2022年2月歌舞伎座 第二部

仁左衛門一世一代の知盛

「義経千本桜」二段目の渡海屋銀平実は新中納言知盛。仁左衛門の当たり芸である。その一世一代の仕納め。今日の歌舞伎界を振り返れば、戦前生まれの大看板は白鸚、菊五郎、吉右衛門、仁左衛門の四枚。そのうち吉右衛門逝き、白鸚は新作が得意、菊五郎は世話物師となって、唯一義太夫狂言の時代物は仁左衛門の独壇場。その一世一代となれば、そぞろに時代の転変を思わずにはいなれない。
 普通は一世一代といえば、そこに枯淡の味わいを想像するが、仁左衛門は若々しく、美しさ零れるばかり。善尽くし美尽くしての円熟ぶりである。その洗練、ここまでするのかと思う程である。たとえば大詰大物の浦、岩組へ知盛が上る。その道は平舞台から上へジグザグに幾巡りか。手負いの知盛は、最初の平舞台の立ち姿から、その曲がり角で一々止まって、ツケこそ入れないがきまって見せる。その白地の大口に白糸縅の鎧を血染めにした姿が美しく、その度に見る角度で変わること絵の如くである。ようやく錨に辿り着く迄の、姿の変化を十分に堪能させる。そこに仁左衛門の美意識が自然に表れているといっていい。
 はじめから触れよう。
 最初の波音に浜唄をかぶせて、花道から棒縞の着付けに厚司を羽織って、「渡海屋」の唐傘を差しての出。その颯爽たる出が一陣の薫風を巻き起こして場内を圧倒する。
 内へ入っての、相模五郎と入江丹蔵とのせりふの遣り取りの歯切れのよさ。はじめはあくまで下手に出て世話物の、市井の侠客肌の達引き、それが「もう料簡がならんぜよ」、「旅人を脅すのか」の突っ込みの豪快さ。「お匿い申したらなんとする」はこの人独特で下手向きで、暖簾口に聞かせる。後に義経主従が暖簾口から出るからである。スッキリしながら海の荒くれ男というイキをキレイに出して、いつもながら胸がすくよさである。
 二度目の出。例の如く白装束になって障子屋体から出る。出たところでそのまゝじかに平舞台に降りて下手へ行く。安徳天皇を「八十七代の」と崇めての長ぜりふの抑揚、いい廻しの面白さ。「嬉しやな。喜ばしやな」といったあと、竹「勇気の顔色」で右手に持った軍扇で向こうを指し、振り返って天皇を見て、左手に持ち替えた軍扇を膝に突き、右手を扇の下に添えてのツケ入りの大見得。大見得はもう一度あって、戦のサマを描く。軍扇で山形、軽く幽霊手を形容し、右手で向こうを指し、左手を大きく後ろへ廻して突くツケ入りの見得である。この二つの見得がこの間のヤマである。その豪快にして優美、動き大きさが印象に残る。この二つ目の見得からノリ地のせりふになるのも面白い。あとは「田村」の一節を舞って、天皇に別れを告げ、手早く花道へ、七三で左手に薙刀を掻い込み、右手を横に高く翳して見得。竹「真砂を蹴立てて」で入る。
 奥座敷の典侍の局の件が済んで浪幕を振り落とすと岩組。知盛三度目の出。花道から大勢と立ち廻って、すぐ本舞台へ来てもう一度七三へ戻っての、薙刀を突いてのツケ入りの見得が凄愴を極める。さらに本舞台へ戻って薙刀を担いでのツケ入りの大見得。その後に上方型の、喉の渇きを癒すために自分の体に突き刺さった矢を抜いて矢尻の血を吸うこといつもの通り。芝居はあくまでリアルに軽く、それでいてきまりきまりは強くキッカリと、いずれも絵の様な美しさを印象に残すのが今度の舞台の特徴。自然な芸の心境である。
