2022年5月歌舞伎座

三年ぶりの團菊祭

 コロナ禍で中止になっていた毎年五月恒例の團菊祭が、三年ぶりに復活した。そのせいか、海老蔵の久しぶりの歌舞伎座出演のせいか、いつもと違って感染防止のための二対一で席を空ける方針を取りながらも一階の後ろまでぎっしり詰まった超満員。その盛況ぶりに驚いた。
 第一部の最初が「金閣寺」。松緑二度目の松永大膳は、御簾が上がったところ化粧が薄く、せりふが大声なのはいいとしても、せりふ廻しにいつもの悪い癖が出て輪郭が曖昧。この人独特の線の太さが出ていないのは残念である。ただ雪姫と二人っきりになったところで凄味と共に色気が出て来たのはいい。
 此下東吉は愛之助初役。ニンにある役の上さぞ持ち前の爽やかさだろうと思いのほかに振わず平凡。十河軍平に刀を突き付けられての花道の出は、小田春永の家臣でありながら松永大膳に降参して来たという趣が見えない。ここは誰でも無腰で小腰を屈めて出て来る姿が、それといわずに降参に見えるのだが、そう見えないのはどうしてだろうか。
 碁立のノリも悪く、碁笥を井戸から取り上げる眼目の件も爽やかさを欠くのは、まだ手順のイキが身に付いていないせいか。樋で滝の水を引く時に、樋の筒先から紐の様なものが出るのも見悪い。水が流れるのをリアルに見せようとしたのだろうが却って嘘臭く、そうなるとこればかりか爪先鼠や倶利伽羅丸で滝に浮かぶ竜まで可笑しくなってしまう。
 真柴久吉と正体を現して鎧姿になってから意外に貧相に見えるのは、こういうリアルさに足を取られているからである。
 雀右衛門の雪姫はこの人の当たり芸であるが、今回は後半に問題が見える。まず最初の障子屋体の中での、御主人慶寿院を救おうか、夫狩野介直信を助けようかと迷うところは、両手を懐に柱に寄り掛かったところまで、亡父四代目雀右衛門のいいところをよく学んでまことにいい。
 しかし大膳と二人になって、大膳が倶利伽羅丸を滝に翳すところ、最初の帯を両手に持って後ろ向きになったきまりから、何回かのきまりがきっぱりせず、その分印象が曖昧になる。続いての爪先鼠は、四代目が独特の美しさを見せたところであり、前回はそれを引き継いでいたのだが、今回はそれがよほど崩れている。
 四代目には二つの特徴があった。一つは三段のドラマの展開が明確だったこと。もう一つは体の動きの独特の美しさ。まずドラマ三段の展開は、はじめは刑場へ引かれる直信との別れの悲嘆。二段目は敵は大膳ということを知らせたい。三段目がそれも出来ないからの爪先鼠。こうすると芝居も形もキッパリし、爪先鼠の奇蹟が絵空事でなくリアリティを持つ。これに限らず芝居の奇蹟は、奇蹟を起こす役の異常な精神の集中による。その盛り上がりが、非合理的な、およそ在りそうもない現象を舞台に現前させるのである。その精神の集中がない。
 もう一つの女形の美しさ。四代目は上半身と下半身を違う方向へ捩じって向けることで女形の美しさを巧みに表現した。それは身体的にはきついだろうが、そのきつさに耐えたところに四代目のユニークな美しさ、その美しさを支える精神の強靭さがあった。当代雀右衛門もそれを受け継いでいたが今度は普通になっている。
 かくして大膳、東吉、雪姫と個々にも問題を抱えながら、さらに三人のイキが合っていないのでバラバラになり芝居が盛り上がらなかった。
 慶寿院に福助が久しぶりに元気な姿を見せる。
 狩野介直信は、女形の吉弥が意外に柔らかなところにキッとしたところも見せていい出来。亀蔵の十河軍平実は正清は前半が強さが足りない。若い左近に鬼藤太は可哀そうである。
 「金閣寺」の後に長唄の「あやめ浴衣」。
