異色の夏芝居
猿之助が抜けて、扇雀を別格に、幸四郎、中車、勘九郎、獅童らが一致協力しての夏芝居。第一部は博徒の清水の次郎長、第二部は火消しの新門辰五郎、第三部は「水滸伝」の中国の義賊林冲とアウトロー揃い。異色の色気抜きの狂言建てである。折角の若手揃いの勉強芝居でもあれば、古典の一二本、色っぽい芝居があってもいい様な気がする。
第一部はまず谷屋充が新国劇のために書いた「次郎長外伝 裸道中」。大場正昭演出である。
緒川の勝五郎が好きな博奕で負けが込んで、女房みきとの貧乏暮らし。そこへ十年前に世話になった親分清水の次郎長が、国を追われてやって来る。病気がちの女房お蝶をはじめ、子分の大政小政を含めて一行十人余り。勝五郎は何とかしてもてなしたいが、酒一滴、飯一膳はむろんお茶や座布団にもこと欠くありさま。ついに女房が身を売る決心をする。しかしそれと察した次郎長は、裸になって一夜を過ごすという人情喜劇である。
勝五郎が獅童、女房が七之助、次郎長が彌十郎、お蝶が高麗蔵、大政が男女蔵、小政が橋之助という顔ぶれで、前後三場四十九分という、一日の序開きにはふさわしい短編である。獅童と七之助が今風のタッチで笑わせるが、新国劇の台本だからどこか歌舞伎の世話物らしくない。どこがどうというわけではないが、全体に大衆時代劇という感覚である。微妙なところだが感覚の違いは争えない。歌舞伎の世話物らしい細密なリアルさ、芸の匂いが欲しい。
彌十郎の次郎長は、博徒の親分らしい恰幅がいい。
続いて十七代目勘三郎の当たり芸の一つであった、萩原雪夫の作の舞踊「大江山酒呑童子」。今改めて見ても二代目勘祖の振付、六左衛門の作曲ともにいい。今度は勘九郎の酒呑童子に、長唄は杵屋直吉、巳太郎である。「裸道中」の後のせいか、今月これ一番という歌舞伎の味わいの濃さである。
勘九郎二度目の酒呑童子は、花道七三へせり上がっての一さし、天をあおいだ目遣い、踊りの手振り、口跡、十七代目を彷彿とさせる出来である。声の出し方、本舞台へ来てのイキのきわどさ、もう少し抑えた方がいいと思うところもあるが、こってりとした味わいで大いに堪能させた。
後ジテの鬼の正体を現してからは、酔態を含めてやや滑稽味が濃く、ここはもう一つ凄味に徹してで行く方が面白いし、前後の対照も色濃くなる。
扇雀の頼光が、その柔らかさ、その艶やかさで逸品。この人で舞台が締まる。
幸四郎の平井保昌、四天王が巳之助、橋之助、虎之介、染五郎。間狂言の鬼に捕らわれた女たち――七之助の姫、新悟の扇折り、児太郎の里の女と揃って、贅沢な舞台になった。
第二部は、真山青果の「新門辰五郎」。
かつての前進座の名舞台――翫右衛門の辰五郎、長十郎の絵馬屋、菊之丞の会津の小鉄、国太郎のお六、芳三郎の八重菊――を忘れられないせいか、今月の舞台は幸四郎の辰五郎をはじめ、歌六の絵馬屋、勘九郎の小鉄、新悟のお六、七之助の八重菊まで、彼らが一体なにを考えて、なにをしようとしているかがよく分からなかった。たとえば大詰で辰五郎が一人舞台になって、黙って紙を持って筆を執る。なにをしようとしているかが分からない。翫右衛門だとあゝこれは死ぬ気だなと分かって、自分が死んで事件を解決しようとしていることが分った。前後の芝居の流れが鮮明だったからである。しかし幸四郎だと前後の脈絡がハッキリしない上に、前の幕の歌六の絵馬屋の批判も効いていない。だから辰五郎の死ぬ覚悟が分らないのである。
辰五郎ばかりではない。絵馬屋にしても小鉄にしてもいっている言葉の表面は分っても、言葉の背後の意味が分からない。たとえば小鉄は頭を丸めることでどういう解決を望んでいるのかが見えて来ない。なにをどう詫びたいのかが分り難い。
