歌昇の梅王丸
吉右衛門三回忌の秀山祭。今回第一の収穫は、夜の部一番目の「車引」の歌昇の梅王丸である。
吉田神社の社頭、梅王丸と桜丸が出会っての「話すことあり」「聞くことあり」の歌昇の第一声が呂の声で低く出る具合といい、さて深編笠を取って顔を見せた、その二本隈が生きて輝き、体が小柄であるにもかかわらず、歌舞伎座の広い舞台に広がるスケールの大きさである。続いて「そんなら梅王」「桜丸、来い来い来い」の花道の飛び六法の、怒涛の如き勢い。丸く屈んだ体が毬の様に弾んで、怒りの塊が転がる如く引込んで行った。いい梅王丸である。
場面が変わっての「車やらぬ」から肌脱ぎになっての元禄見得、それから「時平公の尻こぶら、二ァーッ三ッ、五六百」のせりふ廻しの意気込み、さらに廻っての逆の元禄見得まで、数々の体が回転しての動きの火を吐く勢い。荒事はこれでなければという荒業である。
二回の元禄見得はじめいくつかの見得が、形をキレイに見せ様という意識ではなく、芝居をしていると自然に形がそれらしくなって行くというのは、まさに亡き吉右衛門の骨法。それを学んだのは何よりの追善。芸統を継がなければ追善またその実を失うからである。
種之助の桜丸は、柔らか味、色気が欲しい。
歌六の時平、又五郎の松王丸、鷹之資の杉王丸、吉二郎の金棒引き。
この次が、菊之助と故人が可愛がっていた孫丑之助親子の舞踊「連獅子」。菊之助の親獅子の父子の情愛が溢れていること、抑えてしかも澄み切った芸の心境が見ものであり、丑之助また健気に応え、この父子の「連獅子」は誰よりも吉右衛門に見せたかった。間狂言は種之助と彦三郎の「宗論」。彦三郎が可笑し味を踊りに含ませた具合がいい。長唄は勝四郎、長之介。
夜の部の最後は、幸四郎初役の「一本刀」。
前半芝居の巧い人だけに茂兵衛の姿を巧く運んでいるが、後半十年の歳月でガラリと変わるのには、芸質的に線が弱い。変わり映えがしないというよりも、そうは見えないのはこの人のニンゆえ是非なしか。そのニンを考えれば、柔らか味の中に凄味を見せる工夫が欲しかった。最後の幕切れ、「十年以前櫛笄」のせりふが終わって桜の木に沿って改めて腕組みで正面を切っての幕切れは、そのための工夫だろうが、却ってわざとらしい。向こうを見て幕を切るだけのことは、この人の腕ならば十分出来る筈なのに惜しい。
雀右衛門のお蔦は、前半もう少し色気があってもいいと思うが、今度巧かったのは、茂兵衛を「ヨウヨウ駒形」と両手を挙げて送った後、三味線を弾くまでの間。この女の寂しさ、秋の夕暮れの寂寥が身に沁みた。喜多村にも歌右衛門、梅幸にも国太郎にもなかった寂しさである。それを見ていて私はこの女が一人でやけ酒を煽っているのかが分かった。辰三郎に逃げられたからであろう。こんなお蔦ははじめてである。
それには国立劇場で「山の段」の大判事という大役を勤めて、どうしても伯父さんの追善に出たいといって掛け持ちで歌舞伎座へ来る松緑の辰三郎がいいからでもある。本来ならばこの人が茂兵衛というところだが、今度は辰三郎に徹して布施川でイカさまのさいころを捨てる時の思い入れ、それからの芝居をシテに合わせて抑える細緻さ、柔軟性、それが幸四郎といい対照を作った。
序幕は吉之丞の船戸の弥八、宗之助の旅の町人、梅花、幸雀の酌婦、吉兵衛の料理人、玉雪の帳付け、とこれまでとはガラリと変わった顔触れが生きている。
二場目の渡し場も蝶十郎のイワシの北、志のぶの子守。
大詰第一場布施川は、東蔵の老船頭と錦吾の船大工と老巧二人。廣太郎の若船頭。
錦之助の波一里儀十、桂三の用心棒、高麗五郎の子分、吉三郎のもう一人の子分がさり気なく芝居をしていて巧い。
染五郎の堀下げの根吉は、もっとひねくれた陰翳が欲しい。
雀右衛門のお蔦は、大詰、白粉が濃すぎるが芝居はいい。「思い出した」というところはかつての松緑、梅幸を思い出させる出来である。
以上の夜の部に対して、昼の部の最初は「金閣寺」。
歌六の松永大膳は、夜の部の「車引」の時平の意外に生彩のないのに比べて、こちらは大いに立派。凄味は薄いものの、色気。敵役のスケール十分で、この一幕中一番の出来。
対する勘九郎の此下東吉は、前半爽やかさを欠いていて中途半端。この役は初代吉右衛門の愛嬌とコクを見せる行き方と、寿海の様に爽やかさを売る行き方と二派あるが、勘九郎はどっちつかず。出だしは吉右衛門流で段々寿海風になる。血筋から行けば吉右衛門流であるべきだが、ニンからいえば寿海派。中村屋流を離れて自分のニンに徹するべきだろう。そのせいか大膳との碁立てが弾まず面白くない。
米吉の雪姫は、障子が開いた時にキレイで可愛く娘然としている。御承知の通りこの役は三姫の中でただ一人の人妻、ことには浮世風呂で働いていた女。それが性根だが、米吉だとそうは見えないのが欠点。ただし前半していることはよく研究していて、二重上の慶寿院、舞台上手にいる筈の夫直信の、それぞれの方向に思い入れをして、二つに迷うところをキッパリと仕分けている。その結果、有名な柱に寄り掛かったポ―ズがいい。ここに大合格。
続いて大膳に連れられて庭に降り、滝を見るところは三段に変わる形がキッパリしない。
爪先鼠になる。ここは四代目雀右衛門が優れた型を残したが、他の型はとかく型が流れて面白くない。この人も芝居が流れる上に、例の井桁に腰掛けるのはある型だが、見場がよくない。それに爪先鼠で、また雪姫が動く前から桜吹雪。桜で観客の手が来たのははじめて。異常気象か。
菊之助の直信は一通り。慶寿院は福助休演につき、児太郎の代役。
ここで問題なのは歌昇の軍平。夜の部の梅王丸の大出来、体の隅々まで行き届いた神経に比べてこれはまた締まらず、赤ッ面らしさがない。これで夜が案じられたが、あの大出来。やれば出来るのに。
次が幸四郎の「土蜘」。なんで吉右衛門追善に音羽屋のものか分からず、幸四郎の土蜘も凄味がなくて平板。
又五郎の頼光、種太郎の太刀持ち、錦之助の一人武者、勘九郎、高麗蔵、歌昇の番卒。児太郎の源内後家、廣太郎、鷹之資、吉之丞、吉二郎の四天王。中では魁春の胡蝶が目を奪う。なんでもない様に踊っているが、磨き抜かれた芸である。
長唄は勝四郎、勝七郎ほか。
最後が「二条城の清正」。
白鸚の加藤清正は、祖父初代吉右衛門、父八代目幸四郎譲りの家の芸であるが、この場だけではせっかくの思い入れも行き届き兼ねる。かつて初代吉右衛門で大いに泣かせた芝居も、今は胸に届かずただ実弟を失った白鸚の胸中を思うのみ。
染五郎の秀頼は一通り。錦吾の平次がいかにも家之子らしい芝居を見せる。
『渡辺保の歌舞伎劇評』