2023年3月歌舞伎座

芝翫の天川屋義平

 用事があって第一部は今日(三月六日)の開演に間に合わず、第二部から見た。その見た順に書く。
 第二部は、芝翫、幸四郎、孝太郎の「忠臣蔵十段目」と松緑、鴈治郎の舞踊「身替座禅」の二本立て。
 「十段目」は名場面揃いの「忠臣蔵」のなかではあまり面白くなく、次代のリーダー候補の芝翫がなぜこんなものをやるのかと思ったが、見てみると意外にもこれまで私が見た「十段目」のなかでは一番面白い。その理由は、堺の商人、男伊達風の義平が芝翫にピッタリだったからである。この役は役者のニンを選ぶ役なのだとつくづく思った。
 まず舅太田了竹を門口から突き出して、平舞台中央での思い入れがいい。いかにもこういう役の心の深さを表現している。続いて女房お園との別れも、ハッキリハラのなかでは泣きながらオモテはあくまで手強いのがいい。そこへなにものとも知れぬ者たちが乱入して来る。大切な長持ちを引き出すのを遮っての、長持ちへ乗っての「天川屋義平は男でござる」の大見得。その前後の男振り、キッチリした芸の描線が、この役の他にはない独特さを出す。世話のうちに時代がかってしかも市井の夜の闇に一人ヒッソリと男を磨いている男の孤独な面魂が出ている。この味がないと、この一幕は義太夫狂言らしさを失ってたちまち浪花節芝居になってしまう。そうならないところが芝翫のよさである。
 台本は、丸本とは違って大星由良助の件りの前にお園の件りがある。そうすると芝居の足も早く自然にすむが、今度見ていて、本当は丸本通りの方がいかに由良助が秘密が漏れるのを恐れていたのかが分かるのだと思った。思えば由良助は七段目で秘密を知ったおかるを殺そうとしている。それを考えれば、十段目で天川屋義平から秘密が漏れるのを恐れて用心しているかはいうまでもなく、ことに討ち入りの日が迫っている上に、上方から鎌倉(江戸)への移動もある。そこにドラマの大きな根幹がある。それを感じさせるにはやはり丸本の段取りの必要があると思うのである。
 幸四郎の由良助は、さすがに芝翫の義平に対して貫目不足なのは是非もない。そのハンディのなかでという条件を考えればよくやっている。
 孝太郎のお園は、最初の伊吾とのやり取りが終始立ちっ放しなのは、落ち付かない。江戸時代には、立女形の役が顔世やおかるでなくこの役であったことを思えば、これで結構難しい役なのである。
 橘太郎の舅太田了竹は、可笑し味に傾き過ぎて、面憎いところが足りない。この役はいわば斧九太夫の、ひいては師直の威光を背負った役だから、もっと手強くありたい。そうでないと由良助はもとより義平はむろん狂言そのものが軽くなって嘘っぽくなる。
 男寅の丁稚伊吾は、歌舞伎の阿呆の役の寸法に嵌っていないのが困る。松江以下の赤穂浪士。周囲がもっと揃っていれば、芝居が面白くなっただろうのに残念。
 次が松緑、鴈治郎の「身替座禅」。はじめは菊五郎ですでに看板が上がっていたのに腰痛で休演。松緑が変わっての本役になった。むろん初役であり、大いに期待して行ったが、よかったのは花子のところから帰っての手振りである。嫌味がなくて品があって、色気があるのがいい。将来はこの人のものになるだろう。しかしせりふがよくない。狂言詞を消化しようとして、いつもの癖が出て耳立つ。
 鴈治郎の玉の井は、ごく自然に、愛嬌、色気を出していていい。立役張りでやる人が多いが、女形の性根に徹してそうしなかったのは一見識である。
 権十郎の太郎冠者は、もう一つリアルな突込みが欲しい。新悟と玉太郎の千枝小枝。常磐津は兼太夫、一寿郎、長唄は勝四郎、巳太郎ほか。
 第二部に続く第三部は玉三郎の、吉井勇の「髑髏尼」と、愛之助、玉三郎の「吉田屋」の二本立て。
 「髑髏尼」は、吉井勇のほとんどレーゼ・ドラマに近いせりふ劇を今井豊茂が後半を中心に手際よく纏めて一時間の芝居にした。
 序幕は京都万里小路一場になり、玉三郎の平重衡の未亡人新中納言の局が、我が子寿王丸が源氏の武士に連れて行かれて殺されるのを追って行く景色を見せるだけ。ここに出る印西阿闍梨が鴈治郎、女房長門が新悟、男女蔵の烏男。亀鶴の源氏の武士が芝居がしっかりしていて目に付く。 
 二幕目は一転して奈良の尼寺。新中納言の局は剃髪して尼になり、亡き寿王丸の髑髏を抱いて暮らしている。それに恋する鐘撞き七兵衛。一方尼は亡き夫重衡の亡霊に出会う。
 玉三郎の演出は、この後半に力点があり、七兵衛の醜怪さと重衡の美しくも儚い幻想が対照的に描かれる。その相反する二つの力が結局は一つになって、七兵衛の尼殺しの結末に至る。美醜、幻想と現実の表裏の相克が鮮やかである。不思議な感覚の芝居という他ない。
 玉三郎の尼が独特の美の化身を描き、愛之助の重衡の亡霊は一通り。福之助大抜擢の七兵衛はさすがに荷が重かった。河合雪之丞以下の尼たち。
 次が「吉田屋」。
