巳之助の「角力場」の二役
夜の部第一の「双蝶々曲輪日記」の角力場で、獅童の濡髪長五郎に対して、巳之助が山崎屋与五郎と放駒長吉の二役を変わる。これまでもある型で珍しくないが、この変り方がきっばりと鮮やかである。今月ここ一番の見ものであった。
その変り方もさることながら、二役のうちでは放駒が際立っていい。チョコチョコ歩きを平岡郷左衛門から褒められての照れ具合、こみ上げてくる喜びよう、それを隠しての愛嬌、ともに中腰になった姿のよさ、世話の芝居の運びの味わいを含めて、いい放駒である。芸の進歩が顔に照り映えて、亡父十代目三津五郎そっくりのいい顔になったのは大進歩である。芸のつくった顔である。
二度目に戻って来てからもよく、濡髪のせりふを聞かずに、夢中で晴れ着の仕付け糸を取っている具合、濡髪がわざと負けたと知って「アッ」と大きくいう時代な芝居、続く怒りの爆発から、若気の一筋のはやり具合、溢れる正義感。楷書のキッパリした芸で、お定まりのカドカドの見得が目に残る。芝居をしっかり突っ込んでいながら嫌味にならないのがいい。
対する獅童の濡髪も、この人の義太夫狂言に合った芸質、時代な芝居の大きさ、古風な顔立ちが生きて歌舞伎座の大舞台に嵌ったのはお手柄である。
藤屋吾妻は種之助、茶屋の亭主は錦吾、國矢の平岡郷左衛門、蔦之助の三原有右衛門、左升の団子山。
夜の部は、この角力場の後、雀右衛門、錦之助中心の中内蝶二作の短い舞踊「菊」と彌十郎の水戸黄門で、宮川一郎作、齋藤雅文補綴・演出の「水戸黄門——讃岐漫遊篇」。
「菊」は、舞台一面菊の花が咲き誇った庭で、雀右衛門の菊の精の女、錦之助の若衆姿の菊の精を中心に、男寅、虎之介、玉太郎、歌之助の二組の男女の菊の精が踊る、キレイづくめの舞踊。わずか十九分の小品ながら、空気がガラリと変わる。
長唄は鳥羽屋長秀、杵屋五七郎ほか。
「水戸黄門」の宮川一郎は、かつて商業演劇とテレビの売れっ子のベテランであった。形通り四国金毘羅へ旅に出た水戸黄門(彌十郎)が、自分の長男頼常(歌昇)が養子に入って藩主になっいる讃岐高松藩の御家騒動を裁く話。
頼常は側近の山崎又一郎(亀鶴)に政治を任せ、山崎はそれをいいことに廻船問屋港屋辰五郎(片岡亀蔵)吉太郎(廣太郎)父子と結託して悪行を重ねる。港屋の陰謀で無実の罪に落ちて獄死した廻船問屋讃岐屋の娘おそで(新悟)、その弟で女に化けて悪事を働く無頼漢長次(虎之介)が、彼らの悪事を暴き、讃岐屋を再興しようとしている。その世話をするうどん屋の女将お源(魁春)と職人(宗之助)らに絡む助さん(福之助)、格さん(歌之助)らの描く人間模様であるが、いずれも人間の彫りが浅く、芝居のしどころが立体的でない。芝居らしいシーンはわずかに一ヶ所だけ。すなわち大詰での光圀と頼常親子のうどんを啜りながらの件りが芝居らしくなっているだけである。そのほかは物語の筋を通したというだけ。役者のしどころ、芝居としての見どころがなく、新作らしい魅力がない。
以上の夜の部に対して昼の部は松緑初役の「天竺徳兵衛」と、山田洋次脚本・演出、松岡亮脚本の新版「文七元結」の二本立て。
「天竺徳兵衛」はいつもの天竺徳兵衛の異国噺、術譲り、屋体崩し、水門口のだんまりの前に、北野天神と別当所の二場が付いている。この二場は佐々木桂之介と銀杏の前の恋物語と、桂之介が将軍家から御預かりの名刀浪切丸紛失事件を描いていて、天竺徳兵衛は出て来ない。徳兵衛が出て来るのは次の吉岡宗観の屋敷からで、その宗観の屋敷に佐々木桂之介がお預けになっているというだけの繋がりしかない。この繋がりは宗観屋敷の幕開きの、宗観の妻夕浪の芝居で十分分かるのだからこの二場はなくもがなである。それに浪切丸紛失の一件は、偽物が三本もあったりして分り難い。
巳之助の佐々木桂之介は一通り。新悟の銀杏の前はしばしば棒立ち、松江の敵役山名時五郎はこういう役の定法からしばしばはみ出している。吉之丞の奴磯平。左升の石割源吾は、これだけの台本では得体が知れず、それにもかかわらず幕を切ったりするので余計分らなくなる。
二場中わずかに坂東亀蔵の梅津掃部が、生締めの鬘、織物の裃がよく似合って、実力を見せる。地味な芸風だが手堅く、こういう役をもっとさせるべきだ。
二幕目はいつもの吉岡宗観の屋敷。松緑の天竺徳兵衛は、出て来たところの面魂い、演技の強い描線と共にピッタリであり、せりふの癖もなおってキッバリとして面白い。今度は破格の入れ事がいろいろあって、江戸時代の琉球が突如現代の沖縄になって客席大爆笑。ことに外国で踊り比べに参加して私は藤間流、相手はと目の前で聞いている桂之介の巳之助を尻目に掛けて相手は坂東流という楽屋落ち。その上、先月は皴ばかり描いていたがと「妹背山」の大判事を効かせ、今月は若返って天竺徳兵衛というからまたまた笑ってしまった。日頃愛嬌がない人がここまで踏み込んでのサービス。私はなにかが吹っ切れていいと思う。
