画期的な「髪結新三」
菊之助二度目の「髪結新三」が、前回とは全く違って目の覚める様な新鮮さ、画期的な舞台である。
どういうところが画期的か。前回初役の時は教わった通りの、六代目菊五郎演出であった。しかし今度は違う。たとえば序幕白子屋の店先。六代目演出では花道の出を省略して舞台下手からの出である。しかし今度は一変して黙阿弥の原作通り花道から出る。私はこの花道から出る新三をはじめて見た。二代目松緑も十七代目勘三郎もその他の人々の新三もほとんど六代目通り下手である。菊之助はただ原作通りにしたのではない。そうすることによって原作の精神に戻って作品の精神を復活したところが画期的なのである。
菊之助の新三は、花道七三に立ったカラッとした印象といい、七三の原作通りのせりふですでに新三という人間が浮き彫りになった。前の帳場の客への悪態、それ一つで新三の生活が浮かび、人間性が出る。門口を覗いてお熊と忠七が抱き合っているのを見ての罵倒、それが忠七と会うとガラリと変わってのゴマすりから唆しになるから、この男のいっていることが嘘だと誰にでも分る。今度は幕開きに黙阿弥の弟子の狂言作者という男が出て、人物関係を説明するが、お熊の亭主殺し、大岡越前守の御白州にまで触れるので、かえって分り難くなった。全くの蛇足である。
忠七の髪を梳くのは舞台真中、これは上手寄りがいい。しかし髪を結う手付きは巧いし、それが身に付いて手付きの小細工よりも人間のドラマになっているのが前回よりも長足の進歩。せりふも原作を復活して、自分の家は深川で一人暮らし、仕事で家を空けることが多く(実際は博奕だろう)、勝奴がたまに泊まるばかりというのは、新三の生活を活写するばかりか、これでこそ忠七がその気になるのも当然である。二代目松緑にも十七代目勘三郎にもなかった面白さ。この新三の人間像が新鮮かつ画期的である。
萬太郎初役の忠七も、この人らしい芝居の巧さで、そのガラの小粒を補って余りあり、この二人の芝居でこの場は大いに盛り上がる。
お熊は児太郎。キレイなうちにこの女のおっとりしたところが出ていい出来。
この一幕中の出来は、雀右衛門の後家お常。かつては多賀之丞の持ち役、ことに前回は萬次郎が巧く見せたこの役をまだ十分お熊も出来るこの人にやらせるのは気の毒だと思ったが、どうしてどうして傾きかかった大店白子屋を女手一つで支えなければならぬという女主人の悲劇目の当たり。落日の名家の名残りをしっとりと描いていい。日本版「桜の園」。この人ならば婿の話を娘にいいかねているのも無理ではないと思う一方、この人が婿を取れば白子屋も倒産しないで済むだろうと思わせるキレイさが唯一の欠点である。
それにしても気の毒なのは、錦之助の加賀屋藤兵衛。本来忠七の人なのに今月これ一役なのは残念である。花道の引込みに先代又五郎の様に扇子で日差しを避けることはせず、七三で袴の上前を軽く叩いてスーッと入るのは立派なものである。
菊市郎の車力の善八はよくやっている。菊史郎の下女お菊は色気を抑えているのはいいが、お熊への情愛が欲しい。
二幕目永代橋。菊之助の新三は、前回は序幕のみの出来だったが、今度は序幕に続いてこの永代橋がいい。忠七に辛く当たって行く具合はネチネチ意地悪く行く遣り方もあるが、菊之助はキッパリと強く、毒づいて行く悪を丁寧に描いて、せりふの行間をよく生かしている。萬太郎の忠七と共に、どうしても傘尽くしの様式性に引き摺られるところを洗い直しての丁寧さ、一間ずつを刻んでその間の間にも本性を現して行く具合が巧い。しかもその悪たるや爽快といっていい程の悪態、リアルで芝居とは思われず、手に汗握らせる。こういう新三をはじめて見た。しかも傘尽くしの二ヶ所の勘どころ――一つは「相々傘の五分と五分」もう一つは「覚えはねえと白張りの」の二ヶ所に、新三の性根が滲んでいる。前者は「一銭職」と蔑まれた髪結いのコンブレックス、上総無宿の深川までは来ても江戸に住まれぬ江戸へのコンプレックス。