2022年2月歌舞伎座 第三部

菊之助の鼠小僧

 不思議な体験だった。
 私が河竹黙阿弥の「鼠小僧」をはじめて見たのは、平成五年(一九九三年)三月の国立劇場、鼠小僧は菊五郎であった。その時は羽左衛門の与惣兵衛という傑作があったにもかかわらず、芝居としては話が散漫で面白くなかった。
 ところが今度は同じ作品なのに不思議と面白い。織田絃二、神山彰、今井豊茂補綴。私の眼が悪いのか。役者が巧くなったのか。上演台本が変わったのか。とにかく不思議である。
 どこが面白いのか。さながら不条理演劇の如く、矛盾を抱え、なにかを失った変な人間ばかりが出て来るからである。
 まず鼠小僧次郎吉。悪いと知りつつ盗みを働く。それも人のためだといい、盗んだ金を困っている人間に分け与え、それが人助けだという。たしかに一時的に助けられた人間もいるが、結局は盗んだ金と分かって、却って厳しく追及される人間が続出する。これを義賊などというのは、大きな矛盾であるこというまでもない。
 次いでその鼠小僧を見付けた辻番与惣兵衛は、鼠小僧を掴まえようにも老人の非力では所詮叶わないから殺してくれという。辻番は泥棒を捕まえる警備員である。その警備員がいくら非力だからといって、泥棒に向かって殺してくれとはなんという矛盾か。
 ここで鼠小僧が助ける刀屋新助と芸者お元もおかしい。二人は騙り取られた百両(今日の金に換算すると一両大体九万円だから、百両は九百万円という大金である)を見ず知らずの人間から貰って、平気とまではいわないが、ほとんど抵抗感がない。この世に九百万も貰ってそんな人間がいるだろうか。私には変人としか見えない。
 二幕目に既にこれだけの変人が揃っている上に、三幕目になるとさらに大勢になる。鼠小僧は平沢左膳という占い師になっている。なぜ占い師になるのか分からないが、そこへまた変人が来る。最初が芸者お元の弟三吉。これが貧乏な癖に金を受け取らない。お元が鼠小僧の与えた金が盗品だと分かって入牢しているからである。それでもどうか姉がどうなるか占って欲しいという。二番目に来たのが鼠小僧が忍び込んで百両盗んだ大名屋敷の若党曾平次。自分の主人で、組頭の娘が、鼠小僧の弟与之助に惚れて出奔。その行方を占ってくれという。最後に来たのは遊女松山。鼠小僧の恋人で、今は鳥目で目が見えない。しかし廓を抜けて鼠小僧を雪の中を探しに来た。目が見えないのによく探せたと思うが、それよりも彼女が変わっているは、女郎でありながら鼠小僧に操を立てて客に帯紐を解かないというのである。そんな女郎がいるだろうか。もっともただ一人いることはいる。黙阿弥の出世作「忍の惣太」の傾城花子。しかしこれは花子が実は男だからである。どっちにしろ松山は変人である。
 こうして見ると三吉、曾平次、松山の三人は、いずれも矛盾を抱えた変人である。しかも彼ら三人に共通しているのは、それぞれ大切な物を失っていることである。その行方を捜している。にも拘わらず見つからない。そこで占い師を頼る。私は今日まで鼠小僧がなぜ占い師に化けているのか分からなかった。しかし彼は他人の運勢―――その失くしたものを探す仕事をしながら、実は社会の裏面を占っていた。しかしそれは他人を占うことであると同時に、自分自身の運勢を占うことになった。これは何たる皮肉であろうか。占い師は実は占われ師か。しかしそれを悟った時に鼠小僧は自首する。それがまた矛盾だが、それはいい。この構図は人間は大抵なにかを無くした者であり、世界は皮肉に包まれて、矛盾を避けることが出来ない物だということである。黙阿弥はそのことがいいたかったのだろう。幕末の江戸で、彼は百年後のベケットやイヨネスコやカフカの仕事を先取りしていたのかも知れない。私が面白かったのは、舞台がそう見えたからであった。
 どこまで黙阿弥が意識していたかは知らず、彼の世間を見る目の皮肉さはよく分かる。それによって社会の不条理、人間の運命の皮肉さもよく分かる。それは見る者に自分がこういう社会に生きているのだということを考えさせるだろう。人間が常に何かを失い、なにかを探し続け、そして運命の罠に堕ちる存在なのだというつぶやきは、現代の観客の誰にでも深い意味を持つだろう。
 しかし前回には分からなかったことが、今度はなぜかくも明瞭になったのか。それを明瞭にした理由は、第一に菊之助の鼠小僧が、菊五郎のそれと違って人情に傾いていない、つまりドライな演技だからである。黙阿弥の鼠小僧は、ズブズブの人情噺、菊五郎には何よりもそれに惹かれて行くものがあったが、菊之助にはそれがない。それがないから鼠小僧の矛盾を抱えたまま生きる人間像が浮かび上がった。矛盾を嘆くのではなく、矛盾にこそ生きる。矛盾があるからこそ生きている。それが「現代」なのである。
 第二の理由は、現代という時代のせいだろう。近代のなんでも合理的に辻褄を合わせて主体的に生きて来た時代から、現代はなんという不毛不条理に満ちていることか。しかも我々は自分一人の力ではどうにもならない。三吉や曾平次や松山ばかりでなく我々は占いに頼りたいと思う程、不安定で不安の中に生きている。新型コロナはその象徴だろう。だからこそ作者には思いも掛けなかった見え方をするのだし、私たちはそうしか見えない。
 以上二つの理由は、菊之助だけにいえることではない。共演者はみんな多かれ少なかれそうなっている。歌六の与惣兵衛でさえ菊之助に通じる現代性を持っている。それがいいことだと私は思う。
 雀右衛門の松山は、これも前回の田之助とは違ってドライに生きていい。
 巳之助の刀屋新助、新悟の芸者お元、丑之助の三吉、米吉のおみつ、坂東亀蔵の与之助。
 敵役陣は吉之丞の石垣伴作はじめ、菊市郎の平岡権内、吉兵衛の駒田久六、咲十郎の村井伝蔵と手揃いであるが、橘三郎の肝心の鼠小僧の養母お熊は台本のせいもあるが、もう一杯悪が効いてもいい。橘太郎の左膳の弟子佐内。権十郎は本役が曾平次だが、彦三郎休演につき二役で早瀬弥十郎もやっている。
 この「鼠小僧」の前に珍しく長唄の舞踊「鬼次拍子舞」。長田太郎は芝翫のところ休演。代役は彦三郎だったが、私の見た四日にはその彦三郎も休演。坂東亀蔵の代役だった。よって評するのは気の毒。
 松の前は雀右衛門でその古風な美しさが新鮮。長唄の鳥羽屋里長がこの古曲のよさを聞かせる、三味線は杵屋五七郎ほか。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』