 一渉り立ち廻りが終わって、「天皇はいずれにましますぞ、お乳の人、典侍の局、我が君」と呼ぶのも痛切な叫び。ここへ義経とその家来の四天王が安徳天皇と典侍の局を連れて出る。知盛は黒御簾の謡、大小の鼓で四天王と立ち廻りになり、これを払って左膝を突いて薙刀を右へ流してツケ入りの見得。前回の仁左衛門はこれから先の知盛の心持の変化、義経に向かって行った知盛が回心するプロセスが鮮明であったが、今回はそのプロセスはサラサラと過ぎて、カドカドの形が際立って印象深い。すなわち竹「髪逆立ち」のきまりから「アラ無念、口惜しやな」へ、そこからの「天命、天命」の諦観へがアッサリ済む。「天命」が唐突にさえ感じられるほどである。
 そこへ弁慶が出る。左團次の弁慶が立身、左手を横へ伸ばし、右手の数珠を振り上げ、これに対して知盛が座って薙刀を流して上下二人のツケ入りのお定まりの見得になる。
 「生き替わり死に替わり」の裏見得があって「三悪道」になる。今度の「三悪道」は前回とはまた違って見えた。むろんやっていることは同じだが印象は大分違う。もともと仁左衛門のこの件は、観客に安徳天皇はじめ平家一門の舐めた地獄の苦しみを、さながらその場にいるかの様に語るというやり方であった。それは能の「小原御幸」を見ても正しい。しかし今度はその印象がさらに強くなって、我々が見ていて、一枚一枚の戦争画に溶け込んでその体験を共にしているという印象が強くなった。これは知盛の語り手としての位置がハッキリし、同時にその分だけ語られる風景がリアルさと衝撃を増したからであろう。これでこそ作意が生きる。「千本桜」の作者がわざわざ大物の浦に知盛が生きていたという設定を作った意図は、舞台の上で戦争をリアルに再現しようというところにあったからである。
 以上、仁左衛門の今回の知盛は、その芸の色気、その艶、そのあざやかさ、その三悪道の解釈と表現、見事な一世一代である。
 時蔵の義経は、渡海屋で暖簾口から出たところの憂いのハラ、旅の落魄の哀愁共に十分で心に響くいい義経である。ことに大詰になって終始、知盛や典侍の局や天皇の芝居を受けながら自分の芝居をしているところがいい。この幕、仁左衛門に次ぐ出来である。
 左團次の弁慶は渡海屋の出はカット。大物の浦だけだが、さすがに仁左衛門と上下の見得になったところは、大きくきまって見事な二枚の錦絵。淡彩でいながら舞台を締めている。
 孝太郎の典侍の局は、前回よりも格段に進歩して堂々たる出来栄え。ことに義経一行を送り出して平舞台真ん中に立ち、「とこういう内もう日暮れ、ドレ御灯しなどあぎょうわいなァ」というせりふ一つで、舞台を世話場の明るさから時代物の暗い世界へ暗転させたのには驚いた。そればかりでなく、敷皮を敷いただけで他には何もせずに渡海屋の女房から天皇のお乳の人になったのも偉い。
 渡海屋の奥になって、二重から降りるところは安徳天皇を他の女官に抱かせ、後ろから桧扇を貴人傘にして差し掛けたのは風情があっていい。その後も桧扇を巧く使っている。大物の浦の自害は、いつも短いカット版だが、今度はその短い中で局の情愛、天皇家の宿命を明確にしたのには、これも驚いた。
 安徳天皇は小川大晴、せりふ、芝居共にしっかりしている。
 以上「千本桜」の前に、梅枝の十郎、萬太郎の五郎、千之助の静御前で長唄の舞踊「娘七種」。梅枝の十郎は珍しく抜き衣紋が似合い、萬太郎の五郎は小柄な体の不利をイキで力を表現している。驚いたのは千之助の静御前。ついこの間まで子役と思っていたのに、いつの間にか立派な一人前の女形。この若手三人で古風な踊りが意外にも面白くなった。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』