2023年1月歌舞伎座

新鮮な「十六夜清心」

 正月の歌舞伎座は、第一部「弁天小僧」、第二部が「人間万事金世中」、第三部が「十六夜清心」と奇しくも黙阿弥の作品が並んだが、その中では意外にも第三部の「十六夜清心」が面白い。意外にもというのは、一見色気が薄そうな幸四郎の清心、七之助の十六夜が濃厚かつ新鮮だからである。
 まず序幕のいつもの清元「梅柳中宵月」。この直前に黙阿弥としては決して面白いとはいえぬ、第二部の「人間万事」を見たせいか、目の覚める様な造形の美しさ。幸四郎の清心の柔らかなニンに合った清心、花道に出たところは芸が小粒に見えた七之助の十六夜も本舞台へ来て草履の鼻緒が切れて右足を引き摺ったボーズに、足をくねらせたいい姿に色気が満ちて大きく見える。それから清心と出会っての二人の数々のポーズ、上下に別れてのいつものきまりの姿が新鮮に見えるのは、二人ともに教えられた通りにやっているのではなく、一々自分で咀嚼して作り直しているからである。そのために形が生きて働く。黙阿弥に限らず、古典はこうでなければならぬ。ことに黙阿弥は心理や性格や人間性ではなく、この想いを造形して、形を洗練することに徹すれば自ずと情愛が溢れて来る。それが得意の手法なのである。清「仏姿」の清心が手拭いを腕に掛けての立身、前に廻った十六夜が、後ろ向きで座ってそれを仰ぎ見る上下のきまり。いずれもいつもの通り乍ら、今ここで作られた様な新鮮さ、七之助の十六夜が玉三郎に似た艶麗さで印象に残る。
 幸四郎の清心は、十六夜に妊娠を知らされて、もう死ななければならないと決心するところが巧い。すなわち思い入れや表情ではなく、ズケリと形で入っていて、それでいながら心の変化がよく出ている。
 この二人の出来で十分に堪能した。清元は志寿子太夫、志寿造ほか。
 次が白魚船。
 梅玉の白蓮は、いかにも俳諧師らしい風情があっていい。船頭三次は男女蔵。
 その後が百本杭川下。
 幸四郎の清心は、この場は死のうとして死なれぬ滑稽味をあまり強調しない行き方で地味である。その分「しかし待てよ」の悪への変心が見栄えがせず、凄味も足りない。幕切れの引込みは、本舞台の白蓮たちに気を掛けて引張るのが本当だろう。揚幕の方を向き過ぎるために、全体の絵模様がバラバラになる。壱太郎の求女が行き届いている。
 序幕が終わって幕間。二幕目は初瀬小路の白蓮の妾宅と雪の下の本宅貸付所の二場。これまでこの二場はいろいろな人で見たが、いずれもあまり面白くなかったから期待しなかったが、今度はこれまた意外の面白さだった。
 まず第一場の妾宅。白蓮に助けられた十六夜が、出家して丸坊主の尼になる場である。七之助の十六夜が、色っぽくしっとりしたいい出来。前の幕とはがらりと変わった姿がいいからであり、清心を想う貞淑の志が現れている。ただ幕切れの頭巾を取って青道心の姿を見せるところは、恥ずかしがってベッタリ座るのが普通だが、立ったままなのは情が薄く見えて味気ない。
 高麗蔵の白蓮の女房お藤は、後半に一寸出るだけだが、ここでおさよと姉妹の縁を結ぶのが次の幕に掛けていかに大事なのかがよく分かっていい。
 梅玉の白蓮は、ここはまだ大寺正兵衛という大悪党の素性が知れぬうち。粋な旦那というに止まる。錦吾のおさよの父佐五兵衛、亀鶴の下男杢助。
