2023年6月歌舞伎座 昼の部

中車の「又平」

 最近の「傾城反魂香」は、ほとんど六代目菊五郎の始めた近松門左衛門の本文に近い型である。その中でも浄瑠璃の改作「名筆傾城鑑」に近く、在来の歌舞伎の型も多く残した猿之助型の又平を久しぶりに見た。中車の又平、猿之助休演につき壱太郎の女房おとくである。
 幕が開くと竹「ここに土佐の末弟」で花道から提灯を持ったおとくが先へ立ち、続いて又平が出る。丸本で行けば絵に描いた虎が抜け出して田畑を荒らす。その虎を将監の弟子修理助が絵筆を持って掻き消し、その功によって土佐の苗字を許される。その虎の件りが終わって百姓たちが安心して帰ったところへ、入れ違いに又平夫婦が来る。こうすると花道の出が難しい。菊五郎型で行くと何度も振り返る。百姓と擦れ違った心であり、そこに弟弟子の修理助に先を越された口惜しさ。その複雑な思い入れのしどころがある。猿之助型だとそれがなくなるから、出が味気ない。しかし利点もある。又平夫婦が虎の件りを目の当たりにして切実に苗字がほしくなるし、百姓たちに馬鹿にもされる。又平の窮地が鮮明になる。一長一短。百姓が出たところで邪魔な山木戸が取り払われるという利点もある。
 本文で行くとここは将監の北の方が出るが、猿之助型で行くと旧来の歌舞伎風で下女が出る。今度の下女は九十歳余りの寿猿が元気にやって面白い。さすがに足が不自由で最後まで二重を降りないが、その元気さ、年代記物だろう。ただこれで行くと本文の苗字の願いを奥様までは申し出ているというせりふがカットになって、おとくがこのお願いは「今がはじめて」ということになる。そうすると又平が将監に斬ってくれという時に四代目雀右衛門のおとくと二代目吉之丞の北の方が思わず顔を見合わせて舞台の緊迫感を盛り上げた、あの印象的な芝居が出来なくなる。
 中車の又平は、出て来たところ朴訥なところがいいし、現代劇が巧い人だけに人間描写には手抜かりがない。ことに又平の言舌不自由なところが巧い。なかでも言葉に詰まってへへエという様な照れ笑いを挟むのが巧い。よく研究して、リアルなところがいい。
 そこへ歌昇の雅楽助が飛び込んで来る。歌昇はキッパリしてよく、舞台に一陣の薫風が吹き込んで来るが、時々手傷を忘れるのが欠点。
 又平の物見は一通り。ここが味が出るのはまだこれからである。雅楽助の頼みを聞いた将監が使者の役目を修理助に命じる。むろん又平も行きたい。俺に役目を譲れというが、修理助は聞かない。ここの中車が全段の白眉である。修理助が邪魔したら手は見せぬぞというと又平が座ったまま修理助に「突けッ」「殺せッ」と絶叫する。この気勢の鋭さ、激しさ、裂帛の勢いが場内にこだまして圧巻である。しかしその力がまた問題でもある。
 壱太郎のおとくもそれに引き連られて、「親御を恨みなさんせいなア」といったせりふが悲しみよりも絶叫に近くなる。しかし歌舞伎の面白さは、リアルさばかりではない。リアルさと同時にその感情を造形する面白さもある。いわゆるお芝居の楽しさである。中車の又平はそのリアルさはいいが、芝居らしい楽しさが薄い。この作品は丸本物だから、当然義太夫の三味線のイトに付くところがある。そういうところへ来ると中車はベタ付けになる。付かず離れずの距離感がない。そうするとリアルさだけになる。現代劇ならばそれもいいが、歌舞伎はそれだけでは済まない。「突け」「殺せ」の迫力は優れていると同時にそういう問題を含んでいる。
