新鮮な團子の忠信
二千人余りを収容する立川のステージガーデンで、中車、團子親子を中心にした澤瀉屋一門、それに壱太郎、鷹之資を加えた一座の「千本桜」の忠信編を見た。
まず幕開き。團子の忠信と壱太郎の静御前が飛行機に乗った引幕(このデザインは主催の立飛グルーブが立川飛行場を経営していたからである)の前で、黒紋付羽織袴の中車が挨拶を述べ、続いて壱太郎と團子が同じく紋付羽織袴で「千本桜」の解説、会社のゆるキャラとの撮影会。
これが終わると引返して、序幕伏見稲荷鳥居前が開く。
鷹之資の狐忠信は、菱皮の鬘に二本隈、四天姿に仁王襷がよく似合ってついこの間の翔の会の「矢の根」の曽我五郎よりもグッと見栄えがするばかりか、五郎と違って亡父富十郎生き写し。見ていて優れた型をキチンと正確にやれば、おのずから力の表現が生きて、ナマの力とは違う生彩が美しく造形されることを痛感した。五代目菊五郎の型が優れているのが第一の強み、鷹之資の正確であろうとする努力が第二の賜物。これで引込みに狐の妖気が漂えば、この力の表現がより引き立つだろう。
笑三郎の義経が、しっとりとして格に嵌っていい出来。静御前は笑也、弁慶は猿四郎。
二十分の幕間で道行になる。
幕が開くと向こう正面桜の林、竹本になって、この書割が煽り返しになるとそのまゝ八百屋になり、正面やや下手に川の流れ、橋があってその上に壱太郎の静御前が立ち、上手に清元の山台。これで掛け合いになり、いつもの道行。スッポンがないため下手の袖から團子の忠信が出る。初代猿翁と歌右衛門の時には、八百屋は上手でその丘の上に歌右衛門が立っていたが、今度は下手で橋の上であった。
壱太郎の静御前は、この場は若い團子の忠信に合わせたためか、娘々している。この人が本領を発揮するのは次の「四の切」である。
團子の忠信は、いくら猿翁の演出でも、若く真白な新鮮さで、巧い下手は別にして多くの可能性を秘めているのがいい。これから澤瀉屋の色に染まっていくのだろうが、自分なりの視点を持つのも大事だと思う。現に幕切れのぶっ返りになり、蝶々に戯れて入る狐六法の引込みよりも、この人がよかったのは、いつもの「海に兵船」からの戦物語で、楷書でキチンと踊っていてキッパリしていた。まず最初はオーソドックスな型を勉強すべきだ。そうすればおのずから型が芸を助けてくれる。なによりも正確さ、真面目さが大事。そうすれば道が開ける。
澤瀉屋の型で行けば、前半に万歳があり、くらべ馬があって小一時間も掛かって壱太郎と共に若い二人の手には余った。これらの件りはただ楷書では済まされず、持ち味がものをいうからである。
猿弥の早見の藤太は、さすがに一日の長があって、おかし味十分、踊りも十分、年功である。
三十分の幕間があって「四の切」になる。
鷹之資、團子と続いて三人目の忠信は、青虎。師匠通りを写して一生懸命であるが、残念ながら性根の抑え方が足りない。たとえば本物の忠信、もう一人忠信が来たと聞いて、竹「黙して」と刀の下緒を捕り縄に裁くところ、あるいは駿河亀井に引っ立てられての引込み、ともに向こうへ気を掛けるところであるが、どちらも形はともかくも向こうへやる気が足りない。向こうにもう一人の自分、ニセモノがいると思うから気が行くという、このドラマの根本の抑え方が弱い。気持ちの表現が大事。形はあとからついて来る。狐になってからもやたらに体は動き回って(たしかに師匠も目いっぱい動いていたが)も、肝腎の芝居が足りず、狐だか犬だか分からなくなるのは、源九郎狐の、狐の世界での差別による孤独が立体化されないからだ。ここは動きよりも観客を泣かせなければならない。明治の劇評家が絶賛された五代目菊五郎の忠信よりも、九代目団十郎の忠信を認めたのはただ一点。九代目はここで観客を泣かせたからだという。師匠もそのことに心を砕いていたのだ。
狐詞もただ語尾を延ばしただけではなく、言葉のある部分が半音になる(全部半音になったら言葉が分からなくなる)のが難しいのだ。ただ伸ばすだけならば誰にでも出来る。二重の欄間から平舞台へ一気に飛び降りるところも、師匠は一息だったがこの人は二重で一息つく。呼吸がまだなのだ。宙乗りは桜の花降る如く、客席を斜めに飛んで消えるという大技。ここだけは師匠以上に迫力であった。
壱太郎の静御前は、花道の出がいい。中ほどで本舞台の義経を見て「オオ」という言葉を呑んで、本舞台へ来て義経に「お懐かしうござります」と手を仕えるまでの、恋に溢れる色っぼさといい、狐忠信の告白を聞いて「さてはそなたは」とゾッとして一息イキを呑み「狐じゃな」と驚くばかりでなく、情があるのがいい。道行と違ってただの娘ではなく十分義経の寵姫になっている。大歌舞伎。
笑三郎の義経はここもいい。自分で忠信に鼓を手渡すのもいいが、ここで二人の間に同じ境遇の不幸を嘆く情が通じないのは、忠信の方に問題がある。寿猿の川連法眼は声に張りがあって九十余歳とは思えず、笑也の女房飛鳥は気の毒だが、そう思わせないのは偉い。立派に寿猿と釣り合いが取れている。猿四郎の駿河、鷹之資の亀井。鳥居前の忠信とは役の軽重を心得て軽くしているのは偉い。
中車の能登守教経は、大ゼリがないので花道から出る。さすがに威風堂々として歌舞伎味が身に付いたのがいい。先頃亡くなった二代目猿翁への何よりの追善である。
一度幕が閉まって引き返して中車の教経を中心に笑三郎の義経、壱太郎の静御前、青虎の忠信、鷹之資の亀井、猿四郎の駿河、羽織袴の猿弥、笑也、團子。寿猿まで一座全員の切り口上があって手拭い撒きのサービス。外へ出ると釣瓶落としの秋の暮。立川の町はもう真っ暗だった。
(二〇二三年十月二十七日)
『渡辺保の歌舞伎劇評』