 魁春の芸者、新悟のあやめ売り、鷹之資の船頭、歌之助の水売り、玉太郎の町娘。なかでは魁春の貫目と鷹之資の横顔が故人富十郎にそっくりになって来たのが目に付く。
 第二部になる。次代の團菊祭の施主ともいうべき海老蔵の、市川家伝来の歌舞伎十八番「暫」と、これも尾上家伝来の新古演劇十種の「土蜘」の二本立て。
 海老蔵の暫は、いつもの拵えで花道へ出たところ、そのニンのよさ、いう迄もない。つらねは久しぶりの歌舞伎座ということやオリンピックの開場式のことなど取り混ぜて、ファンへの挨拶になっているのは好例通りの歌舞伎の面白さである。しかしせりふ廻しが高音部一本鎗で単調である。
 本舞台へ来ると舞台真中へ行き過ぎる。ウケが上手へ行くから、つい暫が真中へ行がちなのは多くの暫の最近の傾向だが、そうなると舞台の中央を開けて役者は全員八の字になるという歌舞伎の空間構成の法則が破れる。この法則がなぜ大事かというと、そうすると役者の姿が美しく見えるからに他ならない。真中で正面になるとどうしても身分証明書の顔写真になって味も素っ気もなくなる。こういうところを原点に返って見直すことこそ現代の歌舞伎役者の責務ではないだろうか。
 正面になると美しさばかりでなく、空間の感覚が薄れて、力の強さ――荒事にとって最も大事な力感も失われる。現にその喪失感が幕外の引込みにまでつながって、「やっとことっちゃ」の引込みがうなり声ばかりで力の魅力が感じられない。暫のニンとして「随市川」の海老蔵だけに惜しい。
 左團次のウケがさすがに年功で立派。腹出しは右團次、吉之丞、九團次、市蔵と粒選り。その上座へ男女蔵の成田五郎が座って、見劣りがしなかったのはお手柄である。
 錦之助の太刀下が、抜き衣紋ピッタリのはまり役。ほおっておいてもそれと見える天晴れの本役。又五郎の鯰、孝太郎の女鯰。児太郎の桂の前、友右衛門の茶後見、家橘の家老、斎入の老女、千之助の小金丸、吉三郎以下の四天王まで。近来になく手揃いである。
 大薩摩は日吉小間蔵、杵屋巳太郎ほか。
 次が「土蜘」である。
 菊之助の土蜘が、前半フットライトを消していつもの花道の出に、柔らかさに凄味を滲ませるようになったのは長足の進歩。長「樹下石上」も凄味を隠して踊りの面白さを見せる様になって上出来。頼光に一太刀浴びせられての花道の引込みまで。松緑とはまた違う味わいであった。後ジテはさすがに隈取が顔に乗らず凄味を欠く。
 この「土蜘」も「暫」に劣らず手揃い。「暫」が豪華な顔触れの面白さとすれば、「土蜘」は菊五郎劇団らしいチームワークのよさである。
 まず菊五郎の頼光が足許は悪いがすることは天下一品。その柔らかさ。その品位、そのなんどりした味わい、その舞台の大きさ。父梅幸髣髴たる艶やかさである。
 続いて時蔵の胡蝶。又五郎が鯰からガラリと変わっての平井保昌。
 間狂言が、錦之助、権十郎、萬太郎の番卒に、小川大晴の石神、梅枝の巫子と手揃いで面白い。歌昇以下の四天王。その他、丑之助の太刀持ちが驚く程しっかりしている。菊五郎、菊之助、丑之助と三代の「土蜘」。長唄は勝四郎、巳太郎に、今度巳津也が巳三郎と改名しての披露狂言。
 第三部になる。
 最初は「市原野のだんまり」。
 梅玉が復活して今度が二度目の上演だが、あらためてもう一度整理すべきだと思った。というのは前半の常磐津の舞踊の部分が未消化で、だんまりになるのが中途半端だからである。
 だんまりならばだんまりで多少の状況の説明が必要であり、だんまりになってからも月が点いたり、消えたりするのが目まぐるしい。整理しなければ折角の役者の芸を見せるところがないのである。
