時姫と「三社祭」
歌舞伎座十一月顔見世の夜の部は、仁左衛門、松緑の「松浦の太鼓」。芝翫、時蔵、梅枝の「鎌倉三代記」、大切が舞踊三段返しで、最初が染五郎、左近、種之助の「娘七種」、二つ目が巳之助、右近の「三社祭」、最後が又五郎、孝太郎、歌昇の「吉原雀」である。
仁左衛門の「松浦の太鼓」は、前回も名調子であったが今度もせりふが巧く、さらに芸に艶を増して、芝居を巧く運んでいる。いくら芝居とはいえ、九州平戸六万三千石の大名とはとても思えぬ「バカバカバカ」だの、赤穂浪士が討ち入りをしないからといって、その浪士の一人大高源吾の妹お縫に当たり散らして解雇するとか、吉良を討ったと聞いて馬から落ちるとか、とても考えられぬ殿様の愛嬌、他愛のなさを、不自然にならぬ様に巧く見せている。太鼓の音を聞くところも、「大石」といい掛けて「アッ」とさては討ち入りと気が付くところにこの人らしい巧さがある。しかし半年ぶりの仁左衛門、もう少し別な役が堪能したかったと思うのは私だけだろうか。
松緑の大高源吾は、きっぱりとして行き届いた緊張感があっていい。
歌六の宝井其角もじっくり舞台を締めている。米吉のお縫もしおらしく、近習の猿弥、隼人、鷹之資、吉之丞、橘太郎も恐らく仁左衛門の指図だろうが、打てば響くの反応振りで芝居を盛り上げている。松之助の門番も一寸出るだけだが、いかにもそれらしい。
次の「鎌倉三代記」は、いつもの通り竹「若宮口の戦場より」の三浦之助の出からであり、後半の時姫の長門殺しもカット。芝翫の佐々木高綱は前回初役の時、この人一代の当たり芸と思う程の出来栄えだったから今度も期待したが、今度はさすがに舞台のスケールは大きくなったものの、その分手慣れたせいか芸の輪郭が曖昧になって残念。たとえば物語の「地獄の上の一足飛び」で幽霊見得から一瞬にして変わるところ、あるいは「その嬉しさ」の一字ずつ床の竹本との掛け合いになるところなど、義太夫狂言らしい楷書の造形、輪郭の大時代さが希薄になってしまっている。
芝翫を襲名して芝翫型の熊谷で大成功したのだから、高綱も芝翫型と思いの外,初役通りの吉右衛門型。それはそれでいいが、もっと突っ込んだ芝居が欲しい。前半の「尻付き仔馬」も表面的で滑稽味が足りず、したがって井戸から裏向きで出で正面に向き直っての大見得、富田六郎に止めを刺す見得から上手への六方まで思ったほど冴えない。なによりも残念なのは、前回には鮮明だった、この男の、時姫を使って北条時政暗殺計画という卑劣な手段にまで追い詰められ、そこに全てを掛けるしかなくなった孤独無援の武将の究極、決死の緊迫感、迫力が薄くなったことである。先月の「妹背山」の鱶七といい、この高綱といい、今や時代物の大役はこの人の双肩にかかっている今日、もっと細密かつ慎重であってほしい。
時蔵の三浦之助は、しっとりしたところが薄く、この役はやはり役違いなのだろう。
それに反して梅枝の時姫は、まだ未完成ではあるが、将来の大成を期待させる出来である。三浦之助を留めて反る辺りの、その瓜実顔の美しさは、若き日の歌右衛門のよさをしばしば思い起こさせる錦絵。今月第一の見ものである。これで芸さえよくなれば立派な時姫。惜しいことだ。