 愛之助の藤屋伊左衛門は、すでに実験済み。しかし今度は歌舞伎座の大舞台、相手の夕霧が玉三郎と来ては、当人緊張もするだろうし、見る方も手に汗握るというわけで、思いの外の不出来。すなわち格子先の花道の出は、竹「春の寒さを喰いしばる」前後の一つ一つのしぐさがまことにぎこちなく、間も悪い。どうしたことかと思わざるを得なかった。この格子先は他の人と違って仁左衛門型は、上下へ自然に行く居所が付いているのにそれも曖昧。草履を脱ぐのか鼻緒が切れたのかもはっきりしない。もう一度原点に返ってキチンとして欲しい。
 伊左衛門もやる鴈治郎が喜左衛門に廻って舞台に弾みがついた。ただ少しリアル過ぎるところがあるのが気になる。
 松之助の阿波の大尽は、町人姿だが、こなしは侍の様に見える。近松の原作ならば平岡左近であろうが、この場だけなら田舎のお大尽であるべきだろう。竹本は幹太夫、淳一郎ほか。
 廻って奥座敷。
 鴈治郎の喜左衛門は、この場は情愛行き届いて、吉弥の女房おきさと、この二人がいいので舞台が引き立つ。
 愛之助の伊左衛門は、格子先よりはこの場に至ってやっとイキを吹き返した。おきさとの遣り取り、「帰りましょう帰りましょう」のすね方ともにいいが、残念なのは「五百貫目の借銭背負うてびくともせぬ伊左衛門」のところで、「おそらくは日本に一人の男」がないのは物足りない。このせりふに籠められたのは、伊左衛門の微笑ましい程の誇大なブライドであり、気骨である。この気骨がある故にこそ、柔らかさ、優しさも引き立つし、人間としてのスケールも出る。ここが仁左衛門型の大事な性根である。それがカットは惜しく、そのために愛之助の伊左衛門の人間像が今一歩不鮮明になっている。「恋も情も世にあるうち」が情感に乏しいのもそのためである。
 愛之助の伊左衛門で今度いいのは、万歳傾城の件りである。ここは丁寧で、しかもユーモアに溢れていて面白い。ここがこの伊左衛門第一の出来である。
 玉三郎の夕霧は、相変わらず美しいが、今度の打掛けの好みは、黒地に雪と柳に白鷺はいいとしても、雪片が大きい上に煩い。そのために印象が散漫である。この人の常「神仏の控え綱」で両手を合わせて天を拝む思い入れ、あるいは常「それは幾重の物案じ」の思い入れの深さ、迸る情愛がさすがに見ものである。
 仁左衛門型だから太鼓持ちが絡む。その太鼓持ちは歌之助。常磐津は一佐太夫、菊寿郎ほか。
 翌日(七日)に第一部を見た。宇野信夫がシェイクスピアの「リチャード三世」を若き日の二代目白鸚のために歌舞伎にした「花の御所始末」一本立てである。
 今度は齋藤雅文の演出で、帝劇の初演とは大分変っている様に思うが、今手もとに初演台本がなく確かめようがない。ことに序幕の柳の広場、続いての北山金閣に省略があるようで、見ていて幸四郎の足利義教が、権十郎の父義満、亀蔵の兄義嗣を殺す動機がよく分からなかった。金閣で父を手に掛け、次の土牢で兄を殺すには、それなりの理由がなければならない。それが抜け落ちている。ただ癇性の強い血気な若者というだけで、野望も悪もここにはない。したがって幸四郎の義教は、幸四郎が本来ニンにない逞しさはさすがに出ているものの、それ以上の悪は感じられなかったし、その行動はなんら必然性のない恣意的なものにしか見えなかった。
 権十郎の足利義満は、貫目はあるものの金閣を作った大政治家、大文化人らしさまでは見えない。もっともこれは上演台本のせいもある。
 芝翫の畠山満家がそれらしい陰謀家の風貌を見せるが、ここはまだ格別のことはない。満家の一子左馬之助は染五郎、義教の妹入江は雀右衛門、執事一色は橘太郎、日野は錦吾、茶道珍才、重才は宗之助と廣太郎。
 義満の側室の高麗蔵がそれらしくていい。亀鶴の陰陽師土御門が気味の悪さを出している。
 三十五分の幕間を挟んで第三幕の謁見の間。大明国の使節の謁見が終わってからがこの作品第一の見どころである。側近から満家を遠ざけようとする義教、病いに侵されながらも義教に迫る満家。幸四郎の義教と芝翫の満家の十数分の舌戦が見ものである。満家は、義教の父義満殺しの秘密を知っている。義教は義満が実の父親ではなく満家こそ実の父であることを知っている。知っていればこそ疎ましい。疎ましいばかりでなく、義満が実の父でなければ父親殺しではない。その互いに秘密を持ち、言い分を持った者同士が罵り合う。その罵倒は権力をめぐる争いであると同時に、父と子の争いでもあった。その屈折、その対決、そして虚々実々の闘いを芸の争いにしたところが芝翫と幸四郎の功績であり、見ものである。ついに義教は満家を絞め殺す。偽の父親殺しは現実になって幕が下りる。
 この後の四幕目の能の楽屋から柳の広場の義教の自害は、道具転換が目まぐるしく、その上、安積行秀の謀反、大衆の一揆、入江の自害と事件が多く、その処理がモタモタしていて芝居のテンポが落ちる。手早く一気呵成に行くべきだろう。
 

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『渡辺保の歌舞伎劇評』