仁左衛門の名品 いがみの権太
仁左衛門三度目のいがみの権太が、歌舞伎ファン必見の名舞台である。
その型は、最初の時は拙著「批評という鏡」に、二度目の時はやはり「渡辺保の歌舞伎劇評」に書いたからここでは繰り返さない。ここで書きたいのはその二回と今度がどう違ったかである。
その違いは、芸が自然にいよいよ完璧になって、サラサラと運んで淀みがないことである。その自然さ、そのリアルさはとても丸本ものと思えぬ運びの巧さ、滑らかさであるが、しかしそれだけではない、その磨き抜かれた洗練の果てに、底光りするところに前二回とは違った値打ちがある。
まず木の実から。
華やいだうち今度目立つのは、その色気である。色気には二つの意味がある。一つは円熟した芸の艶、もう一つは権太と女房小せんとの関係の色気である。順を追って書いて行こう。
辻打ちの鳴り物で上手揚幕からの出。椎の木の木の実を六代君に取ってやる辺りはいつもの通り。荷物をさり気なく笠で隠しながら取り替えて持って行くところでは、今日も客席からどよめきが起こった。しかし前回と違うのは、花道七三に掛かって、本舞台へギョロリと送る視線、一瞬だがこういうところの芝居の押し方は、なにもしなかった前回と違って深く、自然にリアルな中で底光りのする芸であり、これを私は芸の艶という。
戻って荷物を取ってバラッと紐が落ちて「この中括りの解けたのは」と憮然として小金吾を見る具合から、荷物を開けて「ナイッ」大袈裟にいい、「ナイナイナイ」行李を持って両手に揃えて持った行李を下に突くところ、ついに本性を現して手拭いを肩に大胡坐のツケ入りの大見得まで。五分も透かさぬ運びの巧さ、面白さである。
小金吾の芝居を下手立身裏向きで受けている具合の、画然としっかりした描線のよさ、自然さのなかの強さは前にも増して洗練されている。
これが芸の艶、私がいう色気は内侍、小金吾を見送ってからの、小せんとの芝居である。長年連れ添った夫婦の情愛、それでいて蘇る初心な青春の思い出の新鮮さ。小せんの上村吉弥との相性もあるだろうが、今度は色気の濃い、愛嬌半分、本気半分のじゃれ合いの、差し引きの極彩色、それが自然に出ている。
鮓屋になる。
前回と違うのは、今日(六月六日)は花道でなく舞台下手から出た。門口を開けるとお里と弥助のイチャつきを見て、下手へ行き何をしてやがるんだというヤキモキとテレを見せるのが実に巧い。花道を省略しただけでなくそれとは別な芝居にしている。この面白さも満更捨てものではない。ただカットしただけではなく、倍にして客に帰すサービス、偉いものである。
これから二人の間へ入っての大胡坐から母との遣り取り、諸事前回通り。ただ今回は前回と同じなから全く味が違うのが、ポンと金を隠した鮓桶を右手の一指し指で指しての暖簾口の引っ込みである。むろんこの動作は前からあったのだが、私は少し説明的だと思っていた。ところが今度は、この指差しが権太自身の、「うん、これだな」という心覚えであり、かつそれがここの一連の動作の重要なアクセントになっていることを感じた。それが絶妙な味になった。さらにこれが劇的な大きな仕込みになっていることが明確になった。すなわちこのあと弥左衛門が帰って来て、小金吾の首を入れた鮓桶を置いて、さらに何気なく桶を上手寄りに一つずらすのである。このヅレが権太の心覚えを狂わせ、間違えて首の入った桶を持ち帰らせることになる。むろん前回もそうしたのだろう。しかしそのことに私が気が付かなかったのは、むろん一つは私の迂闊さであるが、もう一つは仁左衛門の指一本が芸として舞台に広がらなかったことにもよらないだろうか。
そういう例はここばかりではない。母親とのやり取りで権太は死なねばならぬといって首に手拭いを当てる。それを見た母親が縁起でもないという思い入れで二重を降りて権太の傍へ来る。その膝へもたれ掛かって「アイアイ」が自然に出来る。すなわち仁左衛門の権太は周囲の役を巻き込んで自然さリズムを作っている。これでドラマが全体に広がるのである。