 市原野の一面の薄の原。月影、笛を吹きながら現れる平井保昌。梅玉の保昌は、その品格、その高尚さが味わい深いだけに、このニンがもっと生きるシチュエーションが欲しい。
 隼人の袴垂保輔は、これだけでは何者とも知れず、かつ何で保昌を斬ろうと狙うのか分からず、観客は茫然とするばかり。
 莟玉の鬼童丸また然り。この人には丁度ピタリの稚児仕立てであるが、得体が知れず従って為所がないのも隼人同断である。
 役者が嵌り役だけにぜひもう一度手を入れて見たい。
 常磐津は兼太夫、一寿郎ほか。
 最後が「弁天小僧」。浜松屋と勢揃いの二幕。
 右近の弁天小僧はニンのことだけでいえば、今日弁天小僧をやる若手一番の嵌り役であり、それだけに期待して行ったががっかりした。花道へ出たところ、地が女形だけにどこから見ても娘そのもの。しかも自分のペースで自然にリアルにやろうとしているから、芝居がというよりも手順の面白さが際立たない。
 私は今度初めてこの役が徹頭徹尾ガラス細工の様に透明な作り物だということを痛感した。あの娘姿に浜松屋の番頭たちはじめ観客全員が騙されるリアルさが必要でありながら、その一方で玲瓏玉の如き虚構であり、幻想でもあり、そこに面白味がある。たとえば半襟を選ぶところ。自分で持って来た山形屋の品物をソッと事前に入れて置き、わざとそれを人目に立つ様に懐中して万引きと思わせる技巧。その細緻な芸の工夫。この紙一重の、それこそ虚実皮膜の呼吸が大事で、ただリアルにというのでは薄っぺらになる。あるいは男に変わる時、懐紙で口紅を拭いて置いて、その赤く染まった紙で、番頭に算盤で打たれた額の傷を抑えて置き、男と見顕された時に凄味の血と見せる。こういう手順の工夫とリアルに運ぶ芝居とがこの役にはある。ただなんでもリアルにすればいいという訳ではない。女と見せて男、お客と見せて騙り。番頭でなくとも「ヤアヤアヤア」である。筋を知っている観客もそれと承知で騙されているのだ。それを工夫を抜いていきなりリアルにしては身も蓋もない。リアルに見せるためには五分も透かない工夫が要り、その工夫が透明に見えた時にリアリティが生まれる。そういうところにこの役の面白味があることを今度痛感した。右近の問題もこの兼ね合いにある。たとえば「弁天小僧菊之助たァ俺がことだ」という名乗りにも今日は二手位無駄な動きがあり、それが自然に出てしまうところに問題がある。右近の弁天小僧はこの後表情が汚くなる。本当は女が男と分かって醜い筈の表情が却って美しく見えるというところにこそこの役の精髄があるのだ。
 巳之助の南郷力丸は右近に引き摺られた訳でもないだろうが、せりふがただ声が大きいというだけで味がない。
 浜松屋の収穫の第一は彦三郎の日本駄右衛門。せりふがしっかりしている上に聞かせもし、芝居でよく効いてもいる。
 第二に東蔵の浜松屋幸兵衛。ごく自然にしていて、南郷の「百両なれば知らぬこと」と聞いての、しっかりハラで受ける芝居などさすがにベテランである。この顔触れには勿体ない幸兵衛である。
 第三に橘太郎の番頭。ほどが好くて、自然な可笑し味があり、締めるところは締めていい。何回かの番頭手代たちの「ヤアヤアヤア」が揃って状況に応じて変わっていく具合は、この人の音頭取りの功績である。
 橋之助の鳶頭、福之助の宗之助。亀三郎の丁稚。
 二幕目が稲瀬川勢揃い。ここでも彦三郎の駄右衛門がよく、右近の弁天小僧はこの場は安定している。
 隼人の忠信利平、米吉の赤星十三、巳之助の南郷力丸はいずれも一通り。

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『渡辺保の歌舞伎劇評』