2023年4月歌舞伎座 夜の部

仁左衛門の切られ与三

 仁左衛門が体調不良で休演して公演中止になっていた歌舞伎座夜の部が、幸い仁左衛門が大事に至らず平常に戻り、夜の部が復活したので見に行った。仁左衛門、玉三郎の「切られ与三」と松緑左近親子の舞踊「連獅子」の二本立てである。
 「切られ与三」は、見染め、逢引き、源氏店の三幕。見染と源氏店はいつも通り、逢引きはくどくなく、スッキリまとめて、この二人の顔合わせが受けているのだろう。久しぶりに歌舞伎座は超満員の大入りである。場内外熱気溢れんばかり。歌舞伎ファンも満更捨てものではない。
 まず見染めから。お富の一行を迎える地元のヤクザたちの埃鎮めが一渉りあって、花道から玉三郎のお富が出る。女中の差し掛ける日傘に手を添えてスーッと出て来る玉三郎の姿は、腰が確り入って、上半身が微動だにせず花道を動いて来る。そのありさま辺りを払って、一陣の清風吹き渡る如くである。
 お富の一行が上手へ入ったところへ、仁左衛門の与三郎が出る。絵の様なお富に対してこちらは、ごく自然に、芝居を運ぶ具合が手に入ったもので、軽くサラサラとして油が抜けた芸である。
 この二人が本舞台で行き会っての動きも、かつてのこってりとした濃厚さはないものの、サラリとしてしかもスミズミまで行き届いている。一度離れて与三郎があれが噂の深川芸者富吉かと、思わず寄るところの芝居など巧いものである。伊豆屋の若旦那の生活感目の当たり。総じて仁左衛門の今度の与三郎は、ただの美男美女のラブロマンスというところを超えて、人間が出ているところが円熟の心境である。
 対する玉三郎のお富の本舞台の与三郎に見蕩れての「いい景色だねえ」には美しい愛嬌と微笑みが零れる。それを見送った与三郎の羽織落としは、なんどりと真直ぐに向こうを見て、恋の熱ッぽさよりもフッとこの男を襲った人生の間隙が鮮明である。
 左團次休演で金五郎の権十郎が和泉屋多左衛門に廻ったために金五郎は代役。橘太郎の五行亭相生は、いかにも江戸の太鼓持ちが避暑地のアルバイトの噺家らしくていい。歌女之丞のお針女、嶋之亟の茶屋女、守若の雇女と手揃いである。
 二幕目の逢引きは、いつもの赤間別荘。はじめに相生の手引きで与三郎が来て、お富との色模様、という程のこともなく、ここははじめての逢引きということでごくアッサリ。すぐに一間へ入って紗張りの向こうに与三郎にしな垂れかかるお富の姿を見せる。すぐ半廻しになって海松杭の松五郎の密告で旅に出た筈の赤間源左衛門が戻ってくる。引き出される二人。海岸へ逃げるお富。与三郎の嬲り斬りがごくアッサリなのはいい。今更サディスティックなシーンでもないからである。
 仁左衛門の与三郎は、ほんの短い間に与三郎の育ちのよさ、初心さをそれとなく見せる。当然とはいえこの用意が次の源氏店で生きて光彩を放つのである。もう一つこの与三郎で感心したのは、三幕を通してちょっとした動きがきまると、必ず整ったいい形で絵になる造形で、それが如何にも芝居らしい情趣を掻き立てることである。しかも芝居は芝居らしく、形は絵らしくして、その両方が混然一体になっている。
 亀蔵の赤間源左衛門、橘太郎の相生、吉之丞の海松杭の松五郎。
 三幕目が源氏店である。
 仁左衛門の与三郎はかつてとは一変して、しみじみした人情噺のなかの人間になった。たとえば与三郎が和泉屋多左衛門に、お富がお世話になった、お礼はお礼で申します、といった時、仁左衛門の与三郎の横顔には、横山町の大店伊豆屋の若旦那の面影が掠めると同時に、関東の荒野を吹き荒ぶ風をまともに浴びて彷徨う無宿人の様な侘しさが漂った。これはほとんど長谷川伸の世界の人情に生きる男の、孤独な翳であった。
