2022年8月歌舞伎座

勘九郎の進境

 八月の歌舞伎座は第二部が面白い。幸四郎と勘九郎の「安政奇聞佃夜嵐」と猿之助の舞踊「浮世風呂」の二本立てである。
 「安政奇聞」は、六代目と吉右衛門の当たり芸として有名だが、私は菊吉の舞台を知らず、この芝居をはじめて見たのは松緑と勘三郎の時であり、それは期待したほどではなかった。その後も今の菊五郎、吉右衛門で宇野信夫の改訂本で見たが、これも面白くなかった。ところが今度の今井豊茂の補綴・演出は、そのいずれよりも面白く、世話物らしい味わいに富んでいて、今月一番の出来である。
 その原因の一つは、久しぶりに見る勘九郎初役の神谷玄蔵が大きく進歩して、前半の細かい世話物の芝居の面白さ、イキが変わるとガラリと舞台の雰囲気が変わる具合、一度は青木貞次郎と別れて行く時の「達者でな」という目付きの複雑な思い入れの巧さがあるからである。ただ単に細部がリアルなというだけでなく、その芝居が世話物らしい芸になっているのがいい。
 本来ならば六代目や松緑や菊五郎のやった青木貞次郎が勘九郎で、初代二代と吉右衛門のやった神谷玄蔵が幸四郎というのが芸質からいえば正当な配役だろうが、それが敢えて逆になっているのも、勘九郎が新しい味を付け加えさせる契機になったのかも知れない。
 一方幸四郎の青木貞次郎も、松緑になかった柔らかさ、弱さを出していい。この新しいコンビは成功であった。
 序幕第一場佃島の寄せ場は、由次郎の元締め、延郎の平五郎の他は一体に手薄である。
 第二場塀外は、泳げる青木が泳げない神谷を肩に抱いて川を渡る有名な場面。ここはもう少し長く見たかった。そう思わせたのは二人の手柄、成功による。
 第三場深川南部河岸は、上州屋の倅半次郎が正体不明だが、ここで二人が駕籠かきを遣り込めるところがもっと手強く悪が効いて、芝居らしくなってもいい。
 第四場が御船蔵前の飯屋。ここは幸四郎、勘九郎共に巧く、萬次郎の飯屋の女房が傑作。木鼠清次は隼人。
 二幕目が甲州笛吹川の渡し場。幸四郎の青木貞次郎の愁嘆場で、さぞダレるだろうと思ったところが幸四郎が持ち切ったのは御手柄である。それには彌十郎の舅義兵衛がいいからでもある。米吉の女房おさよはさすがに手に余った。
 大詰、武田信玄の埋蔵金発掘の洞窟前。この台本で行けばここが一番の見せ場だが、青木貞次郎の親の仇が神谷玄蔵と知れての詰め開きは、軽くてアッサリ過ぎていて、それに比べて立ち廻りは長すぎる。捕り手頭は猿弥。
 続いてガラリと明るく変わって猿之助の常磐津の舞踊「浮世風呂」。舞台が湯屋だからという訳ではないが、猿之助の踊りが軽くあざやかで、さながら水の流れる如く、身体が変わって踊りの面白さを堪能させる。男から女へ、女から男へ、あるいは唄から浄瑠璃へ、「金毘羅船船」から「将門」、「廓噺」、「八島」、果ては「かっぽれ」と調子を変え品を変える面白さである。
 先代猿之助よりもあっさりと変わり身が軽く、あざやか。團子のナメクジも色気がくどくなく嫌味がない。猿之助が塩を撒くと花道スッポンへ消える時の、猿之助の少しずつ塩を撒く手付き、思い入れが面白い。常磐津仲重太夫、菊寿郎ほか。
 第一部は最初が手塚治虫原作、日下部太郎脚本「新選組」と舞踊「闇梅百物語」。
 私は漫画から芝居を作ることに反対ではない。面白ければすぐ芝居にすればいい。原作が漫画であろうが映画であろうが差し支えない。しかしそれには二つの条件がある。その条件は原作が漫画であろうが小説であろうが守るべき条件である。すなわちその一つは、人間が書けていること。人間が書けていなければドラマは成立しない。もう一つは、劇的状況がしっかり描かれていること。抜け穴があったらば困る。たちまち芝居がリアリティを失うからである。
 私は手塚治虫の原作を読んでいないから断定はできないが、この物語には大きな抜け穴がある。父を殺された青年が新選組に入って敵を探し、ついに敵を討つ。ところが今度は間者として斬った男の遺族から敵として付け狙われ、ついには親友とも決闘してこれを倒し、はじめて復讐の無意味さを悟るという物語である。ところがこの敵討ちをしたらば、討たれた側の遺族がまた復讐するのを「また敵」といい、徳川幕府はこれを禁止している。それでも再度復讐すれば、それは殺人として処罰されるのである。ということは青年がやっと辿り着いた復讐は無意味だという結論は、幕府によってとっくに法制化されていて、青年の一番の理解者は幕府ということになる。青年の斬った間者は青年の父とは無関係だから、厳密には「また敵」とはいえないかも知れない。しかし被害者が加害者になるという逆転は「また敵」を連想させる。私はこういう抜け穴が困るというのである。