問題はところどころの地の部分で隙切れすることであり、ある一つの部分から、次の部分へ移り変わりのツナギが巧く行かないことである。それに肝腎なところでももう一つ押しが足りない。たとえば前者でいえば、前半門口に倒れた三浦之助に薬湯を持って行こうとするところ。行きも帰りもしぐさが平坦で、床の三味線へのノリが悪い。ここは歌右衛門も四代目雀右衛門もワクワクさせたところであって、梅枝はノリが悪い。あるいはクドキの最後の横座りは歌右衛門が絶品だったが、梅枝は歌右衛門の半分も身を投げ出していない。きまった形は新鮮なのに、そこへ行くまでの動き段取りがコセコセしていてよくない。後者でいえば、前半のクドキでは竹「短い夏の一夜さに忠義の欠くることもあるまい」で門口へ出て空を見て三浦之助のところへ戻る時の、上手障子屋体——つまり長門への病室への思い入れがない。世の時姫役者はしばしばここを忘れるが雀右衛門は忘れなかった。ここがただ一つ時姫が姑に反抗するところだからである。あるいは後半でいえば「北条時政、討ってみしょう、ととさん、許してくださんせ」で二重から平舞台へ降りるところである。ここはただ降りるのではない。その間に三浦之助の女房から時政の娘に変わらなければならない。世界が変わり人生が変わり、だから身体が変わらければならない。それが出来るといい時姫になるだろう。とにかく今は新鮮な感覚を認めて将来に期待したい。
その他の出来は、第一に東蔵の長門。手慣れた役とはいえ、病身の苦しみに耐え、かつは義を重んじながらも母の優しさが出ている。この人で長門の最後が見たいと思った。続いていいのは高麗蔵の安達藤三郎の女房おくる。佐々木の物語の間、終始ハラで受けていて、それが積み重なって絶望の内に自殺するプロセスがよく分かる。気を抜かない出来でいい。先月の「天竺徳兵衛」の吉岡宗観の女房といい、これといい、人の目につかないところでしっかり芝居を支えている。
富田六郎は松江。舞台が半廻しにならぬ演出のため損をしているが、歌女之丞と梅花の局二人がただ棒立ちなのは困る。
最後は舞踊三題。なかでは巳之助の悪玉、右近の善玉の「三社祭」がいい。体がイキイキと動いていることといい、ただナマの力の躍動ではなく、踊りになっていて、踊りでそのイキのよさ、そのキビキビした面白さがよく出ている。しかも二人のイキがよく合っていて、合いながらも対照的な芸風の違い、面白さが出ている。私は六代目と七代目三津五郎のこれを知らないが、その次の世代の勘三郎と松緑、その次の富十郎と九代目三津五郎、さらには十八代目勘三郎と十代目三津五郎という名コンビを見て来た。今度の巳之助と右近はそれに次ぐ出来。これを見て今夜はじめて溜飲が下がった。清元は延寿太夫、菊輔ほか。
その前が「娘七種」。種之助の五郎は、こうやればいいのだというところが見え透いて面白くない。左近の静御前はキレイで神妙。三人の中で見た目はともかくも踊りが一番素直で巧いのは染五郎の十郎。和事のニンでないところを踊りで巧く見せている。
後が又五郎、孝太郎の「吉原雀」。さすがに三番目になると大人の芸。二人とも余裕があって味があるが、なにせ「吉原雀」は、曲は誰知らぬものがない程の名曲でも、踊りは大して面白くない。
最後に歌昇の鳥刺しが仮花道から出る。せっかく昼の部のために作った仮花道、夜の部ではここまで一度も使わなかった、勿体ないからというのでもあるまいが、唯やはり本花道がいい。しかし歌昇は、ぶっ返りになって本性を現わしてからは、その顔立ちといい、踊りといい、この人の大時代な輪郭の手強さが出ていい。おとっつぁんたちに負けぬ大舞台である。
それにつけても吉右衛門、左團次、段四郎と時代物、とりわけて義太夫狂言の立役の大黒柱を失ったうえに猿之助が休演している現代では、歌舞伎の将来を暗くしているが、よく目を凝らせば、この夜の部だけでも米吉、梅枝、巳之助、右近、歌昇、染五郎と、これ程可能性を感じさせる若手が揃っている時代はかつてなかった。問題は彼らを生かすも殺すも狂言建て一つ。この若手を売り出せば客が来ること疑いなし。「三社祭」に拍手する観客の反応を見れば、今月の時姫や「三社祭」といった企画が歌舞伎の命を握っていることは疑いがない。
『渡辺保の歌舞伎劇評』