二度目の出に。いつもの大見得が立派。鮓桶を忘れて取りに帰るところは今まで七三まで行っていたが、今度は本舞台でやる。その代りイトにつく振りは、倍面白い。花道は従前どおり。首実検も変わらぬが、今日はことさらに右袖を捲って中腰になり、ジイッと梶原を見込むイキが凄い緊迫感であった。梶原の相違ないを聞いてホッと腕を突いていた膝から滑らせる。菊五郎型のパラリと浴衣の片袖が落ちるのと甲乙つけがたい。
小せんと善太を送るところは途中で陣羽織を被ってしまう。弥左衛門に刺されるところはいつも通り。述懐は相変わらず聞かせる。ここが面白いのは、六代目菊五郎、富十郎に次いでこの人である。いつもはダレるのにアッという間だった。ことに今度は母親に何度も「母者人」を繰り返し「血を吐きました」では父親の二の腕を掴んで抱き付いた。権太の性格、人生、ともに鮮明である。ここらが仁左衛門の権太像としてユニークであっていい。そういう男だから犬死になるのだし、悲劇でもある。以上仁左衛門の権太が名品である理由である。
この幕には仁左衛門の権太のほかに二つの傑作がある。一つは錦之助の弥助、もう一つは歌六の弥左衛門である。
錦之助の弥助は、まことに打って付けの本役。弥左衛門にまずまずといわれて竹「たちまち変わる御装い」で平舞台下手の居所でスーッと立って、右手の手拭いが音もなくパラッと落ちる。そのジッと動かぬ無表情な姿で、吉野の片田舎の鮓屋の店先が忽ち金殿玉楼になる。景色がガラッと変わる。こんな弥助を久しぶりに見た。不思議なことに三代目時蔵の面影が仄見えた。
むろん竹「解けた様でもどこやらに」もいいし、なによりも若葉の内侍に会ってから、いつの間にか高家の品格が出たのに驚いた。それと言わずとも三位中将維盛になっている。こういうところが歌舞伎の面白さである。
幕切れは一人下手に立つひっそりとした孤独さもいい。こういう弥助を見ていると、このドラマの背後に鮓屋弥左衛門一家の、人間たちの世界を超えた存在を感じる。運命といっても歴史といってもいいが、弥助はそういう世界の境目に立っているのだろう。
歌六の弥左衛門は、手堅く、芝居の輪郭を押し進めていく力を持っているのがいい。この人の筋が一本通っているので作品が生きた。
この二つの傑作が仁左衛門を囲んで「鮓屋」の舞台を名品にしたといってもいい。
若葉の内侍は孝太郎。小金吾の千之助は教わった通りを精一杯やっている。彌十郎の梶原、吉弥の小せん、松之助の猪熊大之進、梅花の弥左衛門女房。
壱太郎のお里は新鮮で初々しく、色気があっていい。
このあとに松緑の「四の切」。松緑の二役本物の佐藤忠信は、花道へ出たところ本舞台の義経をグーッと見込んだ気組みといい、七三で大刀を取って腰を割ってのきまりといい、いい出来である。なにより芸に幅が出たのがいい。ただ竹「黙して」の下げ緒の捌き方はいいが、フッと義経に気付いて素早く袂に入れる動きがはっきりしない。義経を見る角度とそちらへの気の振り方がよくないのだろう。
二役源九郎狐は、意外にも体が軽くない。軽く見せる工夫が欲しい。狐詞も大分よくなったが、今ひと一息。菊之助の文楽の咲太夫との共演で本文復活、澤瀉屋の宙乗りの野性味といろいろの狐忠信のある中で六代目の型を守るのはいいが、多少新しい工夫があってもいいと思った。
時蔵の義経は、「静は如何いたせしぞ」で脇息を使わず、次の「黙れ」で使う。女形ゆえ強さを出すためだろう、それで十分魁春の静御前と釣り合いが取れていい義経になった。
魁春の静御前は、古風で、嫋々たる美しさ、なにがどうということはないが、十年一日の如くテコでも動かず、ここにいるという確信が存在感を強め、露の垂れる美しさになっている。
東蔵の川連法眼は慣れぬ老人の立役。皺の描き方が拙いが、芝居はきっぱりしているし、飛鳥の門之助と共に勿体ない程の夫婦。亀蔵の駿河、左近の亀井。竹本は前が司太夫、岬輔、後が東太夫、長一郎。
『渡辺保の歌舞伎劇評』