そのコンプレックスが浮かび、後者にはそれを刎ね返して生きようとする心意気が噴出する。菊之助にとって、傘尽くしはただの七五調の名せりふではなかった。それが爆発するのは、忠七を蹴倒しての「ざまァ見やがれ」である。「ざまァ見やがれ」といった時蹴倒されたのは、自分を差別する世間であり、江戸であった。菊之助の一間あってポンと開いた唐傘には、世界が変わった意味であり、見ている人間には単なる胸の透く陶酔ではなく、演劇的な展開があった。それを思った私には「吹けよ川風」の唄は爽快でなく、もっと複雑な深いものに聞こえたのである。
萬太郎の忠七は前半菊之助とは十分対抗したが、菊之助が引込むとさすがに一人では忠七の絶望の表現が手に余った。しかしそれまでは菊之助とともに引き合い、引きずられてのイキ投合、古風だの、芸だのといわなければ近来の青年忠七である。
彦三郎の弥太五郎源七も、この幕がいい。
三幕目、深川富吉町新三内。さすがにこの場になると菊之助の新三が今一息。前半源七とのやり取りは、怒りの表現がまだナマである。ことに問題なのは最初の新三内から、大家の長兵衛の内、続いて元に戻っての新三内である。ここは新三が長兵衛にどこで遣り込められるかである。序幕、二幕目と原作主義で行けば、この場も洗い直して欲しいところであった。というのは在来の演出では、長兵衛が新三に入れ墨の意味を二度いっている。最初は新三は聞き流して、二度目ではじめてハッとする。これはおかしい。原作は一度なのである。今度の菊之助も在来通りであるが、原作のニュアンスに近くなっている。そこを徹底してほしかった。
もっともそうならないのは権十郎の長兵衛のせいもあるかも知れない。権十郎の長兵衛は初役でもあり、精一杯の力演でもある。しかし何分この老獪かつ愛すべき老人の滑稽さ、図太い凄味を出す余裕がない。笑いのツボも新三とのやり取りのツボも十分抑えられているとはいえず、ことに新三を屈服させるだけの押しの強さが充分ではない。そのために菊之助の新三がアッサリしているような印象を受けるのである。
萬次郎の長兵衛女房おかくはいいが、いささか遣り過ぎの気味でもある。菊史郎の車力の善八、菊次の勝奴。咲十郎の鰹売りはただがなっているばかりで、これでは鰹が腐ってしまう。初鰹を知らせる町々へ響く売り声の距離感が要る。音二郎の合長屋権兵衛。
児太郎のお熊はこの場は無事。
大詰閻魔堂橋。菊之助がスッキリした男振り、悪の魅力を発散させる。少し白すぎるのは照明のせいか。
彦三郎の源七はここはキッパリしていい。菊次の勝奴、音幸の蕎麦屋、吉兵衛の按摩。
今月もう一本の見ものは、「新三」の前の舞踊「達陀」。見る前はまたかと思ったが、見てみるとこれが感動的であった。いつもと違う熱っぽさがあったからである。その理由は、顔触れのチームワークと主役集慶の松緑のリーダーとしての統率力にある。まず顔触れ。市蔵、松江、歌昇、萬太郎、巳之助、新悟、右近、廣太郎、種之助、児太郎、鷹之資、莟玉、玉太郎、左近、橘太郎、吉之丞とこれだけの役者が一糸乱れず、揃っている熱っぽさ。それを引率する松緑の力、それが一丸となった力である。ここに歌舞伎将来の大きな希望があり、それこそが見ものだった。
青衣の女人は梅枝。これが新鮮でいいし、今度は再演の時、幻想のなかの集慶を故人辰之助が父松緑と父子で勤めたという演出で、左近が二役で幻想のなかの集慶を踊っているのが珍しい。いささか長い様な気もするが、この父子共演の演出が新鮮である。
この「新三」と「達陀」の前に「宮島のだんまり」がある。しかしこのだんまりは役者を多く出し過ぎて広い歌舞伎座の舞台に怪人たちのラッシュで味も素っ気もない。
