珍しい「曲舞」
戦後は十七代目勘三郎がたった一度演じただけの、「大蔵卿」の曲舞が又五郎によって復活された。御承知の通り「鬼一法眼三略巻」の四段目は「桧垣茶屋」「曲舞」「奥殿」の三場に分かれている。このうち桧垣茶屋、奥殿はよく上演されるが、「曲舞」はカットされることが多い。今度の上演は桧垣をカットして、「曲舞」と「奥殿」の二場である。
その「曲舞」。今度は丸本通り、幕開きの腰元たちの埃鎮めが済むと、長絹を羽織った鳴瀨とお京が出てのせりふで、今この館では狂言をやっているのが分かる様になっている。そこへ播磨大掾広盛来訪の報せ。八釼勘解由が狂言師の裃衣装で出迎える。これで自然に大蔵卿の館の日常が分かるのがいい。しかもこうして見ると次の奥殿の大蔵卿の変化が、桧垣から奥殿へ行くよりももっと具体的に分かって面白さが引き立つ。
又五郎の大蔵卿は、広盛参着と聞いて上手の襖から出たところの顔付きが、化粧のせいか初代吉右衛門の写真にそっくり。血筋とはいえ「播磨屋」の顔であった。
ただ芝居は芸の描線がもう一つ筆太でありたい。そうしないと時代物らしい面白味が出ないからである。しかし下品な入れ事がないのは品があっていい。ただ二つだけ。一つは舞の途中で退屈した広盛が欠伸をした口へ饅頭を入れること。もう一つは幕切れ近く花道へ帰りかけた広盛を呼び止めて餅の皮に床のごみを集めて丸め丸薬と偽って飲ませること。以上二つだけだが、本当はこの二つも本文通りやらない方がいい。
舞は長唄の「猿舞」であるが、ごく内輪なのは物足りない。当時に狂言もなければ、ましてや三味線も長唄もないという理屈は置いて、ここは目いっぱい踊って観客を堪能させたい。
靭を広盛と勘解由が取ろうとするのを取り返すところは、この幕中一ヶ所だけ本性を見せるところだが、それが底割りになるのを警戒してか、今一つキッパリしなかったのも残念。
幕切れは次の奥殿の幕切れに笑いがあるために、広盛を見送った後花道へ行き、自分も寝間へ行こうと七三で決まって入るやり方。これも本文通りなのがいい。
亀蔵の八釼勘解由は一通り。橘三郎の広盛は、勘解由よりも一枚上手の敵役の憎たらしさ、滑稽味、スケールの大きさが欲しい。梅花の鳴瀬、種之助のお京。長唄は鳥羽屋三右衛門、五七郎ほか。
幕間を挟んで次がいつもの通り塀外から奥殿になる。
ここに今月一番の見ものがある。魁春の常盤御前である。
その品格、歌右衛門写しの芝居の丁寧さ、下げ髪、十二単衣がよく似合う古風な美しさ、ともに立派な常盤御前その人である。この役はとかく為所の少ない役の様に思い勝ちであるが、そうではない。むろん貫目が大事な上に、ジッと人の芝居を受けながら舞台を盛り上げて行く難しい役なのである。たとえば魁春の常盤の幕切れを見ればそれがよく分かる。魁春が幕切れに立って動くと、鬼次郎お京夫婦との別れの哀愁が舞台一杯に出る。その広がりさながら山の動くが如くであった。自然で、なんでもない様で、それでいて哀愁が絵になっている。
又五郎の大蔵卿は、この場は曲舞と違ってあまりよくない。「源氏の類葉」という公家でありながら武将としての筋が通っている、キッパリしたところが弱いからである。播磨屋二代の大蔵卿は本性を現したならば、もう作り阿呆には戻らなかった。表に狂言詞を使っても、それはあくまでうわべの事、そこの性根はゆるがない。そこが中村屋系の大蔵卿とは違うところであった。又五郎はむろんそれは百も承知だろうが、その描線が弱いためについそっちへ引張られるのである。
たとえば「いのち長成、気も長成、ただ楽しみは狂言、舞」のところ。この幕の閉まった後の幕間で私は筋書を読んだ。すると又五郎が吉右衛門にここが難しいところだといわれたとあって愕然とした。まさしくここの又五郎が吉右衛門と違うからである。吉右衛門はここが明るい。源氏再興の希望に賭けているからである。それがあるからどんな平家の弾圧にも耐えれらという、希望に生きているから明るい。ところが又五郎だとこの「狂言、舞」が暗く悲痛で希望がない。希望がないから、この後の「きりりん、きりりん」だの「暁の明星」だのになると、いかにもこの人の「つくり阿呆」の仮面が「肉付きの面」の様に張り付いて、陰惨なこの人の人生が出る。こういう大蔵卿の側面を見せたのはこの人がはじめてで、それはそれなりの面白さではあるが、芝居としては暗過ぎるだろう。
歌昇の吉岡鬼次郎は、せりふ廻し、体の動きともにキッパリしてよく、この人の楷書の芸がこの芝居に一番合っている。種之助のお京。亀蔵の八釼勘解由はこの場はし慣れて充分。梅花の鳴瀬もいい。
この奥殿のあとに五段目の「五條橋」が付く。歌昇の弁慶は吉岡鬼次郎とは打って変わって荒事。力の表現、キビキビした身のこなし、しかも可笑し味があっていい。歌昇今月大当たりである。
牛若丸は種之助。幕切れに蝶十郎の鬼三太が出るが、拵えのリアルさといい、観客には何者とも分からないだろう。竹本は葵太夫、宏太郎ほか。
「曲舞」の前に亀蔵の解説が付く。この冒頭童謡の「京の五条の橋の上」が流れるのには閉口した。童謡も浄瑠璃も根は同じ伝説かも知れないが、今の人には余計分り難いだろう。それよりももっと分かりやすい解説がいい。
『渡辺保の歌舞伎劇評』