2022年10月国立劇場 Aプロ

菊之助の覚悟

 「千本桜」のAプロは、鳥居前、渡海屋、大物浦である。
 序幕の鳥居前は、菊之助の忠信。ついに荒事にまで手を染めた菊之助にさして違和感がないのは、大進境である。しかしそれが面白いかといえば、そうもいかないところに菊之助今後の課題がある。一応隈取が顔に乗っているのは合格のしるしであるが、それでもその顔が細く見えるのは芸の幅の問題だろう。
 錦之助の義経が本役。なんということもなくやっていながらスキがない。静御前は米吉だが、これは「鮓屋」のお里の様にはいかなかった。赤姫の拵えでいながら留め袖という役の難しさだろう。していることに手落ちはないが、ただ一ヶ所、ボーッと義経を、それもリアルに直視しているのはよくない。直視しないでも観客に義経を見ていると思わせるのが時代物の芸の寸法、空間の取り方だろう。
 彦三郎の弁慶は、荒事の一面の滑稽、鷹揚、愛嬌、明晰さと揃って、今月この人「道行」の逸見藤太と共に大当たり。笹目忠太の菊市郎もいい。
 三十五分の幕間があって渡海屋になる。
 菊之助の真綱の銀平実は知盛は、すでに一度経験済み。その時は亡き吉右衛門に教わった、ということを噂に聞いて、私はなぜ菊之助が自分のニンにない知盛をやるのか、またなぜ吉右衛門が娘婿とはいえ菊之助に知盛を教えるのか分からなかった。吉右衛門はむろん菊之助も自分のニンにないことは百も承知な筈だからである。その後、吉右衛門が将来の後継者のために菊之助に教えたのだということを仄聞した。それを聞いてもなるほどと思う反面、それにしてもという気持ちを私は消すことが出来なかった。
 今度の渡海屋を見ながらも再びそのことを思わずにはいられなかった。確かに菊之助は前回よりも成長している。前回感じた違和感がほとんどなくなっている。型も吉右衛門に教わった通り正確にやっている。にもかかわらず面白くない。それは努力の有無でもなければ、巧い下手でもない。役者の身体と役の感覚の出会いの問題である。歌舞伎の恐ろしいところはここにあって、役のニンに合いさえすればたちまち世界が開けるのに、ニンに合わなければ、いくら巧くとも努力をしても世界は扉を閉ざしたまゝなのである。これは演劇としての歌舞伎の法則であって、他の古典劇たとえば能狂言にも文楽にもない法則であり、歌舞伎がその表現の基本を役者の身体そのものに置いているからに他ならない。これが同じことをやっていても菊之助が吉右衛門の銀平の面白さに及ばない理由である。渡海屋はそういう絶望のうちに幕を閉じた。
 しかし渡海屋の奥座敷を挟んで大物浦になった時、不思議なことが起こった。
 吉右衛門と同じことをやっている菊之助の知盛に全く違う人間の影が差したのである。吉右衛門の知盛は、義経に対して勿体なくも天皇に地獄の三悪道を見せた責任を追及している様に見えた。むろんそういうせりふがある訳ではない。しかし義経に向かって三悪道の惨状が語られる時に、そう見えたのである。しかし菊之助ではそうは見えなかった。それもこれも全ては父清盛の暴虐の報いだという自責の念にニュアンスの重点が移っている。清盛の暴虐はいうまでもないから今更いっても始まらない。そこで三悪道の惨状の影が薄くなるし、あくまで義経の責任を追及する知盛の怨念も消えてしまう。むろんそれはそれで一つの解釈。間違いという訳ではない。古典は絶対的な唯一無二の解釈など存在しないからである。
 これは菊之助の、吉右衛門を送った後の一つの覚悟だろう。型は教わった通りやる。しかし精一杯やればそこに自ずからその人の個性が出る。当然だろう。かくて菊之助の知盛は、微妙なところで吉右衛門とは違い、そこに別趣の面白味が出た。
 これが伝統というものか。そう思って私は亡き吉右衛門を思い、菊之助の心境を思い、そして平知盛という人間を考えた。
 このほかにも菊之助は天皇に対する態度が違う。たとえば天皇の言葉を聞く時、菊之助は深く平伏する。吉右衛門だと、この子供は安徳天皇であると同時に銀平の娘お安であり、血縁上は実の姪であった。知盛からいえば彼は公式には天皇の臣下としての中納言であり、父であり、叔父であった。吉右衛門だとそういう複雑な二重三重の関係が見えて来る。菊之助がそこまでいかないのは当たり前。それをいうのではない。菊之助がただひたすら平伏した姿に浮かぶのは、そういう複雑な関係よりも天皇に対する臣民の絶対的な服従の制度であった。これは吉右衛門とは違う発見であろう。菊之助の個性はそういうところにも出ているし、あるいはまた「昨日の敵は今日の味方」というところにも出ている。「味方」というニュアンスが強いのは菊之助の芸風のやさしさなのである。
 梅枝の典侍の局は、渡海屋はまだ一通りだが、奥座敷になって白い布を二重の下から舞台下手に向かって敷かせ、天皇はその上を歩き、例の芝居もその上でするのが変わっている。こうすると、天皇の御製を聞いての嘆きは自然と正面をきって天を仰ぐ形になりキッパリとした強い印象になる。その結果、「八大竜王」のせりふが際立って生きていい。
 錦之助の義経は、笠を掲げての引込みに格別何もしないでスーッと入りながら、それでいて一種の風情が濃い。本役のニンの強みである。彦三郎の弁慶は幕開きのお安の寝姿を跨ぐところに飄逸な味を見せて置いて、大物浦ではリアルな活歴風になる違和感がないのがいい。幕外では本舞台、東の方向、そして正面に向き直って法螺貝を三度に吹く丁寧さで余韻がある。丑之助の安徳天皇は芝居がしっかりしている。橘太郎の相模五郎が、鮓屋の弥左衛門女房とは打って変わって、テキパキと手ばしかくしていい。咲十郎の入江丹蔵。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』