2022年3月歌舞伎座 第一部・第三部

宙乗り二題

 第二部の「河内山」と「芝浜」を挟んで、その前に第一部、猿之助の「新・三国志――関羽編」、後に第三部、芝翫、魁春、雀右衛門の「輝虎配膳」と幸四郎の「石川五右衛門」。この両方に宙乗りがあるから、題して「宙乗り二題」。
 「新・三国志」は横内謙介のかつての台本をさらに今回第一幕一時間十分、第二幕一時間に手際よくまとめて、一場ごとに目先が変わってあきさせない。戦国大絵巻、大スペクタクルである。
 序幕の玄徳(笑也)、関羽(猿之助)、張飛(中車)三人の桃園の契りから始まって、蜀建国までの、魏の曹操(浅野和之)との闘い、諸葛孔明(弘太郎改め青虎)を味方に付けての有名な赤壁の戦争、その一方の呉の孫権(中村福之助)一族、その母呉国太(門之助)、妹で後に玄徳と政略結婚する香渓(右近)、参謀陸遜(猿弥)との争いを縦糸に描き、横糸には玄徳が実は女で、関羽と心を通じているという奇想天外の着想を描いている。それが第一幕。二幕目になると、張飛が戦死、関羽自ら敵に捕らわれた人質の身替りになって捕虜になり敵陣へ乗り込んでの刑死。その死しての魂が中有に飛んで宙乗りになるという大仕掛けである。
 これだけの中味を前後二時間余りで見せるのだから仕方がないが、もう一歩人間としてのドラマが掘り下げられれば、なお面白くなっただろうに残念である。
 猿之助の関羽が立派でもあり巧く、中車の冒頭の語り手と張飛の二役が個性にはまって面白い。右近はキレイなところを見せ、門之助の女傑ぶりと、それぞれが生きている。ことに若い人たちが歌舞伎古典と違って自由に演じて違和感がない。まずは大成功である。
 後の第三部の「輝虎配膳」はご承知の通り近松門左衛門の「信州川中島合戦」の三段目の口である。つまりドラマの冒頭であり本当のドラマはここではなくその切場の越路の死にある。老母越路が戦国の戦火の中に生きた女の一生を見せる大芝居。さすが近松と思わせるドラマなのに、その発端だけを見せるのはいつ見ても物足りない。中途半端。歌舞伎は早くこういう迷路から抜け出して、ドラマとしても一貫性を見せなければ生き残れないだろう。
 芝翫の輝虎は、こういう台本だから仕方がないともいえるが、一つ一つの型に観客の興味を引くような工夫が欲しい。それでなくともとかく気持ちがバラバラになり勝ちなところを形の面白さで繋いでいく工夫が必要なのである。
 雀右衛門の勘助女房お勝は芝居がごく淡彩で物足りない。すでに母越路が輝虎の刃の下に身を投げ出して死のうとしている切迫した場面で、そこへ飛び込み、あまつさえ口が不自由のために琴を弾いて輝虎の怒りを収めようとする決死の覚悟、緊迫感が乏しい。こういう台本でも歌右衛門のお勝が過剰な程の大車輪の狂熱を持っていたのを思えば、やり方一つなのだと思う。
 魁春の越路は、この人に老婆の役は気の毒である。この役は本来もっと立役の様な手強さ、憎たらしい程の突っ込みがいる。すでに触れた様にその憎たらしい老婆が切り場でガラリと変わるから面白いので、そこが近松の狙いでもある。それも前場だけとはいえ、人のいいお婆さんでは困る。それでもさすがに魁春、上品さだけで持たしている。
 幸四郎の直江山城守は気がない。越路に小袖を拒否されても何の反応もないのは困る。孝太郎の唐衣は、お勝に対して自分が越路の娘で、兄嫁への遠慮のがあるのがさすが。ただ幕切れの引張の見得は気張り過ぎである。
 この次が幸四郎の「石川五右衛門」。吉右衛門がやった時の台本(戸部銀作)であるが、これもよくない。石川五右衛門物の狂言数種からのいいとこ取りだからである。前半に五右衛門の実父次左衛門を出して置きながら、肝心の「壬生村」は門口だけにカットし、それに「葛籠抜け」をつなげて宙乗りを見せ、挙句の果てに「山門」を付けるという継ぎ接ぎだらけ。いくら歌舞伎が御都合主義だといってもこれでは一貫性がなさ過ぎて五右衛門の人間像は摑まえ難い。
 「輝虎配膳」といい、これといい、歌舞伎はまずドラマとしての一貫性をきちんとしなければ、現代人にとっての古典劇足り得ないだろう。
 序幕第一場大手並木松原は、錦吾の次左衛門を狂言廻しに遣って、大谷桂三の呉羽中納言の行列が五右衛門の手下に襲われるところ。第二場の壬生村が呉羽中納言に化けた幸四郎の五右衛門が、錦之助の此下藤吉の行列と擦れ違うところ。幸四郎の五右衛門は、呉羽中納言としてはいいが、五右衛門らしい凄味がないのは、そのニンゆえに是非なし。
 この第三部で見ものは、対する錦之助の此下藤吉のよさである。白地の着付けに黒地の長裃、そのニンといい、姿といい、味わいといい、まことに近来にないはまり役。今月仁左衛門の河内山に次ぐ見ものはこれである。
 二幕目の足利館奥殿も、この藤吉がいいので幸四郎の五右衛門との二人の出会いの面白さが生きている。幸四郎の五右衛門も宙乗りではじめてキッとした凄味が出た。三代目延若の五右衛門の時は、この葛籠抜けは奥庭でなく御殿だった様に思うが、奥庭だと空間的に締まりがないし、今では「葛籠負うたが可笑しいか」の洒落も分かり難いだろう。
 最後に「山門」。ここも幸四郎の五右衛門と錦之助の此下藤吉の好対照で面白くなった。もう一湯がきしてこの二人で丁寧な演出の再演を見たい。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』