 最初に父を殺された青年が父を「お父さん」といい、親友が青年を「何々ちゃん」と呼ぶのも耳障りだが、そういう細部から芝居がリアリティを失っていくのも問題だろう。
 青年は歌之助、親友は福之助、父の敵が亀蔵、青年の斬った間者の娘が鶴松、その恋人が橋之助。その一方近藤勇が勘九郎、土方歳三が七之助、芹沢鴨が彌十郎、坂本龍馬が扇雀。
 歌之助はじめ若い役者は、古典と違ってイキイキしている。漫画原作だけに芝居の展開がスピーディなのもいい。
 次が舞踊「百物語」。本来これは一人で踊るもので、十七代目勘三郎は、腰元白梅、唐傘の一本足、雪女郎、骸骨、読売、刑部姫の六役を一人で踊った。今度はそれを孫の勘九郎、七之助はじめ、橋之助らが分担して踊っている。そうなると各段がバラバラになって印象が散漫になる。やはりこれは一人の役者が変わって見せてこそ面白いのだろう。なかでは勘九郎の読売のかっぽれだけが見もの。常磐津は兼太夫、文字兵衛ほか、長唄が芳村伊四之介、杵屋五七郎ほか。
 さて第三部は幸四郎、猿之助の「弥次喜多」。杉原邦生構成、戸部和久脚本、猿之助脚本・演出である。
 序幕第一場奇怪ナ島は、「俊寛」の鬼界が島のパロディ。弥次喜多が孤島に流されていると、赦免船ならぬ海賊船が来て、その頭はジョニー・デップで瀬尾の穴を行く。結局海賊たちが島へ残って弥次喜多が脱出するという喜劇。といっても「俊寛」の段取りをそのままヒックリ返しただけで、芝居好きはいいかも知れないが、一般にはさして新鮮味がなく、したがって笑いも爆笑とはいかなかった。
 第二場が長崎出島の門前。ここへ島から弥次喜多が辿り着いて、「夏祭」の住吉神社の鳥居先になる趣向。弥次喜多が団七、徳兵衛のパロデイ。第一場同様新鮮味がないのは歌舞伎に頼り過ぎるからである。もっと広く喜劇や映画に学んで面白い爆笑ものを作って貰いたい。
 第三場が山崎街道でここで父親の博奕好きに悩む娘お夏を弥次喜多が救って幽霊芝居の一幕。今回の目玉の一つは、かつてからこのシリーズで若侍を演じて来た染五郎と團子が成長して、それぞれ若侍の役の他に赤毛のオランダ娘オリビアとこの娘お夏を二役早替わりで勤めること。この若者一対が終始弥次喜多に絡んで色取りになる。
 序幕の第四場は亀蔵の悪玉をめぐって全員大滝の水中の立ち廻り。それはそれで見せ場になってはいるが。
 ここで幕間になって大詰第一場は一転して現代になって湘南のファミリー・マートの店先。暴走族のグルーブが二組いて、一組が染五郎、團子の金髪の若侍組。もう一組が女ばかりのグルーブで頭が新悟に鷹之資、玉太郎の女形組。この二組が決闘の代わりに踊り比べで勝負しようとするところが面白い。今度の「弥次喜多」で一番の出来。ことに新悟の女形組が、長唄と竹本の掛け合いで「供奴」から「娘道成寺」まで古典を踊って圧巻。意外にも古典が目新しく新鮮に見えるのには驚く。この踊り比べの勝負の審査委員長はファミリー・マートの店長の寿猿。お前たちの先祖はもっと巧かったといった挙句に、テーブルごと花道から宙乗りになったのは仰天した。九十二歳の、しかもテーブルごとの宙乗りは前代未聞、年代記ものだろう。
 その後が湘南海岸の防波堤で、染五郎、團子の若侍が二役の娘に早替わりで二組のカップルの、ややこしいラブシーン。歌舞伎の早替わりを巧く使っているが、客席がもう一つドッと来ないのは、一つは演出の間とキッカケが悪いため、一つは若い二人の早変わりのイキがいま一つだからである。惜しい。
 この場が終わると歌舞伎座が経営難で売り立てをするという場面になる。ここが私にはとても後味が悪かった。結局外国人がホテルにするために買い取るというのを、天照皇大神が救って歌舞伎座は安泰。幸四郎染五郎、猿之助團子四人の宙乗りで目出度し目出度しのフィナーレになるが、いくら絵空事の茶番、洒落の喜劇とはいえ、目の前で歌舞伎が滅び、歌舞伎座が売り立てられて行くというのは縁起でもない。というよりもそういう話を平気で演じている人たちに、歌舞伎への愛情が感じられないのに、私には嫌な気がした。そういうのは野暮かもしれないが、歌舞伎は芸の内容から見て今や決して安泰ではない。そういう危機感がないのだろうか。しかしそういう現実を目の当たりにしている私には、仮にも歌舞伎が滅びるの、歌舞伎座が無くなるのという話を、当の歌舞伎に携わっている人が、折角歌舞伎を見に来てくれている人の前でやってもいいのだろうかという思いがした。

  

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『渡辺保の歌舞伎劇評』