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『渡辺保の歌舞伎劇評』