快作「山の段」
全員初役という「山の段」が、予想外の力演で、新しい感覚の「山の段」の世界を開いた。
まず第一の出来は松緑の大判事。難しいこの大役に、しかも初役というのでどうなるかと心配したが予想外の力一杯の出来で、いい大判事である。
東の仮花道へ出たところ、思いの外に恰幅があり、そのスケールがまず何よりである。続いてその面魂、古武士の様な古怪さ、力強さ、頑強さ、ビクともせずにいる風格がいい。それに人間的な感情の抑え方がいい。細部をいえばむろん未完成なところもあるが、なによりもその粗削りな爽快さがいい。せりふもいつもの悪い癖がほとんどなく義太夫味こそ薄いもののキッチリと楷書の筆太の芸である。
この大判事は、いつもはとかくダレ安い後半がいい。「千秋万歳の」と苦しい声を振り絞った後の述懐。雛鳥の首に向い、かつは定高に向かって「これほど思いつめた嫁、なんの入鹿に従おう」と叫ぶ様な絶唱。抑えに抑えた怒りが爆発する。その怒涛の如き感情が、他の人の大判事にはない激しさで涙を誘う。それに次いで定高に手を突いて、「よくこそお手に掛けられし、過分に存ずる定高殿」。通り一遍の儀礼でも挨拶でもない。これまで定高には決して手を下げなかった男が、恩讐を超えて手を突き、頭を下げる。その人生の転換がここに鮮明だった。この勇猛豪快の崩壊があって、本当の人間性が現れ、ドラマが生きる。そういうこれまでとは違ったドラマを見る思いがした、というこれまでの大判事とは違う人間像を発見したところに、松緑の功績があり、手探りながら必死でこの人間像を洗い出したゆえの結果がある。
両花道の出で変わっているのは、「今一時が互いの背越し」で普通はほとんど体の向きを変えずに芝居をするのに、今度の松緑は揚幕の方へ真向かいになる。それが古風で大きく、筆太で面白い。いかにも義太夫狂言の古雅な味わいである。それからグッと廻るので動きの描線も大きくなる。
本舞台へ来て竹「庵の内へ別れ入る」で正面でキッと二人できまるのも面白い。
大判事二度目の出には、中合引きを遣って大きく見せのも立派でいい。総じて今度の松緑は、形容のスケールに気を遣っているのがいい。
「倅が首切る刀とは五十年来知らざりし」はさすがに人生の積み重ねがいるから、まだ情が足りない。味が出るのはこれからだろう。
「命も散り散り、日も散り散り」は、多少まだ時蔵の定高とイキが合っていないところもあったが、このあとの竹「刀からりと落ちたる障子」の手真似の思い入れを面白く見せたのには一驚した。初代吉右衛門と三代目時蔵でさえ、あるいは二代目松緑と三代目左団次でさえ手を焼いたところをである。なぜそこが出来たか。その秘密はこうである。それは雛鳥の首を切ったと定高が説明、驚く大判事。これで一段。続いて久我助切腹と聞いた定高の仰天。これでもう一段。二段にハッキリ分けて対照的にキチンと分けて形になっているからである。とかく流れる芝居をここまで造形したのは、松緑、時蔵二人の手柄。これで面白くなったのである。今度の松緑には、こういうところを自分で作ったような跡が仄見える。
「桜の林の大島台」からの二人の和解も鮮明。その上に前述の怒りの爆発「過分に存ずる」が来るので盛り上がる。
この松緑に対して時蔵の定高も、新しい人間像を発掘した。この役はとかく男勝りで強いのが特徴。三代目時蔵、三代目左団次、歌右衛門、玉三郎。そうでないと面白くない。ところが今度の時蔵は優しい。優しさの内に情愛で強さを作った。普通の女が、母親であるがゆえに強くなった。そういう矛盾を抱えた女になった。それが松緑の古武士の様な頑固一徹の大判事とぶつかるから面白い。今の人には受け取りやすいだろう。それがすなわち現代性である。
松緑、時蔵に次ぐ出来は、梅枝の雛鳥。今すぐにも歌舞伎座の大舞台でも通用する出来である。前半の顔を傾けて俯いて居る具合の、しっとりとしてしかも輝く美しさ。絵に描く様な雛鳥である。
ただクドキの「鵲の橋はないか」で辺りを探すのは間違い。これは七夕の夜の形容であって、「鵲の橋」が春の昼下がりの吉野川にある筈がない。ハラが足りないからこういう間違いが起こる。
萬太郎の久我助は、ガラが小粒なのは如何ともし難いが、芝居はしっかりしている。これから触れる序幕の小松原の場同様、恋の情感が足りない。これでは雛鳥が川へ飛び込みようがない。行儀はいいが思い入れが足りないのである。
橘太郎の小菊はほどがよく、玉朗の桔梗は一通り。いつものことだが、この二人が雛渡しで出て来て屏風の陰の雛鳥の遺骸を見てビックリするのは、生々し過ぎる。二人は当然襖越しに固唾を吞んでいる筈だから、なにもない方がいい。
今度の役者の大出来を支えたのは、床の竹本の力が大きい。ことに後半背山の幹太夫、燕太郎、妹山の谷太夫、淳一郎がいい。しばしばうっとりしたし、どれだ役者が引き立ったか知れない。
それに引き換えよくないのは大道具。何時も思うのは背山の扇面散らしと妹山の遠山は逆ではないだろうか。それに今度は滝車が雛渡しと幕切れの二回しか廻っていない上に、廻っているかどうか分からぬほど穏やかな流れ。これはウソでも激流でなければ芝居にならない。このままでは小菊が泳ぎ渡るだろう。
しかし部分的に問題があるにしても、「山の段」は大成功。問題はこの前につく二場。序幕の春日野小松原と二幕目の定高館の場である。
まず「山の段」では好成績の梅枝の雛鳥と萬太郎の久我助がよくない。見染が見染になっていない。時間がない、型がないという問題ではない。二人の気持ちが動いていないのだ。これでは「山の段」の大判事の「これほど思いつめた嫁」がウソになる。
新悟の采女の局、荒五郎の宮越玄蕃。
次の定高館は、看板には「花渡しの場」とある。本文で行けば「花渡し」が間違いであることは知り切っている。それをいまだにこの名称を使い、辻褄を合わせるために入鹿が一度花を散らした後に、もう一度替りの枝を持って来させて、それを大判事と定高に渡すという台本――戸部銀作――を使っているのは大問題だろう。国立劇場がこれ程誤った台本を何十年にわたって使っているのは許されるのだろうか。
松緑の大判事、時蔵の定高は、ここはキチンとしているし、かつ一通りである。亀蔵の入鹿は口跡がいいのがなにより。咲十郎の荒巻弥籐次。
『渡辺保の歌舞伎劇評』