芝翫の南与兵衛
芝翫の「引窓」の南与兵衛が、この人近来の大出来である。
まず竹「人の出世の時知れず」で花道へ出たところの気組み。花道中ほどで本舞台へ気を掛けて、先を歩く平岡丹平、三原伝造に追いつく具合。十分に気が入っている。この出で、それまで沈んでいた舞台が一遍に息を吹き返した。
二人を母の隠居所へ案内する。普通は舞台下手へ入れるが、芝翫は屋体の奥へ入れ、門口をイソイソ開けて、気を取り直しての「只今立ち帰った」と時代になる。ここは少しあざとい。二代目鴈治郎ほど大袈裟ではないが。
それからの母とお早への喜びの芝居はリアルでいい。二人侍との応対も手抜かりがない。二人を送り出してのお早とのやり取りは、たとえば磨いていた十手で思わず下を叩いて、慌ててその先端をプッと吹く具合、全て地芸で持ち切っていて巧い。上手の縁端へ出て体の塵を払いながら、手水鉢に気付き、水鏡に写して濡髪の姿に気付きプッと吹いてから、お早と絡んでの三回の見得。今度の芝翫第一の上出来は、ここらの大間な動き、キッパリとしてしかも軽く、軽くしながら描線の太さ、強さである。世話物だからとかくリアルに流れ勝ちになるところを、それでも義太夫狂言だからキッチリと動いて大きく時代に見せたのがいい。ここらの呼吸の面白さは抜群であるが、なかでも三度のきまりのうち二回目の立身で羽織を脱ぎ掛けたきまりが鮮やかでいい。ここをまず第一の出来とする。
それからお幸が割って入って、人相書の件になる。人相書を観客に見せようとするのは余計だが、「お買いなされたいとな」といってお幸をジッと二度三度と見詰める間のタップリしているのがよく、ジリジリと運んで行って、ここぞというところで引き絞った弓矢の乾坤一擲、向こうを見て「アッ」と驚く具合、濡髪こそ母の実子と気付く芝居が、楷書でたっぶり、大きくていい。大いに堪能した。
「母者人、なぜものをお隠しなされまする」になるが、ここはせりふの調子にもう一つのところがあって、「丸腰なれば八幡の町人」と砕けるところもワッという訳にはいかなかった。芝翫唯一の問題はせりふ廻し。ここだけではなく「狐川を左に取り右へ廻って山越えに」も、立身裏向きで二階へ掛けていうが、そんな動きよりもせりふを巧く聞かせて欲しい。全体に調子を張り過ぎて前後の時代と世話の変化にも工夫が足りない。
木戸を閉めて外へ出てから花道七三に行き、左足を踏み出して東へ掛かったところもきっぱりしていい。その後本舞台へ戻って袴の裾を取っての引込みは一通り。
二度目の出があって、濡髪の手を取っての幕切れは爽やかでいい。ことに「残る一つは」を受けての「母への進上」あたりに情愛が滲んで十分の出来である。
以上、今度の芝翫の上出来は、第一にその時代な大間のゆったりした芝居運び、第二にそのたっぷりした動き、第三に地芸の巧さ、第四に熱っぽい心持の表現。以上四点である。
さてこの与兵衛に対して周囲が冴えない。それでも一番無難なのは高麗蔵のお早。裾を引いてかつての傾城都の色香を残した艶っぽさもあり、過不足のない出来ではあるが。
錦之助の濡髪長五郎は、花道七三の確かにここという出も、サラサラとして無雑作で思い入れが足りず。一体に突っ込みが足りない。わずかに幕切れの与兵衛と手を取り合っての爽やかさがいい。前半の「同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと」など、母に真相をいえぬ苦しさ、運命的な過ちの悔恨と二重三重の苦悩が出ない。後半の「剃りやんす、落ちやんす」の決心の情から、一転母にこれでは「未来に御座る十次兵衛殿に済みますまいがな」と決心を迫るところまで、いずれも突込みが足りない。思い入れ、ハラともに薄いからである。先月歌舞伎座の「鮓屋」の弥助の大当りを思えば、この役はこの人のものではないのかも知れない。
梅花のお幸は、「郷代官」の奥様の格が足りないのは是非ないとしても、その奥様が夫の死後零落していること、しかも後妻であるという複雑さが出ないところが困る。梅花はただ段取り通りサラサラとやっているが、これでは思い入れも足りず、舞台の人間模様も浮かばない。
与兵衛の出までの舞台が沈んでいるというのは、この三人の低調なためである。与兵衛の出から竹本の床が変わって東太夫、長一郎になり、芝翫の好演なのに残念である。
松江の平岡丹平はせりふが現代語調過ぎる。彦三郎の三原伝造はさすがに明晰でいい。
この「引窓」の前に宗之助の解説。「引窓」の仕掛けを見せたり、人間関係を説明しているのは分り易い。歌舞伎の舞台機構や表現術の説明も大事だが、なによりも初心者には物語、人物を呑み込ませるのが芝居を理解する早道だからである。
『渡辺保の歌舞伎劇評』