まず幕が開くと一面の浪幕で蝶十郎の鎧武者と幸右衛門の漁師の白旗の奪い合いがあり、鳥羽屋三右衛門と杵屋巳太郎の大薩摩、浪幕を切って落とすといつもの安芸の宮島の厳島神社の廻廊。大ぜりから雀右衛門の傾城浮舟を真中に上手へ又五郎の畠山重忠、下手へ右近の大江広元がせり上がる。そのあといよいよ各所から怪人たちが出て来てだんまり。誰が誰やらなんの役かもサッパリ分らず、動きも無味乾燥。これでは観客は楽しみようがない。
雀右衛門の傾城浮舟は、女形の八文字と立役の六法という、一身にして男女二役の変化を見せる、その対照もはっきりしない。それは大ぜりで傾城、石燈籠の陰から出て立役という、二つの演出がハッキリしないせいでもある。
以上の夜の部に対して、昼の部は梅玉以下の「対面」、團十郎の「若き日の信長」、最後が初代尾上眞秀初舞台の「音菊眞秀若武者」の三本。
まず梅玉の工藤は、本来は十郎の人を無理に工藤にした気の毒さ。それを気品と貫禄だけで見せている。この幕での見ものはまず魁春の大磯の虎。かつての歌右衛門の大磯の虎を思い出させる格調高い逸品。次いでの一つは、右近の十郎。なんどりと柔らかにしていい出来。当人は不満かも知れぬがこれがこの人の本役だろう。五郎は三度目の松也。剥き身の隈取が顔に合わず、歌舞伎の舞台が少ないせいか持ち味が薄く形ばかり。巳之助の朝比奈はいいが、丸味と滑らかさに欠ける。この人は本来五郎の人だろう。友右衛門の鬼王新左衛門、新悟の化粧坂の少将、亀鶴の近江、莟玉の八幡、桂三、吉之丞の梶原父子。
「若き日の信長」は、人物の立ち位置、前後の動き、せりふの強弱など未整理で、舞台の隅々にまで神経が行き届いていないのは、演出家がいないためだろう。たとえば齊入の覚円と従者の動きなど、上手奥の法要が行われている寺との位置関係がはっきりしない。
この大仏次郎の名作は、初演以来里見弴の演出が生きて来た。当時「里見マ(間)」とまでいわれた独特のテンポが作家独特の文体を生かして、だれにでも分り易かった。それが分り難く聞こえるのも文体が生きていないからだろう。そのために信長の「若き日の」青春の苦悩、人間どう生きていくべきかを考える姿が浮き彫りになった。その姿には、この世の弱肉強食の地獄を争って生き残った人間には、生きていかなければならないという強いテーマがあった。そのテーマは信長のものであり、同時に敗戦の日本国民のものであり、いつの世にも変わらぬ人間のものであった。序幕に迷いに迷っていた青年信長の苦悩は、守役平手中務の死によって成長し、大詰に至って人生の第一歩を踏み出す、その成長の変転にこそ私たちの感動の共感があった。
ところが今度の舞台では、迷いも苦悩も、そして人間的な成長もなく、序幕からすでに結論が出ていてドラマが動いて行かない。
梅玉の平手中務、児太郎の弥生、市蔵の林美作守、家橘の林佐渡守、齊入の覚円、男女蔵、九團次、廣松の平手三兄弟、右團次の木下藤吉郎。
最後が今井豊茂作、菊五郎演出の「音菊眞秀若武者」が呼び物で、超満員の大入りの上に、幕の開く前には、眞秀へのお祝いの引幕――フランスのデザイナーによるパッチワークの引幕をスマホに撮る観客が通路に殺到するありさま。目出度いというほかなし。
眞秀の岩見重太郎の狒々退治、長唄、常磐津、竹本、大薩摩という四方雛段だらけの地方に、二重上手に團十郎の殿様、下手に菊之助の奥方、平舞台に楽善、團蔵の両家老職、時蔵のお局、梅枝の腰元。この腰元の一踊りがこれが一番いい。そこへ彦三郎の剣術指南役が女姿の眞秀を連れて出る。眞秀は口跡といい、芝居といい、姿形といいクッキリとしたいいガラである。その中へ村人たち三人、萬太郎、巳之助、右近が近ごろ村へ白い狒々が出るという御注進。そこで眞秀が実は男で狒々退治に出立する。
場面が変わって山奥。ここに松緑の大敵が狒々を飼っている。それらを退治したところへ菊五郎の弓矢八幡が現れ、團十郎、菊之助、彦三郎に見送られて眞秀は敵討ちの旅に出る。御丁寧に幕外があって眞秀はぶっかえりになって六法の引込み。前後五十分。これだけの大仕掛け、豪華版の顔揃いなのに、他愛のない中味。なんか空しい気がする。
『渡辺保の歌舞伎劇評』