2023年2月歌舞伎座

もう一つの物語

 二月の歌舞伎座は三部ともに見ものがあって充実している。
 まず第一部の「三人吉三」の一本建て。私は序幕の大川端で不思議な体験をした。松緑の和尚吉三が「もとは弁長といった小坊主さ」といった時に、ジグゾー・パズルの最後の一片が嵌って、バッと新しい世界が舞台に現れた様な気がしたのである。すなわちその景色は八百屋お七の世界である。お嬢吉三は「八百屋お七の名を借りて振袖姿で稼ぐ」泥棒、お坊吉三はお七の恋人寺小姓の吉三、そして和尚吉三は二人の間で活躍する弁長。「三人吉三」はそういう物語を下敷きに書かれていることは、今更いうまでもない。しかしそういう景色が現実の舞台に現れることはあまりない。イヤほとんどない。少なくとも私にとっては初めてだった。その世界は遠い伝説であり、廃墟の遺物に過ぎないかも知れないが、今度の舞台では疑いのない目前の現実であり、その現実が三人吉三の世界を二重写しにした。私は三人吉三の大川端にいるのではない。何十年か前の吉祥院で起きた出来事の中にいる。だから誰がなんといおうともお嬢吉三は櫓の太鼓を打たなければならないし、お坊吉三はお嬢吉三の恋人でなければならない。ここに開けているのはそういう世界なのだ。私ははじめて「三人吉三」を見ている様な気さえした。これは今度の松緑の和尚吉三、愛之助のお坊吉三、七之助のお嬢吉三が揃って初役以来何回も回を重ねて、地味ではあるが手堅く、戯曲の二重の構造の距離感を正確に表現出来たからであり、戯曲の深層に眠っている「もう一つの物語」を掘り起こしたからに他ならない。
 松緑の和尚吉三も回を重ねて充実して来た。堅さは堅いなりに味が出て来た。この味が「巌に咲く花」の味である。序幕の大川端が済むと三十五分の休憩があって、土左衛門伝吉の内と大恩寺前の伝吉殺しがカット。いきなり巣鴨吉祥院になるから、見ている方も遣る方も辛いところであるが、それを除けば、いい和尚吉三である。
 対する愛之助のお坊吉三は、これも何回目かの役で手慣れていていい。お七の恋人らしい艶も色気もあり、寺小姓の前髪が「五分月代に着流し」になった、それらしい安手なところがあるのがいい。「そこらが仇名のお坊さん(坊ちゃん)」というのは、それらしい愛嬌と同時に安手なところも含まれているのだ。
 七之助のお嬢吉三も今度はさすがにしっとりとした色気と芸に幅が出て来た。菊五郎流の手早く「その人魂よりこの金玉」とおとせの懐中に手を突っ込むのと違って玉三郎の様に原作に近いやり方なのもいい。これはこれで女形のやるこの役としては成立する。それに壱太郎のおとせが丁寧なせりふ廻しでいい出来。いつもは聞き流してしまうところをこれでどれだけ見物が芝居に引き込まれたか。上出来である。吉三郎の金貸し、いてうの研ぎ師。
 二幕目の吉祥院は、松緑の和尚吉三がじっくり芝居を見せて、どうしてもおとせと十三郎を手に掛けねばならぬ状況を巧く演じる。巳之助の十三郎、壱太郎のおとせもいい。七之助のお嬢吉三は、先月の「十六夜清心」もそうだったが、芝居が進むにつれて尻つぼみになるのはどうしてだろうか。愛之助のお坊吉三はいい。亀蔵の源次坊。
 大詰火の見櫓は、派手に幕を切ったというだけで三人共にナカミがない。橘三郎の八百屋久兵衛。お坊吉三の見せ場のために下手の火の番小屋が引き道具になるのも余計だろう。これで芝居の流れが止まる。竹本は愛太夫、勝二郎ほか。清元は志寿子太夫、雄二朗ほか。
 第二部の見ものは、五代目富十郎十三回忌追善、忘れ形見の鷹之資の「船弁慶」。先ごろ翔の会での初演では、鷹之資に前半の静の舞も後半の知盛の亡霊も、ともに能と歌舞伎の違いがハッキリしないために不出来でがっかりしたが、今度はさすがにその違いが明確になって格段の進歩である。ちなみにいえば、能は仮面劇であり表情の表現を抑制しなければならない。様式的にならざるを得ないのである。しかし歌舞伎は化粧した生身の表現、動きも緩やかだから、心持ちの出し方にも違いがある。そういう違いが前半静の都名所にも、後半の知盛の亡霊の動きにもなければならない。歌舞伎役者にはいくらものが松羽目物でも、それなりの能とは違う表現がなければならない。鷹之資の場合でいえば、もっと豊かな、華やかな、溌剌さがあってもいい。ことに後半の知盛には、歌舞伎らしい凄味がいる。今度の鷹之資にはその違いがようやくはっきりした。このイキでお父さん譲りのイキのよさをさらに突っ込んで貰いたい。
 義経は扇雀、弁慶は又五郎、舟長は松緑、舟子は左近、種之助、四天王は松江以下。長唄は私が見た日は鳥羽屋里長休演で三右衛門、杵屋五七郎ほか。
 この前に舞踊「女車引」。魁春の千代、雀右衛門の春、七之助の八重。洒落た趣向の踊りだが、もう少し巧く構成の仕方があると思う。「賀の祝」の摘み草があるかと思えば「車引」があって混乱する。魁春の貫目、雀右衛門の女房ぶりの艶、七之助の娘娘した色気をみるにつけて勿体ないと思う。清元は志寿子太夫、菊輔ほか。