時代のせいだろうか、私の耳が悪いのか。
もっともそういう分り難さを除けば、幸四郎を筆頭にした一座のチームワークはよく取れている。
幸四郎の辰五郎は本当をいえばこの人のニンではない。それを別にすれば調子のいい人だけに青果の作品は打って付けなのに残念。
対する歌六の絵馬屋は、辰五郎への愛情から出る正論が、とかく意地悪に聞こえるのが欠点。ここでも芝居が足りない。
足りないといえば、獅童の山井実久も得体が知れぬ。比較的平均点を取っているのは、七之助の八重菊、新悟のお六だが、これとても芳三郎と国太郎の虚々実々、裏の裏まで分かっての真剣勝負、同時に江戸と京都の二人の女の人生が出たのに比べれば、そこまで行っていないのは是非なしか。
「新門辰五郎」の後が、巳之助、児太郎の舞踊「団子売」。短い踊りなのに、これが一服の清涼剤になって胸がスーッとした。ことに巳之助は、その端正さ、キッチリした正確さがよく、わずか十数分の踊りで一気に溜飲が下がった。竹本は東太夫、淳一郎ほか。
第三部は「新・水滸伝」。
横内謙介作・演出、杉原邦生演出、猿翁のスーパーバイザーである。
第一幕は、林冲(隼人)が、かつての教官でありながら腐敗した政権の中枢部にあって悪政を敷く高俅(浅野和之)とその側近張進(歌之助)、祝彪(青虎)ら悪人たちを打倒しようとして、捕えられ獄に下る。林冲とその仲間王英(猿弥)、お夜叉(壱太郎)ら善人たちを描く。
第二幕は、残された林冲の仲間が結集し、女親分姫虎(笑三郎)らが梁山泊の頭領晁蓋(中車)や副将公孫勝(門之助)の一味になって、林冲たちを救い出す。林冲は義賊となって高俅一味を滅ぼして正義を実現する。
第一幕は筋を通すのが精一杯。断片的なシーンが繋がる計りで平板かつ説明的である。たしかに視覚的に工夫されていて、観客を飽きさせないテンポもないとはいえないが、肝腎の人間――その人間の直面している状況が書けていない。歌舞伎の特質は、様式的な造形美にもあるが、その一方で人間の個性の造形と状況でもある。歌舞伎はスター・システムであり、そのスター――、たとえば亀屋忠兵衛が蔵屋敷へ金を届けようか、恋人の梅川に逢いに行こうかという選択に迷う状況を生きる姿を見せる演劇なのである。その人間の姿、人間の状況がここには希薄。そのために芝居としての盛り上がりに乏しい。
第二幕になるとさすがに印象的なシーンが二つ出て来る。
一つは、林冲の教え子の若き兵士彭玘(團子)が、林冲を助けようとしてかえって敵のために深手を負い、林冲の腕の中で死ぬ場面。隼人の林冲は全編にわたって活躍する役だし、その分力演でもあるが、芝居としては愛弟子の最後をみとって号泣するこの場が一番。自分の正義を貫こうとして弟子を殺してしまった悔恨が芝居になっている。対する弟子の團子もいい。第一幕の幕開きから演技が新鮮で、今までの色に染まらぬ透明感があり、迫力があっていい。この作品一番のヒット。
もう一つは、王英(猿弥)が敵軍の女剣士青華(笑也)に恋を告白するシーン。武骨で恋に似合わぬ男が、ひたすら彼女の幸せを願い、それとなく自分の想いを告白してしまうところがいい。猿弥の老練さ、それとないユーモアが巧し、男勝りの青華が切って嵌めた様な役で、その対照が面白い。
以上二つのシーンが芝居になっている。
その他の役では、中車の頭領、浅野和之の悪臣、笑三郎の女親分がよく、若いのに悪党を巧く演じている、歌之助、青虎が目立つ。
『渡辺保の歌舞伎劇評』