 第二場の本宅貸付所は、いつになく面白かった。それは幸四郎の清心、今は変わって鬼薊清吉が序幕とはガラリと変わって、この男の人生の変化のドラマの骨格を鮮明に描いたからである。すなわち清吉はこの場のはじめはいっぱしの悪党の様な凄味で出る。間もなくおさよに呼び込まれて座敷へ入る。そうするとおさよの大胆さに煽られて何度も突き飛ばされる。化けの皮が剝がれて、俄か仕立ての悪党は女房の尻に敷かれた、コミカルな男になる。その情ない男が芝居が進むにつれて悪党として成長し、ついに白蓮から貰った百両に極楽寺の刻印を発見して、白蓮と対等に戦う大悪党に変身する。このプロセスを幸四郎が鮮やかに描いて面白い。
 しかし悪党として成長した清吉の頂点は、皮肉なことに運命の転落の始まりだった。極楽寺の刻印を詮議するのは、彼自身が極楽寺を追放された冤罪を晴らすことであると同時に彼自身の墓穴を掘ることでもあった。なぜか。彼が闘っている大寺正兵衛こそ、他ならぬ清吉の実の兄であり、大寺正兵衛がこの刻印で逮捕されれば、弟も追及されるだろうからである。清吉の追求は実の兄の逮捕に繋がり、その女房お藤はおさよの姉ではないか。どこまで行ってもキリがない男の悲喜劇。そういう黙阿弥のドラマを幸四郎は鮮明にしたのである。今まで私が見た清吉では、この兄弟再会が御都合主義にしか見えなかったが、今度はそこに運命的な、悲喜劇を生きた男の人生が見えた。幸四郎の手柄である。私はそれを見ながら、人間はかくも運命から逃れることが出来ず、知らず知らずのうちに自分を窮地に追い込むものなのか、その哀感がこれ程強いものなのかと思わざるを得なかった。新鮮という理由である。
 七之助のおさよは、ここはただの不良少女の様に見えてよくない。悪婆という役柄に徹していないからである。悪婆はオモテに憎ていな悪、しかし心は貞淑でなければならない。このウラオモテゆえに面白くもあり、難しい役柄でもある。
 高麗蔵のお藤は、おさよと姉妹になったために、知らず知らずのうちに不幸を呼び込んでしまう、無意識な女になっている。
 梅玉の白蓮実は大寺正兵衛。前半は生気が無い様だったが、後半になって清吉の兄と知れる辺りで、その穏やかさが自然の情に通じるという不思議さ。この人の芝居で一見あざとく見える御都合主義が、恐ろしい運命の罠に見える。これも一つの行き方だろう。
 亀鶴の杢助。幕開きの仕出しに高麗五郎の夜蕎麦売り、山左衛門、仁三郎の合長屋が出てそれらしい景色を作っている。
 さて順が逆になったが、第一部は最初が猿之助の名古屋山三、七之助の出雲阿国で舞踊「歌舞伎草紙」。竹柴徳太朗台本。愛之助、勘九郎が左源太、右源太を付き合い、一座の若手花形総出のレビューである。
 次が愛之助の「弁天小僧」。愛之助は前半女形の間に無理がないのがいいが、半襟を品物に混ぜて万引きに見せるところは、混ぜるところを観客に見せて店の者には見せないという手順がハッキリしない。それからの強請騙り、その細部の手順が教わっていながら、その型の意味するところが完全に理解されていない。カドカドをキッチリ完璧にやるという感覚に欠けているために、いかにも野暮ったく見えて、江戸っ子らしい情趣が湧かない。せっかくニンに合っていながら粋に見えないのはそのためだ。今一歩の研究が必要である。
 この幕第一の収穫は芝翫の日本駄右衛門。さすがに余裕があってどっしりと大きく、歌舞伎座の屋台骨を背負って立つ立派さ。せりふも突っ込むところは十分突っ込んで、きっぱりして味わいがある。
 続いて第二の収穫は、勘九郎の南郷力丸。前半のあしらい、きびきびした江戸前の芸。「待て待て待て」など胸の透く出来である。後半やや平板なのが残念である。