 第三部は、仁左衛門一世一代の藤田水右衛門と古手屋八郎兵衛二役の、鶴屋南北の「霊験亀山鉾」。
 初演、再演の二回の国立劇場であまり変わらなかったところが、今度は今井豊茂の補綴で大分改修されてよくなった。しかしそれでも中途半端なところが残ったのは仕方がない。たとえば石井源之丞を安倍川原へ誘き出す計画に八郎兵衛がどこまで関係していたか。今度は全面的に関係したとしているが、肝心の密書を落とすところが曖昧なのは前回通り。もし関係しているとしてそれはどういう関係なのか。どうして八郎兵衛が水右衛門に近づいたのかが問題になって来る。穴を塞いだ様で却ってキズを大きくしてその結果芝居もつまらなくしている。一世一代なのに残念という他ない。
 序幕は,石和宿棒鼻、石和河原返り討ち、明石機屋の三場。棒鼻は、錦吾の水右衛門の父卜庵を見せて筋を売り、初回は原作通り仁左衛門が卜庵を変ったが、再演は松之助、今度は錦吾である。
 二場目の返り討ちで仁左衛門の水右衛門が登場するが、前回はこの場の大敵振りが水も滴る艶があってよかったが、さすがに今度は油ッ気が抜けてあっさりしている。亀蔵の石井兵介、歌昇の轟金六。
 三枚目敵の掛塚官兵衛に鴈治郎が出るが、ここはワキの腕達者の敵役らしい方が型通りで面白い。南北は定型を巧く使う作者なのである。なまじ人間など問題にせずに役柄だけの手強さが必要なのだろう。
 三場目の機屋は、孝太郎のお松が持ち役でいいが、芝翫の源之丞は、さすがにトウが立って違和感が強い。色気が薄いのである。次の弥勒町丹波屋の芝居に焦点を合わせた結果だろうが、柔らか味も足りない。
 二幕目になる。第一場の弥勒町丹波屋はすでにふれた通り、大分よくなった。
 もっとも仁左衛門の八郎兵衛は、まだいい男の、男伊達風なところが取れず隠亡が町人に化けて茶屋に上がっているという面白さが薄い。最後に花道へ引込むところで、凄味な本性を現してアッといわせるためだろうが、前半からもっと滑稽味、凄味ともに芝居にして欲しいところである。もっとも引込みの凄味は、さすがに隠亡らしい暗い翳が出ていい。この役はそういう芝居の巧い五代目幸四郎にはめて南北が書いているからである。二役水右衛門はここは二階から顔を出すだけ。
 雀右衛門のおつまは、八郎兵衛を見ての驚き、続いて二階の水右衛門を見ての驚きという二段の驚きが、前回よりはっきりした。ここの変化がないと、この芝居は面白くない。
 芝翫の源之丞は芝居は一通りだが、突き出されての引込みに素敵な巧さを見せる。「伊勢音頭」の油屋の福岡貢の引込みの様に、七三で思わずキッとなって腰の刀を手で探り、次の瞬間刀がないと知って、その手を後ろへ大きく廻す手振り。その柔らかに宙を舞う手振りの面白さが抜群。イキの変化が実に巧い。ここだけはもう一度見たいと思ったほどである。
 鴈治郎の掛塚官兵衛、吉弥の丹波屋おりき。
 次が安倍川の返り討ち。ここはいずれも一通り。相変わらずこの幕切れに仁左衛門の水右衛門、鴈治郎二役の大岸頼母、雀右衛門のおつま、芝翫の二役奴袖介が囲んでのだんまり。だんまりそれ自体は悪くないが、ここへこのだんまりを挟むのは芝居の流れの邪魔になる。再三いう様にここは中島村の焼き場迄、一気呵成に行かなければ面白くない。
 第三場の中島村入口は、二つの早桶が入れ違うのがハッキリしない。演出の整理でもっと立体的になるだろう。続く第四場の焼き場は、相変わらず火屋が下手にポツンと倉庫みたいに立っていてなんの役にも立っていない。南北が折角台本で指定した通り、これは舞台正面に火屋があるからこそ、水右衛門の入った早桶がもっと舞台端へ出て幕切れの水右衛門の出が映える様に出来ているし、八郎兵衛の殺しがこの火屋を使っての立ち廻りにもなり、かつ早替わりも巧く行くのである。
 殺しの段取りはほゞ原作に戻ったが、八郎兵衛が草井戸に切り殺されるのは見た目が派手なだけである。ここはやはり原作通りおりきが井戸へ斬り殺され、八郎兵衛は火屋で切られた方がいい。
 もっともこのおつまとの立ち廻りは、前回より遥かに繊細絶妙、美しくなった。仁左衛門の二役中ここが第一の出来でいい。
 早桶を割っての水右衛門の出は前回よりはいいが、原作通りならばもっと映えるのに惜しい。
 雀右衛門のおつまは、大わらわで少し形が崩れている。吉弥のおりき。
 三幕目は機屋。東蔵の貞林尼が舞台を締めてよく、孝太郎のお松はこの場は車輪過ぎる。芝翫二役の奴袖介は手固い。本役である。市蔵の仏作介、松之助の才兵衛。
 次が大詰、亀山城下仇討。仁左衛門の水右衛門がここが一番の立派な出来。芸に艶があってスケールがあって、その大きさ、その悪の凄味、さすがに一世一代の印象が深い。
 鴈治郎の大岸頼母、芝翫の袖介、孝太郎のお松と揃って、この場はただの形だけの仇討でなく充実している。
 以上第三部の見ものは、焼き場の殺しと大詰の仇討である。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』