2023年4月歌舞伎座 昼の部

猿之助の功績

 四月の歌舞伎座は四月六日が招待日だったが、前日の四月五日になって仁左衛門が体調を崩して休演、急遽夜の部が中止になったため、とりあえず昼の部だけを見た。その劇評である。
 昼の部は十年前に上演された夢枕獏の小説「陰陽師」、今井豊茂脚色、齋藤雅文補綴演出の新装改訂版。今度は石川耕士監修、猿之助脚本、演出で、前作が新歌舞伎風であったのに対して純歌舞伎風に一変。顔触れも若手揃いで一新。まるで違った作品になった。これが面白い。
 その違いは、まず配役を比べて見るとよく分かる。
     役名        前回        今回
     平将門      團十郎       巳之助
     滝夜叉姫     菊之助       壱太郎
     安倍晴明     幸四郎       隼人
     源博雅      勘九郎       染五郎
     興世王      愛之助       尾上右近
     桔梗の前     七之助       児太郎
     俵藤太      松緑        福之助
     大蛇丸      新悟        鷹之資
     蘆屋道満     亀蔵        猿之助
     山姥       ―――       門之助
     右大臣      ―――       中車
 これを見れば、この十年の間に歌舞伎の世代交代が起こったこと、今度の顔触れに合わせて猿之助によって役が書き換えられていることが分る。たとえば門之助の山姥は今度新しく出来た。しかし役名は同じでも中身は書き換えられている場合も多い。たとえば安倍晴明。そういうことを含めて、この配役表は十年一昔という感が強い。役者が小粒になったと思われるかも知れないが、どうしてどうして、見てびっくりなのは、この顔触れが新鮮で、猿之助の台本や演出でイキイキしていていい。前回よりも活気があって面白い。それを見ながら、私はさらにこの後十年後、歌舞伎はこの人たちのものになるだろうという思いを強くした。未来への希望が明らかなのは、大収穫であった。
 十年前の舞台は、私の劇評(「陰陽師――滝夜叉姫」拙著『続・歌舞伎日録』所収)を読んで頂ければよく分かって頂けるだろうと思うが、なにがなんだかよく分からなかった。一種の神話劇だから仕方がないとはいえ、人間らしいドラマが描かれているのはわずかに安倍晴明(幸四郎)と源博雅(勘九郎)の件りだけ。狐の子に生まれた晴明が、その悩みを超えて生きる面白さがドラマになっていただけで、後は誰が何の為に、こんなことをするのか皆目分からぬことだらけであった。
 それが今度はよく分かる。人間が描けているとも、ドラマが成立しているともいわないが、ただ一点、猿之助が人間関係を巧く整理して、役者全員のしどころを作っているからだ。猿之助の大手柄である。分り易いのは、猿之助が脚本、演出として自分の立場を鮮明にして、物語をいわば「歌舞伎語」で喋っているからである。ここで私が「歌舞伎語」というのは、いつも見慣れた歌舞伎独特の様式の演出技法で物語が作られていることをいう。
 もっとも行き過ぎもある。たとえば序幕発端の将門と藤太の芝居が「車引」の梅王丸と桜丸のやり取りをなぞっていたり、大内の場で、蘆屋道満が「河内山」の松江候が「使僧に会うのは面倒だわえ」という引込みそのまゝだったりするのが、その例である。少しでも観客に馴染みがあるようにという配慮だろうが、それと気付く観客はそう多いとは思えないし、気付いた観客にすればそれはむしろ陳腐に思えるばかりでなく、せっかく新鮮に見えたイメージが、そういうもじりによって行き止まりになってしまう危険がある。
 それに反して「歌舞伎語」によって展開されるドラマが分り易いメリットは、個々の作品の部分的な模倣ではなく、歌舞伎固有の本質的な技法が応用再生して遣われている部分である。たとえば序幕の発端から第一場への八年の時間経過の表現である。前回はスライドだったが、今回は将門の巳之助と藤太の福之助が客席に向かって平伏してこの間八年たったことを「切り口上」として述べる。あるいは大詰一同が揃って舞台端から「これより宙乗りを御覧に入れます」といって猿之助の道満の宙乗りになる。どちらの場合も歌舞伎の役者と観客の関係、虚構を相対化する「異化作用」を持った歌舞伎の技法を応用したもので、猿之助がこういう本質的な応用を巧く使っている部分は成功して面白い。
 それでは序幕から順に書いて行こう。