 しかしその一方でこの男はお富への執着、恋心を忘れない。仁左衛門の今度の与三郎で一番いいのは、蝙蝠安に追い立てられて座を立った与三郎が一歩、二歩、お富を見詰めながらお富から遠ざかって行くところである。その情、その色気、滴るばかり。門口を出てもその視線は続いて、しかもそれがフッと止まると絵になる、円熟の芸であった。この与三郎の思いは、幕切れの、仁左衛門が工夫した一度帰った与三郎がもう一度戻って来る、原作をアジャストした演出の、お富を抱いて「もうお前を放しゃしねえぞ」というところに繋がっている。お富が自分にとって掛替えのない存在であることを、この男はこの遠ざかる瞬間に思い知ったのである。そういう一貫した思いが深く、ここには色濃く出ている。その思いの色彩は、江戸から伝わった与三郎の感覚からは逸脱しているかも知れない。与三郎はもっと粋で、江戸前だという意見があるかも知れない。しかし私はこういう人間ドラマがあってもいいと思う。仁左衛門が今度見せた人情は、今まで視たことがない深いものだった。
 いつもの「しがねえ恋の情が仇」は、ただの名調子ではなかった。いぶし銀のように、渋く、人気の情に染まって独特の光沢を放っていた。それが観客にも通じたのだろう。思い掛けないところで拍手が起こった。私はかつてラジオで聞いた徳川夢声のこの部分を思い出した。夢声は歌舞伎の声色ではなく淡々と、このせりふを喋って与三郎の数奇な人生を語って、聞く者の胸を打った。そこに与三郎が生きていたのである。
 玉三郎のお富も当てッ気がなくて、サラサラしているうちに自然に色っぽい香気が立ちのぼる。左團次急逝によって権十郎が和泉屋多左衛門。晩年になって味の出て来た左團次が懐かしく思い出される。冥福を祈る。
 蝙蝠安は市蔵。カドカドは締めているがおとっつあんの安とはまだ違って、これからに課題が残った。松之助の番頭藤八はアクが強すぎる。役者の格を別にすれば、松之助の蝙蝠安、市蔵の藤八というのがニンなのかもしれない。
 「連獅子」は、円熟、ベテラン揃いの「切られ与三」とは対照的に、松緑父子が若さのエネルギーで歌舞伎座の大舞台を占拠した。たびたび起こった客席の割れる様な拍手を聞きながら、私はこれだけの率直な歓喜の声は得難いと思い、同時に松緑親子がここまで来たことに感慨を抱かざるを得なかった。祖父二代目も父三代目も「連獅子」を踊ってここまでの大拍手を浴びたことはなかったからである。
 前半の狂言師の間の松緑の、石橋の下を流れる谷川が千尋の断崖絶壁を滝になって落ちる振りを見ていて、その扇一本の派手な使い方の面白さ、足拍子の鮮烈さに陶然とした。扇たった一本、しかも藤間蘭黄の振付は、千尋の断崖を駆け落ちる飛沫の輝きのみを描いて華麗さを極めている。亡き富十郎は谷川の山奥の水源の泉が清流から激流になり、ついに満々たる大河となって大海に注ぐまでを扇一本で表現した。故吉右衛門は、谷川を抱く山々峰々を墨絵のように描き出した。しかし今度の松緑は谷川の流れも墨絵の山水も描かず、銀の水玉となって飛び散る飛沫だけを描いた。その光る水晶の如き水滴の力が舞台に溢れた。富十郎とも吉右衛門とも違う一流であった。子獅子は左近で前半は父子の情を抑え、後半になってこの父子の必死の闘いを見せた。万雷の拍手も故なしとしない。
 間狂言の宗論は、権十郎に坂東亀蔵。
 長唄は勝四郎、巳太郎ほか。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』