 東蔵の浜松屋幸兵衛、又五郎の鳶頭、歌之助の宗之助、松之助の番頭。いてう以下の手代を含めて「何々を持て来いよう」、何度かの「ヤァヤァヤァ」がいずれもきつ過ぎる。のんびりと、それでいてハッキリして、それでいて舞台の景色の変化にならなければいけないと思う。
 浜松屋に続いて稲瀬川の勢揃い。愛之助の弁天小僧はここで見直した。時代一本鎗になるからだろう。この場第一の収穫は猿之助の忠信利平。せりふのメリハリ、イキの差し引きともによく、それが芸の格になっている。芝翫の駄右衛門、勘九郎の南郷力丸はむろんいい。赤星十三は七之助。
 続く第二部は最初が松岡亮の新作舞踊劇「寿恵方曽我」。曽我兄弟を万歳仕立てにしたり、工藤祐経の息子犬坊丸を出したり、昔の曽我狂言の趣向を取り入れた「対面」の書き換えである。狙いどころはいいのだが、「対面」に付き過ぎていて書き換えの面白さがない。これならばなぜ「対面」をそのままやらないんだと思う。書き換えるならばもっと大胆でありたい。 
 十二月は休演した白鸚が工藤祐経で無事に復帰。さすがにスケールが大きい。十郎が猿之助、五郎が幸四郎で、このコンビが生きている。猿之助の柔らかさ、隙のなさ、幸四郎が隈取がよく顔に乗った荒事の対照が面白い。魁春の大磯の虎。雀右衛門の化粧坂の少将と鴈治郎の朝比奈、廣太郎の梶原と、この三人が花道へ行っての手踊りが、一寸サマが変わって面白い。
 歌六の鬼王新左衛門、染五郎の犬坊丸。長唄が杵屋勝四郎、勝七郎ほか。
 次が「人間万事金世中」。かつて私はこの作品を二代目松緑や五代目富十郎で見たが、松緑初役の時はまだ菊五郎劇団の名脇役たちが揃っていたにもかかわらず面白くなかった。それはこれが明治の散切物の一つであり、かつはリットンの翻案ものだったからであろう。
 長崎の大金持ちが死ぬ。その遺産相続争いが題材である。ケチで欲に目のない辺見勢左衛門一家と、そこに養われている、恵府林之助、おくらたち。勢左衛門が彌十郎、その女房おらんが扇雀、娘おしなが虎之介、親戚臼右衛門が橘三郎、正義漢の毛織五郎右衛門が芝翫、恵府林之助が錦之助、おくらが孝太郎、それに鴈治郎の寿無田宇津蔵、代言人が男女蔵という顔ぶれである。金の亡者たちの争いといっても今時どこにでもある様な、他愛のない喜劇に過ぎない。第一部の完成された美学の「弁天小僧」、第三部の悪と運命のドラマの「十六夜清心」と同じ黙阿弥のものとはとても思えない作品である。というのも黙阿弥は役者の芸にはめて感情を造形するのが得意な作家で、そこに嵌れば面白いが、現代の役者はつい喜劇だから、その役柄、その趣向、その型を無視して笑いを取ろうとするために、人間に手が出る。そうするとたちまち作品の面白さが崩れる。幸四郎七之助の「十六夜清心」と比べて見れば、その差はよく分かる。
 それどころか他愛がないどころか、矛盾が露骨に出る。たとえば林之助の父に二万円の借金があり、そのためには遺産どころか店から家倉まで売る羽目になる。それが実は辺見一族の欲張りを試すための計略だと分かる大詰。そうなると喜劇は面白くなるかも知れないが、ヒーローであるべき林之助が一番腹黒く見えてしまうのである。ここらをテキスト・レジと演出が救わない限り、この作品は蘇らないだろう。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』