 竹「名は石魂に留まれと」は、いつもの筆を持った右手を横に伸ばした見得の前に、猿之助型だと自分の姿を手水鉢に写して水鏡をする。いかにも猿之助型らしい面白さである。壱太郎のおとくは一度実験済でもあるので、ここらは安心して見ていられる。
 この夫婦でもっとも印象的だったのは、大頭の舞の始め、おとくが打つ鼓(壱太郎は自分で打っている)を聞いて、又平はそこはそうじゃないといって𠮟るところである。中車と壱太郎だと夫婦の情愛通っていかにもリアルで面白い。こういうところがいいのである。リアル一方ではなく、さりとて形だけではなくて真に迫って巧い。
 花道の引込みは、壱太郎がつい中車に煽られてか、いささかやり過ぎ。内輪にした方が余韻が残る。
 歌六の土佐将監が、中車、壱太郎の熱演をしっかり受け止めていい。この人は夜の部の「鮓屋」の弥左衛門と共に丸本物の大事な柱になった。
 團子の修理助がハキハキとして新鮮。
 次が近松の原作からいえば、上の巻の最後に当たる又平住家。三代目猿之助(現猿翁)が春秋会で復活して以来の上演である。
 米吉の銀杏の前が逃げて来て又平夫婦に匿われ、又平の描いた大津絵の精霊たちが追手を撃退する。中車、壱太郎の又平夫婦はここは無難な出来。米吉はキレイなお姫様でいかにもそれらしい。大津絵の座頭の猿弥、笑也の藤娘、新悟の鯰、青虎の奴と揃っている。しかしそれに絡む四天王に男寅、福之助、玉太郎、歌之助を使ったのは趣向倒れ。黒四天を使った方が大津絵の霊が引き立つ。男女蔵の追手の頭不破伴左衛門。
 続いて黙阿弥の「児雷也」三場。今度はいつもの「藤橋のだんまり」の前に一つ家の綱手と児雷也との色模様、次いで山中の仙素道人の児雷也への蝦蟇の妖術の術譲り、最後の藤橋のだんまりと前後三場。だんまりに少しでも丁寧に道筋を付けようという努力は買うが、それでも時間が足りない。
 一つ家は、綱手の正体がよく分らず、孝太郎の綱手は一通りだが、芝翫の児雷也は恰幅が好過ぎて若衆づくりが似合わず、色気不足で水っぽい。
 術譲りは、松江の仙素道人が気の毒。なんとかサマにしているが役違い。芝翫の児雷也は筋を通しただけ。
 お目当ての藤橋のだんまりは、まず藤橋の橋の道具が不鮮明、橋か道か分からない。
 ここに芝翫の児雷也、松緑の山賊夜叉五郎、福之助の高砂勇美之助と並ぶと、いかにもアンバランス。ここは三枚看板が揃ってこそのだんまりだろう。むろん三人の正体不明なのはいうまでもない。これに黒の着付けの年増姿の綱手が絡むが、これも原作にはない付け足し。もう少し丁寧な台本と演出が欲しい。それに芝翫の児雷也が、お定まりの紫縮緬の置き袱紗、紫地に縫い取りの着付け着流し、天紅の手紙を読みながらの引込みが見られなかったのにはがっかりした。むろん百日鬘、四天姿の引込みも立派でいいが、それまでの姿と変わり映えがしない。
 昼の部の最後は左團次急逝で「夕顔棚」が撞き変わっての清元舞踊「扇獅子」。久しぶりの福助の元気な姿が見られたのはいいが、壱太郎、児太郎、米吉、新悟、種之助の芸者五人が揃って、赤毛の毛ぶりを延々と見せるのは閉口。目が廻る。それにこれだけの人材が揃いながら、ほとんど全員が三姫を体験していないのに不安を感じる。歌右衛門が「道成寺」を踊ったのは十代であったことを思えば、将来の歌舞伎の立女形の修行はどうなるのだろうか。観客の人気は、宝塚は男役、歌舞伎は女形次第だというが、このまま行けば次代の人気女形は出るのだろうか。その機会を作るのは焦眉の急であることを思った。 

今月の芝居に戻る


『渡辺保の歌舞伎劇評』