この場はとかくいつもと違って前後に人の出入りが多く、芝居のテンポが落ちる。
しかし又五郎の吉岡宗観は少し白塗り過ぎるが芝居は手堅く、高麗蔵の妻夕浪が確りしているために、この場のいつもはとかく隠れがちの鶴屋南北の趣向が鮮明になった。というのはこの芝居は朝鮮、キリスト教国と日本の国際的な政治闘争と、その中での国際結婚が問題なのである。この芝居の初演の時には、あまり早替わりやけれんの仕掛けが鮮やかなためにキリシタンバテレンの魔法が使われているという評判が立って町奉行所が手入れをしたという。今まで私は、これが南北や劇場側の宣伝だったとする通説を信じて来た。しかし今日この芝居を見ていて私は、南北は案外本気で朝鮮やキリスト教国の脅威を感じていたのではないだろうかと思った。少なくとも国際間の国民感情の齟齬を指摘したかったのではないか。
天竺徳兵衛は日本人だと思っていたのに、吉岡宗観実は木曽官という朝鮮人の息子であり、しかも母はその妻で日本人の夕浪。それを明かした夕浪はわざと天竺徳兵衛に斬られて死ぬ。彼女がそうしたのは、日本人の血を否定して徳兵衛を朝鮮に帰化させるためだろう。という風なドラマが浮かび上がった理由は二つある。一つは松緑が異国噺で芝居を現代化したために、国際政治、国際結婚が急にクローズアップされたこと。もう一つの理由は、又五郎の宗観、高麗蔵の夕浪、松緑の徳兵衛の三人の芝居が噛み合ってドラマの骨格を鮮明にしたこと。以上二点である。
屋体崩しから水門口。ここにも桂之介、銀杏の前、梅津掃部が絡むので芝居のテンポが崩れる。
松緑の徳兵衛は、ガマの縫いぐるみから引き抜くのはいいが、鬘が水入りの菊百でないためにスッキリしないのが残念。この人得意の本当に飛ぶ、飛六法が豪快で見ものである。
次の山田洋次の「文七元結」は前回十八代目勘三郎の時とは一新して新しい時代劇という印象。「新版」といっていい別種の趣がある。
見る前にいつもの左官の長兵衛のうちの前にお久が角海老に行く場面が出来るらしいと聞いた時は、それではお久が行方不明になる事件の種明かしになってしまわないかと思ったが、見てみるとさすがこの幕が面白い。まず新吉原の角海老の格子先と続いて内証の二場。暗い中で花道七三の玉太郎のお久の立ち姿にスポットが当たる。そして徐々に格子先にライトが当たると木の骨組みだけの装置が浮かび上がる。これが傑作である。金井勇一郎美術。長兵衛の内が大き過ぎる他は、いかにも形容の面白さがあってイメージをそそる。今度の新版の収穫の一つ。しかもこの装置で出にスタンバイしている、たとえば孝太郎の角海老の女将の姿が丸見えになったり、本所大川端の、文七が見投げしようとする橋が芝居の最中にグルグル回ったりするのが面白い。さながらブレヒトの異化作用の面白さである。
内証になって女将がお久に身を売りたいという理由を聞く。博奕と酒に明け暮れている長兵衛は、女房おかねとの夫婦喧嘩が絶えない。それを見ていてお久は耐えられない。おかねが気の毒。お久は先妻の娘。おかねは義理の母、その母が可哀想だというお久は真からおかねを思っている。義理の仲だけに却って見逃せない。円朝の原作はそうなっているかも知れないが、今までの歌舞伎は、お久はおかねの実の娘、実の親子だからこその愛情の濃さだった。この視点の変更はそれなりに別な感情を描いて面白い。
孝太郎の女将は、滅法手強くて、鉄火な女の突っ込み方で面白い。これまでとはまるで違う。吉原の大籬を仕切る女将ともなればこうもあろうか。玉太郎のお久は神妙でいい。京蔵以下の傾城、國矢の若い者藤助と、ここは一つの見ものになった。
二幕目からはいつもの筋になる。
獅童の長兵衛は、いつもの長兵衛とは違って歌舞伎の世話物の芸で見せるのではなく、人間の演技で見せて、これはこれでいい。リアルで、真剣で、面白い。しかし私は見ながら十七代目勘三郎や二代目松緑を思い出したのも否定しない。たとえば獅童の長兵衛は、文七に五十両の金をやる時、神の声を聞いたといったが、勘三郎は、文七が孤児だと聞いてフッと川向こうの灯の瞬く家々を見る。そして自分も孤児で、あの灯の付いた家の団欒とは程遠いなと思って、文七に金をやる決心をする。その後文七に「死んじゃいけねえょ」と叫びながら走って行く勘三郎での姿に涙が出た。
寺島しのぶのおかねは、すでに女優のおかねは藤間紫という先例があるから構わないが、女形の間に入ると違和感が目立つ。たとえば調子が高すぎるし、芝居にももう一工夫要る。新悟の文七はこの新版に合っている。
彌十郎の近江屋卯兵衛、國矢の藤助、片岡亀蔵の大家。
『渡辺保の歌舞伎劇評』