 序幕発端は賀茂神社鳥居前。前半の関東の農民の免税強訴の件りは都の人間と関東の農民の群衆処理が拙く、筋を説明しただけ。高麗五郎の長百姓、欣弥の役人石黒源内。後半、その騒動を見て将門は関東へ下り、藤太は都へ残る。巳之助の将門はその面構えが不敵で面白く、福之助の藤太は芝居はしっかりしているが化粧が拙い。しかしこの二人が登場して舞台が歌舞伎風になると舞台は俄然面白くなる。
 第一場は八年後の京都御所。将門の反乱を危惧した宮廷は、猿弥の関白と中車の右大臣が藤太を呼び出して将門討伐の命令を下す。それに対して藤太は京蔵の朱雀天皇の寵姫児太郎の桔梗の内侍を頂きたいという。猿之助の蘆屋道満が藤太に秘法の鏑矢を与える。藤太は桔梗の内侍を連れて東国へ旅立つ。
 猿之助の道満が型破りで面白い。さながら伊勢屋へ強請に来た竹垣道玄の如く江戸っ子が歯切れよく啖呵を切って、一陣の清風を巻き起こす。宮廷の秩序を壊しながら活性化する。こういう奇想天外なところが歌舞伎のエネルギーであり、猿之助は、劇作、演出ばかりでなく、一俳優としても芝居をさらう手柄である。
 福之助の藤太は、この場は台本のせいもあってもう一つキッパリせず、児太郎の桔梗の内侍も天皇の寵姫でありなから、藤太を慕う色気がいま一つ。京蔵の朱雀天皇が一風変わったところを見せる。猿弥の関白、中車の右大臣は舞台を締めている。
 第二場は将門の相馬御所。京都から藤太が来る。将門は妻子を殺され、人格が変わっている。将門のもとへ先に潜入した桔梗の内侍の計略で、藤太に毒酒を勧める筈が失敗。内侍と藤太が夫婦とにらんだ将門は、かえって藤太の鏑矢で打ち取られ、首は中有に飛んで行方知れず、片腕を持って藤太と桔梗は京都に帰る。
 この場の巳之助の将門が出色である。妻子を殺された恨みの表現、あるいは鏑矢に当たって死ぬ具合の壮絶さ、ともにいい。福之助の藤太、児太郎の桔梗の内侍は一通り。
 この場で面白いのは右近の興世王。ただの敵役ではなく、将門に付きながら悪でもあり、薄気味の悪さもあり、得体の知れないところが面白い。これが思いがけなく将門の死後、立敵になるのを右近が巧く見せる。猿之助に次ぐ今度の出来星である。
 二幕目になる。
 第一場は将門死後一年の京都大内。藤太は将門を打ったけれども首は行方知れずやむなく片腕を献上する。宮中ではその片腕を兵庫司の女官(忠臣蔵の顔世御前と同じ役職、あれは兜改めがあるからいいが)琴吹の内侍に御蔵へ納めさせる。ところがこの内侍が実はニセモノ。興世王が老女に化けている。そこへ安倍晴明がはじめて登場し本当の琴吹の内侍を連れて来る。百歳を超えた内侍は寿猿でこれも楽屋落ちだが、長寿の寿猿を生かして面白い。化けの皮が剥がれた興世王は正体を現す。ここはほとんど「茨木」だが右近の老婆に化けた芝居で大受け。いずれこの人は音羽屋の十八番「茨木」をやるのだろう。楽しみである。
 第二場は晴明の家。この場は前回唯一すぐれた場面だったが、今度は一新して滝夜叉の入込み、三上山の百足退治の導入部になった。前半、笑也と笑三郎の式神二人、そこへ帰宅した隼人の晴明が絡んでドローンの喜劇がある。後半染五郎の源博雅が壱太郎の滝夜叉姫と道連れになってここへやって来る。壱太郎の滝夜叉姫はここではじめて登場するが、源博雅に惚れた芝居が確りしていていい。対する染五郎の源博雅は新鮮で役に合っている。
 第三場は一条戻り橋。ここに流れ着いて埋められた将門の首をめぐって、興世王と滝夜叉姫の首の奪い合いから首が目を見開き将門蘇生を暗示する。これに晴明、博雅が絡んでのだんまり。この場の幕外に四天姿の右近の興世王、壱太郎の滝夜叉姫の二人がらみという珍しい飛び六法があって、これが二人が手を尽くした面白さで目を奪う。今度の優れたところの一つ。
 三幕目は大詰。第一場が三上山で竹本の地で、藤太と桔梗の内侍の「道行妖花王 みちゆきあやかしざくら」。福之助と児太郎の踊りに鷹之資の大蛇丸が絡んで理屈抜きの一場。ここへ門之助の大蛇丸の母の山姥が現れ、揃って三上山の百足退治に行く。
 第二場が貴船の岩屋。興世王と滝夜叉姫が将門蘇生を祈るところへ、道満が現れ将門は鬼となって生き返り、兄が鬼となるのを望まぬ滝夜叉姫は自殺し、晴明、源博雅によって火中に殺され、興世王は藤原純友と正体を現し、蘆屋道満は将門や興世王を操って世界を魔界にしようとした陰謀顕われ、中有に姿を消した。
 猿之助の蘆屋道満は、前述の通り痛快無比。全ての悪の根源としての存在感を見せる。巳之助の将門には、生き変わり死に変わりして凄味を増していい。二役村上天皇で一転キレイになる。壱太郎の滝夜叉姫も源博雅への愛を通して死んだあと、二役天皇の寵姫如月姫になる。隼人の晴明、染五郎の源博雅、福之助の藤太、児太郎の桔梗の内侍と揃い、右近の立敵藤原純友を囲んで「さらばさらば」の大団円。
 最後に猿之助の蘆屋道満の幕外の宙乗りである。

今月の芝居に戻る


『渡辺保の歌舞伎劇評』